第2話
吃音。話す際に言葉が滑らかに出てこない発話障害のことだ。
「ぼ、僕は」のように言葉の一部を繰り返す連発。「ぼー僕は」のように言葉の一部を引き延ばす伸発。「……っ僕は」のように言葉の初めの音が出てこない難発という三つの症状がある。
僕は主に連発の症状が出ることが多い。
だが、明らかに他とは違う僕の喋り方を聞いても、先輩は何も聞かなかったし、表情一つ変えなかった。普通、僕と話した人は、からかってくるか、同情の目を向けるか、関わりたくなさそうな顔をするかの三択なのに。
不思議な人だと思った。
年季の入った木造の古家の扉を開け、誰もいない家に小さな声でただいま、と呟く。吃音は、ひとりごとでは滅多に症状が出ない。
ふと、玄関に見慣れない靴があるのに気づき、首を傾げた。
「おー、おかえり蒼」
耳なじみのある声が聞こえ、肩が跳ねる。
「に、兄ちゃん、帰ってたんだ」
大学生で一人暮らしをしている兄が奥の部屋から顔を出し、手をひらひらと振った。大学はもう夏休みだから、久々に帰ってきたらしい。そういえばそんな連絡来てたっけなと思い返す。
「今日も学校だったんだな。夏休み、いつから?」
「ら、ら、来週から」
「そっか。最近どうだ? 高校、楽しい?」
「ま、ま、まあ、ふ、普通に」
「吃音。治す練習してんのか?」
真剣な顔でそう聞く兄を見て、言葉に詰まった。
正直、兄のこういうところは少し苦手だ。まっすぐ、悪意なく、触れてほしくないところに触れてくる。
「ま、まあ」
曖昧に首を振ると、兄は眉をひそめた。
「やらないと、いつまでたっても治らないぞ。怖がらずにたくさん話すことが大事だって先生も言ってただろ?」
兄の言葉にへらっと笑って頷くと、僕は兄の横を通り抜けて二階の自分の部屋へ駆けあがった。
本棚から本を数冊抜き取り、開く。
「……青く澄んだ空に輪郭のはっきりした入道雲」
冒頭の一部を声に出して読んでみる。一人でならすらすら読めるのにとため息をつく。
出し抜けに、今日の現国の授業がフラッシュバックして本を持つ手が震えた。
言葉が続かなくなって、敷きっぱなしの布団の上に本を投げ出し、自分も倒れこんだ。手のひらを見ると、じっとりと嫌な汗をかいている。
多分兄は、僕のことを恥ずかしいと思っている。
兄は僕とは違って、活発で、勉強も運動もできる人気者だった。
完璧に見える彼の唯一の欠点が、僕。
人気者はやっかみも受けやすいのだろう。兄が僕のことでからかわれているのを何度も目にしたことがある。
そのことについて兄は何も言わなかったが、吃音を治すようにと顔を合わすたびに言われるようになった。それでこうしてたびたび練習しているが、効果はあまり感じられない。
兄のようになりたいなんて言わない。だから、せめて普通に喋れるようになりたかった。
そしたら、誰にも迷惑をかけなくて済むのに。
夕飯だと呼ぶ母の声で目が覚めた。いつのまにか、眠っていたらしい。
机の上には、味噌汁とご飯、焼き魚、菜の花の和え物がおかれている。
僕は黙って席に着き、いただきます、と手を合わせて食べ始めた。
先に食べていた兄が、ご飯を口に入れながら「母さん、蒼に吃音を治すトレーニングちゃんとさせてる?」と尋ねる。
母は「蒼の好きにさせたらいいじゃない」と台所から答えた。
母も父も、基本的に僕にあまり口出ししない。多分、出来損ないの僕よりも気にするべきことがたくさんあるからだと思う。
「それより緋色。大学生活はどう?」
「楽しいよ。友達もできたし」
「遊んでばっかりじゃなくて、勉強もしなきゃだめよ?」
「わかってるよ。留年しない程度には頑張りまーす」
おどけてそういう兄に、母は呆れたように笑う。
こういうときいつも、思う。透明人間になれたらいいのにと。
心の中の黒い靄を振り払おうと、今日あったことを思い返していると、水瀬先輩の向日葵みたいな笑顔が頭に浮かんだ。
そういえば、先輩は文芸部だって言ってたっけ。
元文芸部の兄が何か知ってるかもしれないと思い、聞いてみることにした。
「に、にに兄ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど……、こ、こ、高校のぶ文芸部に、みみ、水瀬彗って人、いた?」
僕の言葉に兄はしばらく考え込むように斜め上を見た後、「いやー……いなかったと思うけど。人数少なかったからいたらわかると思うし。急にどうした?」と言った。
そっか。学校違うんだ。少し残念な気持ちと、安堵が入り混じったような不思議な気持ちになった。無意識に、学校でのひとりぼっちでいる姿を先輩に見られることを、恐れていたんだと思う。
なんでもないと首を振って、ごちそうさま、と僕は席を立った。
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