第5話
『蒼君。大丈夫?』
3日後。僕が小屋に入るなり先輩は大学ノートを見せた。
毎日かかさずにここに来ていた僕が、いきなり来なくなったから、心配してくれたのだろう。
「す、す、すいません。ちょ、す、少し忙しくて」
本当は「ちょっと」と言おうとしたが、言いにくくて「少し」と言い換える。
『もしかして、これを書いていたから?』
先輩はそう書いてスマホの画面を見せる。
そこには、僕が昨夜完結させ、投稿した小説が表示されていた。
『これ、すごいね。主人公の心情の変化がリアルで感動した。主人公って、もしかして自分をモデルにしてる?』
先輩の言葉に僕は頷いた。生きづらさを抱える少年が、少女と出会って変わっていく話。
投稿してから、宣伝も何もしていないのに、すぐに閲覧数が二桁を超えた。多分、先輩のフォロワーの人たちが読んでくれたんだと思う。たくさんの共感のコメントが寄せられた。特に主人公が悩み、葛藤するシーンが好評で、「辛いのは自分だけじゃないんだと分かって救われました」というコメントがきたときは、泣きそうになった。
僕はあの日起こったことを先輩に話した。消えたいと思ったことも。
「で、で、でも、つ、伝えるのを諦めたくないと思ったんです。か、か、書いてると、じじ自分の気持が昇華されたみたいになって、う、う、上手く言えないけど、こ、ここ、心が軽くなりました」
先輩は、僕の目を見て頷いた。
『うん。今までの経験全部を武器にすればいい。辛かったことも悲しかったことも全部、小説に使ってやるって』
『でも……不快に思ったらごめんね』と先輩は真剣な表情で続ける。
『この二人が遊びに行くシーンだけちょっと不鮮明だと思う』
「そ、そ、それは、僕の願望なので」
どうやら僕は経験したこと以外は書けないみたいだった。
「こ、こんな、せ、青春してみたかったなって」
言ってて頬が赤くなってくるのが分かった。
『じゃあ、私と再現してみる?』
「……え?」
再現ってつまり、一緒に遊びに行くってことだろうか。
『今日から夏休みだし』と先輩は続けた。
その言葉に、先輩の学校も今日から夏休みなんだ、と思って、ふと気になった。
疑問が声になる。
「せ、せ、先輩は、どこの、高校ですか?」
先輩の動きが止まる。顔がこわばったのがわかった。
聞かれたくないことだったかもしれないと焦る。
質問を取り消そうとすると、『市内の高校』と先輩は視線を落としたまま打ちこんだ。
少し気まずくなってしまった空気をかき消すように『まずは作中で葵たちが飲んでるラムネを買いに行こうか』と、取り繕うように笑って、先輩は立ち上がった。
ラムネを買うために商店街にある駄菓子屋へ向かう。ちょうど今日は、僕も先輩も自転車で来ていたので、乗っていくことにした。
遠くでスクーターが走る音がする。肌にまとわりつく熱風を切って、僕達は自転車を漕いでいた。物語の中で彼らは二人乗りをするのだが、リアルだと道路交通法違反なのでそこは流石に再現しなかった。
ここから商店街までは、自転車でニ十分くらいだ。やっと坂道を上り終え、漕ぐのをやめると、重力に従って自転車のスピードが加速していく。風で前髪が舞い上がる。抜けるように青い空に、手が届きそうな気がした。次々と目に映る景色が変わっていく。前を走る先輩の一つにまとめた黒髪がなびく。
映画のワンシーンみたいだと思った。頬に触れる風が気持ちよくて、思わず笑みが零れる。
自転車から降りて商店街のアーチをくぐった。暫く歩くと、この町に唯一ある駄菓子が見えてくる。
邪魔にならないように自転車をとめて、店内に足を踏み入れた。壁に接する四方の棚の上から下まで、グミや飴やスナック菓子、玩具で所狭しと埋め尽くされている。
先輩は物語の中で主人公たちが飲んでいるラムネ瓶を二本持って会計を済ませ、戻ってきた。
手渡されてお金を渡そうとすると、いいよ、と口だけで言って彼女はひらりと手を振った。
駄菓子屋を出た後、今度は駅に向かって自転車を押しながら黙々と歩き続け、商店街を抜けた。
先輩は喋れなくて、僕は喋るのが苦手なので、物語の中の彼らのように会話が弾んでいる訳では無い。だが、その沈黙が心地よかった。
枯れかけた向日葵畑を横切り、使われていないバス停の前を通る。
不意に、先輩が立ち止まり、弾けるような涼しい音を立ててラムネの蓋を開けた。透明な瓶が太陽を反射して宝石みたいに輝く。彼女は爽やかなその液体を口に含み、『相変わらず夏みたいな味がする』と登場人物と同じセリフを書いて笑った。
『ラムネってさ、多分ペットボトルとかに入ってたら特別美味しいとは思わないんだけど瓶に入ってるだけですごく美味しく感じるよね』
「あ、わ、わかります。あ、あ、あの見た目で、さ、三割増しで、おお、美味しく感じます。あ、後、なな、な、夏と、相性いいですよね」
『確かに。何故か夏になると買っちゃうよね』
僕も蓋を開けて透明な液体を流し込んだ。夏を閉じこめたみたいな味がした。
さびれた駅に自転車をとめて、電車に乗った。海に行くためだ。
差し込む西日が眩しくて手で庇を作りながら窓の外に目をやると、マンションやショッピングモールが少しずつ少なくなり、緑の多い風景がゆっくりと流れてきた。藍色に塗り替えられていく空が映る透明な川。青々とした稲に埋め尽くされた水田。色の剥げた看板。三十分ほど電車に揺られ、僕達は無人の駅で降りる。潮の匂いを微かに感じた。
降り注ぐような蝉時雨を聞きながら、細いあぜ道を歩く。夕方とはいえ七月だ。風もなく照り付けるような暑さに汗が首筋をつたう。
そのまま暫く歩くと、波の音が聞こえた。
そして、視界が開ける。
「……綺麗だ」
自然とそう零れた。
沈んでいく夕日を呑んで、波頭が金色に輝いている。遠い海は、どこまでも澄んでいた。
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