第7話
あれから、一度も先輩に会わないまま夏休みが終わった。
兄とも、必要最低限の会話しかしていない。
「水瀬、また声が出なくなったって」
夏休みの中旬くらいだろうか。
一度だけ、兄から先輩のことを聞いた。
それを聞いたときは流石に申し訳ないと思って会いに行こうかと思ったが、どうしても足が動かなかった。
小説投稿サイトのアカウントも消そうと思ったが、たくさんのコメントを見て、どうしても退会ボタンがタップできなかった。
時は流れ、文化祭の初日。朝起きると、勉強机の上に書き置きがあった。この達筆は、兄の字だ。
『水瀬が文芸部の部誌、読んでほしいって言ってた』
重い足どりで学校に向かう。
僕の心境とは裏腹に、学校全体は浮かれた空気が漂っていた。
僕のクラスはお化け屋敷をするらしい。夏休み中も準備を重ねてきたらしく、一度も準備を手伝いに行かなかった僕は、教室に本格的な小道具がたくさんあって驚いた。
一緒に回る友達もいなければ、部活にも入っていない僕は、店番をする時間帯以外、することがなかった。だから、とりあえず文芸部を覗いてみることにした。
北校舎の隅の部室に向かう。
先輩がいたらどうしようかと思っていたが、いなかった。
「ありがとうございまーす」
愛想よく微笑む女子生徒にお金を渡し、向日葵みたいな鮮やかな黄色の表紙のそれを手に取る。
背中を汗が伝ったので、とりあえず、冷房のきいた図書室に避難することにした。
図書室には、司書の先生以外誰もいなかった。『図書委員のおすすめの本紹介』と書かれたコーナーを横目で見ながら、本棚の間に置かれた椅子に腰を下ろす。
A4サイズの冊子を開き、先輩の名前を探した。
『私の罪 水瀬彗』
部誌に出すって言っていたからてっきり前に見せてもらった小説だろうと思っていた僕は、その文字を見て、心臓が跳ねたのがわかった。どうやら、これは先輩自身のことを書いた話みたいだ。
僕はゆっくりと、ページをめくった。
話すのが苦手な子どもだった。
小学生の頃、髪を切ってきた友達がいた。
でも、明らかにその髪型は彼女に似合っていなかった。それを正直に伝えると、次の日から、誰も口をきいてくれなくなった。
その時、自分は空気というものが読めないのだと気づき、言葉を発するときは細心の注意を払おうと思った。
中学生の時、こんな私にも仲良くしてくれる親友、と呼べる存在ができた。
ただ、彼女は自己肯定感がかなり低い子だった。自分の容姿、成績、運動神経。何から何まで周りより劣っていると思い、死にたい、と何度も何度も言っていた。私は彼女にそんなことないと声をかけた。そのままの貴方が好きだと。生きていてほしいと。だが、その子はある日、大量の薬を飲んで救急搬送された。幸い、命に別状はなかったらしいが、それは、私にトラウマを植え付けるのに十分な出来事だった。
自分のせいで彼女は死のうとしたのかもしれない。自分の言葉が、彼女を追い詰めたのかもしれない。
その日から喋るのが怖くなり、だんだん口数が減り、いつしか、声が出なくなっていた。
季節は移ろい、私は高校生になった。普通、心因性失声症は一週間から数ヶ月程度で治るらしいが、私の声は依然として出ないままだった。ストレスをできるだけ和らげる効果があるから、と医者から日記を書くことを勧められ、毎日自分の思いを綴っていった。日記帳に向き合っているときだけは、心が軽くなるような気がした。
元々本が好きだったこともあって、私は文章を書く楽しさにめざめ、文芸部に入った。
部活に入っても、喋らない私に友達はできなかったが、部長だけは、みんなと何も変わらないように私に話しかけてくれた。
私の過去を話すと、部長も、自分の抱えているものを話してくれた。本当はそんなに明るい性格じゃないのに友達にあわせていることや、親の期待が辛いこと。だが、部長が一番悩んでいることは、弟との関係についてだった。吃音、という障がいのせいで心を閉ざしている弟をどうにか救ってやりたい。もしかしたら俺たちみたいに、小説を書くことで心が軽くなるかもしれない。でも、あいつは多分俺のことを嫌っているから、俺がいた文芸部には入りたがらない。どうにか救ってくれないか。切実な部長の目に、私はとりあえず、彼をモデルにした小説を書いてみることにした。どうか、彼の心が軽くなりますように、と願いながら。
彼と会ったのは全くの偶然だった。
部長から、弟さんの写真を見せてもらったことはない。でも、静かな海みたいな孤独を宿した瞳をみた瞬間わかった。部長に彼と会ったことを話し、私が同じ学校にいることは秘密にすることになった。私がずっと彼のことを知っていたとわかったら、多分彼は心を開いてくれないと思ったからだ。
彼は常に何かと戦っているみたいだった。
どう話しかけようかと逡巡していると、彼の方から話しかけてくれたので驚いた。
話の流れで彼に小説を読んでもらうことになった。
彼は、目に涙をためて感動したと言ってくれた。もしかしたら、今度こそ私は救えるかもしれない。そんな思いがよぎり、彼に小説を書くことをすすめた。
彼の小説を読んだときは驚いた。まだ荒削りだが初めて書いたとは思えない繊細な心情描写。自分の今までの生き方を肯定してくれたような気がして、気づけば涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
彼と一緒に遊びに行ったとき、楽しいってこういう気持ちだったと思い出した。自分には縁が無いと思っていた青春の二文字が頭に浮かんだ。
今まで喋れなかったのが嘘のように、自然と声が出た。
その時気づいた。ずっと、自分が彼を救おうと思っていた。でも、違った。
救われていたのは私の方だった。
だけど私はまた、選択を間違えてしまった。きっとあの言葉は、言ってはいけなかった。
彼の傷ついたような顔が頭から離れない。
私は、どうすればよかったのだろう。
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