第6話

 僕が海を見つめていると、突然先輩が靴と靴下を脱いで、裸足で走り出した。

 彼女は振り返って弾けるような笑顔で僕に手招きする。紺のプリーツスカートが風でひるがえる。

 おずおずと先輩の側に行くと、先輩は手で透明な水をすくって僕にかけてきた。

 水しぶきが跳ねて真珠みたいに輝く。

「わっ、な、何するんですか」

 そんなことを言いながらも、声が弾んでいるのが自分でもわかった。

 汗でべたついた肌に感じる冷たさが心地いい。


「あ、あ、ありがとうございます」

 白い歯を見せて笑う先輩の横顔を見ていると、そんな言葉が零れた。

 先輩は不思議そうに首をかしげる。

「せ、先輩のおかげで毎日、楽しいです」


「私も」

 不意に風鈴の音みたいな涼やかな声が聞こえた。誰だろうと思って辺りを見回しても、僕達の他には誰もいない。まさか、と思って先輩の方を見る。彼女の瞳は、海を映して煌めいていた。長いまつ毛が、一本一本光を受けて朱色の頬に影を落とす。

「せ、せ、先輩。い、今、声が」

「え?」

 僕の言葉に彼女は目を見開いて口を押さえる。

「うそ、私、喋れてる?」

 信じられないといった様子で何度も声を出している。

「よ、よ、よかったですね」

「……蒼君のおかげ。ありがとう」

 先輩はそう言って大輪の向日葵のような笑顔を見せた。

「そ、そんな。ぼ、僕はなにも」

 先輩はゆっくり首を振る。

「私は、君に救われてるんだよ」

 その時、何故か先輩が泣きそうに見えた。

 

「お礼に蒼君も私に水かけていいよ」

「え、い、いや、それは」

「なんで? 作中で葵たちもしてたでしょ」

 そんなやりとりをしていると、不意に、これってもしかして、憧れていた青春じゃないのかという考えが頭をよぎった。

 僕が一人で喜びをかみしめていると、

「海って、透明だから綺麗だよね」

 唐突に、独り言みたいに先輩はそう零した。先輩は、こういうところがある。そこが、彼女の魅力なんだけれど。

 彼女は、僕の答えなんて期待してないみたいに、海に溶けて滲む夕日に手をかざす。指の隙間から、緋色の光が漏れている。

 「喋れるようになるってうれしいね」と海を見つめたまま言った先輩は、そろそろ帰ろっかと振り返った。

 上を見上げると、薄い月と一番星が見えた。



 僕の高校は、夏休みが始まっても三日間の補習がある。

 この制度、廃止にしてくれないかなと思いながら授業を受け、チャイムと同時に教科書をリュックサックに押し込んで席を立った。

 廊下を歩く自分の足が軽いのがわかる。

 昨日の体験をもとに修正した小説を、先輩に読んでもらうためだ。

「お、鳴海来た」  

 だから、気づかなかった。足元に伸びる数本の影に動きが止まる。

「ねー、今日はこれ読んでよ」

 「羅生門」のページが空いている古典の教科書を渡される。自分の顔がどんどん色を失っていくのがわかる。

「動画撮ろ」そんな声が聞こえて、輝くビーズや宝石みたいなシールに彩られたスマホを、女子たちがこちらに向ける。

 足が震えた。逃げ出したいと強く思った。ここで逃げ出したら、きっと楽だろう。辛い思いも、恥ずかしい思いもしなくて済む。

 出し抜けに、先輩の顔が頭に浮かんだ。

 

『今までの経験全部を武器にすればいい。辛かったことも悲しかったことも全部、小説に使ってやるって』


 そうだ。全部小説に使えると思ったら何も怖くない。僕は大きく息を吸った。

「よ、よ、よ、読まない。も、も、もう、こんなことやめてくれないか」

 まさか僕が反論するとは思わなかったのだろう。突然の大声に彼らは呆気にとられたようにこちらを見ている。

「ひ、ひ、人のこと笑う暇があるなら、じ、自分のこと、気にしたほうがいいと思うよ」

 そう告げて固まっている彼らの横を通って歩きだした。

 ふと視線を感じた気がして顔を上げる。

 見開いた黒曜石みたいな瞳と、目が合った。

 夜を溶かしたみたいな長い髪。透けるような白い肌。

「……せ、先輩。ど、ど、どうして」

 見られた。よりによって先輩に。

 先輩は口を開いて何か言いかけた。

 僕はそれを聞くことなく走り出した。

「蒼君っ! 待って!」

 先輩が走って追ってくる音がする。

 校門を出て暫く進んだところで、僕は足を止めて振り返った。

「……し、し、知ってたんですか? お、おお、同じ学校、だったって」

 僕の言葉に先輩はひどく狼狽えたように視線を落とした。その沈黙が答えだった。

「しっ、知ってて、ど、どうして黙ってたんですか。う、嘘までついて、どうして、か、かく、隠してたんですか」

「違う、君が傷つくと思って」

 先輩の言葉が、硝子片のように胸に刺さった。

 それは、僕が孤立しているところを、揶揄われているところを、ずっと見ていたってことか?

 先輩は、それを僕が知ったら悲しむと思っていた?

 僕は、ずっと同情されていたのか? 

 同じ苦しみを抱えていると思っていたのは僕だけだった?

「ぼ、ぼ、僕には、せせ、先輩が、何をしたいのかわかりません。も、もう、先輩と話したくないです」

 それを言うのが精一杯だった。僕は踵を返し、家に向かって走った。


 家に帰り、音を立てて階段を上り、乱暴に兄の部屋の扉を開けた。

「え? どうした? 蒼」

 布団の上で漫画を読んでいた兄は、驚いたような視線を僕に向ける。

「な、な、何で、う、嘘なんかついたんだよ」

「嘘?」

「み、水瀬先輩だよ! ほ、ほん、本当は、し、知ってたんじゃないのか」  

 思えば、少しおかしいと思うことはあった。

 兄は文芸部は人数が少ないからすぐわかる、と言っていたのに、水瀬先輩のことを尋ねたときに考えこんでいたり。

 水瀬先輩がすぐに僕の下の名前をよんだのも、兄と知り合いで、区別をつけるためだとしたら、納得がいく。

 僕の剣幕に、一瞬兄は言葉に詰まった。

「……蒼のためだと思ったから」

「い、いい意味わかんないよ」

 僕は、兄にも同情されていたのか。それならいっそ、揶揄われるほうがましなくらいだ。淡々としている兄を見て、怒りが抑えられなくなった。

「い、いいいいよな、兄ちゃんは。あ、あ、頭も運動神経もよくて、僕とは違って普通に話せて」

 ずっと思っていたことを棘のある言葉にして、兄にぶつける。なぜかつっかえずに言葉がすらすら出てくる。

「どうせ悩みなんてないんだろ。全部もってる人が、小説なんて書くなよ!」

 僕の言葉に兄は立ち上がった。目が合う。

 彼の瞳には、はっきりと怒りの色が滲んでいた。

 ゆっくり口を開く。

「……なんの悩みもなく能天気に生きてるやつが、小説なんて書くわけないだろ。誰にも言えなくてどうしようもない感情を形にするために書いてんだよ」

 滅多に怒ることのない兄が、声を荒げる。「お前、俺の気持ちなんて考えたこともないだろ? そりゃ、お前が辛いことぐらいわかるよ。でもな、何もわかってないくせに、知ったようなこと言ってんじゃねえ」

 兄の言葉は、いつだって正しい。

 だが、頭に血がのぼっていた僕はそれを認めたくなくて、荒々しく兄の部屋を出た。

 

 

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