第4話

 朝起きて、手に透明な水をため、顔をつける。その冷たさが頬に触れた瞬間、まだ半分寝ていた頭が一気に覚めた。

 眠気が飛んだ瞬間、頭に心臓の音が直接響くのを感じた。胃にも、掴まれたような痛みがはしる。


 靴紐に触れる手が微かに震え、中々結べない。

 学校に、行きたくない。

 はっきりとそう感じた。

 いつも感じていることだが、今日だけはどうしても行きたくなかった。

 何故なら今日は「あの日」だから。

 仮病を使って休もうかと考えたが、兄がいる今、色々聞かれるのが目に見える。それはもっと憂鬱だった。

 僕はため息をついて、ドアを開けた。


 「じゃあ今日は19日だから19番の人から一段落ずつ読んで」 

 古典の教師がそう言った瞬間、その場を逃げ出したい衝動に駆られた。この先生は必ず日付で生徒を当てる。僕の出席番号は19番だった。

 深呼吸を数回し、大丈夫、落ち着けと自分に言い聞かせて立ち上がる。椅子を引く音が不自然なほど大きく響いたような気がした。

「ら、ら、ら、ら……」

 はじめの言葉が出てこず、何度も詰まる。

 音読は、言いにくい言葉を言い換えることができないから特に苦手だ。

 どこかで小さな笑い声がした気がした。

 その後も何度もつっかえながら読み続けると、みんなは目配せし合って「まただよ」と馬鹿にするようなにやついた顔をする。その顔を見ると、胸の底が冷たくなって、息が止まる。消え去ってしまいたいと感じる。

 限界を感じた時、先生に「鳴海、もういいぞ」と止められた。

 崩れるように椅子に座り込んだ。上手く息が吸えずに浅い呼吸を繰り返す。

 それから僕は、授業が終わるまでずっと俯いていた。


 終業を告げる鐘が鳴るなり僕は教室を飛び出した。男子トイレに駆け込み、個室の鍵をかける。前髪がぐっしょり濡れてしまうほど冷や汗をかいていた。心臓は、まだ暴れている。

「さっきの時間の鳴海、やばくなかった?」

「いやあれはひどい。『ら、ら、ら、羅生門』どう? 似てね?」

 外から笑い声が聞こえてきて、吐きそうになった。

 もしも、僕が普通に喋れていたら。

 たとえば授業中に当てられても、どもるのが怖くてわざと答えなかったりなんてしない。

 休み時間は普通に友達と他愛ない話をして、誰にも喋り方を馬鹿にされたりしない。

 吃音さえなければ当たり前だったかもしれないことが頭を支配して、僕はその場にうずくまった。


 帰りのHRが終わった後も、僕は暫く教室から出られないでいた。

 吹奏楽部が練習している音を聞きながら、グラウンドで練習している野球部をぼーっと見つめる。

 部活に入るのはとっくに諦めていた。部活に入ったら、必ず人と話さなきゃいけなくなるから。

 もしも吃音じゃなかったら、僕もあんな風に部活に入って、青春というものを体験することができていたんだろうか。

 いや、もしもを考えても仕方がない。

 だいぶ人も少なくなってきたしそろそろ出ようと立ち上がる。

 オレンジ色に染まる廊下を歩いていると、女子生徒が少し前を走って横切った。夜を溶かしたみたいな綺麗な黒髪がふわりとなびく。その後ろ姿が、先輩と重なって見え、そんなわけないと思いながらも後を追った。

 だが、角を曲がると、彼女は見えなくなった。仕方なく、そのまま下駄箱に向かって歩く。

「……っ」

 頭に衝撃がはしって顔をしかめる。俯いて歩いていたせいで、誰かにぶつかってしまったみたいだった。

 すみません、と言おうとして顔を上げると「あー、鳴海じゃーん」と嘲るような声が聞こえた。

 制服を着崩した数人の男女がにやにやと嫌な笑みを浮かべてこちらを見ている。確か、真ん中にいるのはうちのクラスの所謂一軍の中心にいる男子だ。

「もしかして、この人が例のやばい喋り方の人?」

「そうそう。今日の授業中もやばくてさ。『ら、ら、ら、羅生門』ってまじでこんな感じ」 

「やば。ねー、なんか言ってみてよ」

 一人の女子が顔を覗き込んできた。化粧と香水の匂いに顔が強張る。

「鳴海君? っていうの? 自分の名前とかでいいからさ。ほら早く」

「は、や、く」と全員からコールされ、冷や汗が頬を伝う。

「な、ななな、なる、るる」

 僕が言いかけると、彼らは堪えきれないといった様子で吹き出した。

「えー、自分の名前言えないとかやばくない? ウケるんですけど」

 目に涙を浮かべて爆笑している彼らの横を走って通り抜け、校舎の外に飛び出した。

 

 全力で走る。顔が熱い。消えたくてたまらなかった。

 目の前で踏切の遮断機がしまる。ふと、このままつっきってしまおうかという考えが頭をよぎった。今僕が死んだら、あいつらは反省するだろうか。いや、しないだろうな。僕の存在なんて一週間もすれば忘れて、何もなかったみたいに笑ってるんだろう。

 悔しくてたまらなかった。

 僕はそのまままっすぐ家に帰り、スマホを開く。

『小説なら、登場人物たちが声を貸してくれる』

 先輩の言葉を思い出した。

 僕は溢れそうになる激情をこめるように、文字を打ち込んだ。


 


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