声を紡ぐ

吉野なみ

第1話

 透明人間になりたかった。

 夕方なのに沈む気配のない太陽が照り付ける帰り道。

 雑貨屋のショーウィンドウに映った半透明の自分を横目で見る。いっそそのまま消えてくれと願いながら。

 嫌な記憶は、閉じ込めようとすればするほどじわじわと頭の中を支配していく。

 頭に響く心臓の音。不自然な沈黙。突き刺さる好奇の視線。押し殺した笑い声。

 酸素がうまく取り込めなくなって、咳き込んだ。肩で息をしながら顔を上げると、紺がなじみだした緋色の空が視界に映った。

 

 僕は駆け足で「あの場所」に向かった。

 そこだけが、僕が息ができる場所だから。


 近隣住民御用達のスーパーまで来て、駐車場を抜けて裏に回ると、視界が開けた。鮮やかな緑の芝生が生い茂る公園に、ぽつんと木造の小屋が建っている。遊具も何もないだだっ広いだけの公園。親が買い物をしている間子供が遊べるようにと作られたらしいが、ほとんど人がいるのを見たことがない。


 僕はまっすぐに小屋まで歩み寄り、戸を開けた。正面に大きな本棚があり、上から下までぎっしり本が詰まっている。子供が読むのを想定して選んだためか、児童書が多い。その中から数冊抜き取って中央にある机の上に本を置き、椅子に腰かける。

 本を読むのは好きだ。現実を忘れられるから。


 本を開いた瞬間、物音がして戸が開いた。


 入ってきたのは、同い年くらいの、きれいな少女だった。

 ビー玉のような透き通った瞳が僕を映す。

 彼女は僕に軽く会釈をすると、何も言わずに僕の斜め前の椅子に座り、鞄から文庫本を取り出して読み始めた。僕も軽く頭を下げて本に目を戻す。


 彼女がここを訪れて今日で一週間。その間僕は一度も彼女と会話をしていない。

 

 最初彼女が入ってきたときは何か話をしなければならないのかと思って身構えたが、声をかけられなかったので安心した。本のページをめくる音と、外から聞こえる蝉の声しか存在しない空間は心地よかった。


 首筋を汗が伝ったのでいったん本を閉じた。この部屋にはエアコンがないので、この季節をここで過ごすのは、温度的にはあまり快適ではない。

 彼女のほうを盗み見ると涼しい顔で本を読んでいる。一人だけ冬に生きているといわれても信じてしまいそうな、どこか浮世離れしたところが彼女にはあった。


 唐突に、彼女のことを知りたいと思う気持ちが押し寄せた。気づけば僕は口を開いていた。

「あ、あ、暑く、ないんですか?」

 口にした瞬間、やってしまったと思った。

 全身からどっと汗がふき出す。緊張と後悔で涙まで出てきそうになった。

 

 彼女は僕の声に顔を上げると、普段と変わらない表情で頷いて、本に目を戻した。

 あまりに普通の反応に、拍子抜けする。

 呆気にとられたまま、彼女を見ていると、彼女は本にしおりを挟んで本を閉じ、鞄から大学ノートとボールペンを取り出して、何か書きだした。


『本、好きなんですか?』

「えっ……は、は、はい」

 なぜ喋らないのだろうと疑問に思いながらも答える。

 すると彼女はスマホを取り出して、僕に差し出した。

『よかったら、これ読んでくれませんか?』

 文字が羅列された画面を見て、Web小説だとわかる。

 僕は言われるがままそれを受け取り、読み始めた。



 視界がぼやけた気がして、瞬きをした。

 いつのまにか、頬が濡れていた。


『どうでしたか?』

 顔を上げた僕を見て、不安そうにノートを顔の前に持ってくる彼女に、僕はすごくよかったと正直な感想を話した。透明感のある文章に、温かいストーリーと優しい世界観。

 そしてなんといっても、キャラクターのセリフに感動した。

「と、と、とくに、夕夏先輩の最後のセリフは、な、なな泣けました」

 

『もし、この世界に言葉がなかったらって考えたことはある?』

 人と上手くコミュニケーションが取れず、落ち込んでいる主人公に、文芸部の夕夏先輩は問いかける。

『言葉がなければ、傷ついたり、死にたくなったりすることはなかったかもしれない。でもね、それと同じくらい、私たちは言葉に救われてると思うの』

 その言葉に背中を押され、主人公は人と向き合うことを決意する。


 そう、確かに言葉があるせいで、嫌な思いをたくさんした。でも同じくらい本や音楽の歌詞に救われてきたのも事実だ。

「き、きっとこの話の作者さんは、とても、つ、強くて、優しい人だと思います」

 僕の言葉に、彼女は初めて笑った。

 向日葵みたいな笑顔だった。

『ありがとうございます。これで、自信をもって部誌に出すことができます』

「……えっ、こ、これあなたが」

 目を見開いた僕に彼女は頷いた。

『名前、教えてもらってもいいですか?』

「な、な、鳴海蒼、です。ここ、高一です」

『私は水瀬彗です。高二です』


 窓から差し込む西日で、先輩の顔が緋色に染まる。眩しそうに目を細めながら先輩は本やスマホを鞄の中にしまい、最後に『さようなら』とノートをめくって、行ってしまった。


 

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