第26話 母の涙と子の血に塗れし魔王

 モレクが、緩慢なる動きで腕を大きく振りかぶる。生じた隙を見逃さず、セラフィナは抜剣と同時に斬撃を放った。


 しかし──黒鉄の鎧を思わせる頑強な皮膚に阻まれ、その斬撃はモレクの身体を傷付けるには至らない。


「……やはり、この程度の攻撃では駄目、か」


「……呑気に言っている場合か。来るぞ、セラフィナ」


 直後──モレクの振り下ろした一撃が、地面に巨大なクレーターを形成した。直撃こそ辛うじて免れたものの、舞い上がった瓦礫が頭上から次々と降り注ぎ、セラフィナたちは瞬く間に傷だらけとなる。


「──流石は、嘗て神の如く崇められた大精霊……何もかもが規格外だね」


 瓦礫の一部が直撃し、頭から流れ出る血を手の甲で拭いながら、セラフィナはまるで他人事のように呟く。


「このまま正面から戦っても、私たちが圧倒的に不利。生半可な攻撃は、寧ろ相手を激昂させるだけだね」


「……その口振りだと、何か策があるようだな?」


 ベルフェゴールの問いに対し、セラフィナは無表情を維持したまま、小さく頷く。


「──"レムレース"。現世を彷徨う死者たちの霊魂を、一点に収束させて放つ魔法。発動まで時間が掛かるから実用的とは言えないけど、威力の高さは保証するよ」


「ふむ……そうか、威力の高さは保証してくれるか」


 モレクが咆哮を発すると同時に、頭に生やした二本の角から、セラフィナたち目掛けて強烈な雷撃が放たれた。防御結界を構築してそれを弾き返すと、ベルフェゴールは笑みを浮かべながらセラフィナの顔をちらりと見やる。


「ならば──私が囮となって、時間を稼ぐとしよう」


「……悪いね。最初からこうなるって分かっていたら、貴方に深手を負わせることもなかったのに」


 ベルフェゴールは、明らかに重傷だった。殆ど気力だけで立っているような状態であり、ただでさえ危険な囮という役目を引き受けさせるのは正直憚られる。


 しかし、マルコシアスもシェイドも、グリゴリの天使たちの残党を狩るのに手一杯といった状態。囮という役目を担うことが可能なのは、現状ベルフェゴールのみというのもまた事実であった。


「過ぎたことを悔いても、仕方あるまい。それに、あれは私にも大分非があった……気に病む必要などない」


 言い終わらぬ内に、風のように駆け出すベルフェゴール──モレクは不気味な唸り声を発しつつ、彼をシェムハザのように叩き潰そうと襲い掛かった。


 モレクが自分ではなくベルフェゴールに狙いを定めたことを確認すると、セラフィナは剣を腰の鞘に収め、右足の爪先で軽く地面を叩いた。


 セラフィナの足元に、正五芒星の描かれた魔法陣が姿を現す。


「──死して尚、移ろいゆく世を彷徨う者よ。安らかなる永遠の眠りを希う者よ。我が、汝らの願いを聞き届けん。我が下へと集い給え」


 胸の前で手を組むと、セラフィナはその場に膝を付き、まるで祈りを捧げるかのように目を瞑る。


 魔法陣の周囲に、黒い人影のような者が一人、また一人と舞い降りたかと思うと、セラフィナを取り囲んでゆく。


 それら全てが、セラフィナに瞠目していた。セラフィナという存在への強烈な渇望を沸き返らせ、今にも一斉に襲い掛かろうとしていた。


 セラフィナがゆっくりと目を開く。影たちは彼女の放つ威圧感に圧倒されたのか、大きくたじろいだ。


「──"彷徨う者たちの霊魂、刃となりて敵を滅せよ"」


 セラフィナが右手をかざすと、不気味に蠢く影たちは迷うことなく形を捨て、力の奔流となってセラフィナの手のひらへと収束してゆく。


「──"レムレース"」


 刹那──セラフィナの足元に展開された魔法陣が一際強い光を放ったかと思うと、彼女の右手に収束した死者の魂の集合体が、巨大な三日月状の刃となって撃ち出された。











 モレクの繰り出す攻撃を紙一重でいなしながら、ベルフェゴールはひたすら囮に徹していた。


 最大の脅威とも言える火球を撃ってこないように口元を凍らせたは良いものの、大精霊というだけあってモレクの攻撃手段は実に多彩だった。


 角から放たれる雷撃、火焔を纏っての拳撃、巨体に見合わぬ素早さで繰り出される突進攻撃。それでいて素の防御力も極めて高く、生半可な攻撃では傷一つ付かない。セラフィナの言っていた通り、下手に正面から相手をしていれば、今頃は全滅していた可能性が極めて高い難敵だった。


 完全に理性が失われてしまっているので、動きが全て直線的なのが幸いだろうか。若し、相手にわずかでも理性が残っており、搦手も用いられたらと思うとゾッとする。


 モレクの圧倒的な強さは正に、涙の王国の支配者と呼ぶに相応しいものであった。


「──ぐっ!?」


 失血で判断力が鈍ってきたのだろう。防御結界の構築が間に合わず、モレクの放った雷撃がベルフェゴールの痩せ細った身体を掠めた。


「……我が身が限界を迎えていることなど、百も承知。それでも、私は──」


 角を前に突き出し、突進して来るモレク──ベルフェゴールはその一撃を、幾重にも展開した防御結界で受け止めながら声高らかに吠えた。


「──ここで朽ち果てて堪るものかぁ! キリエのため、そして私の目を覚ましてくれたあの少女の……セラフィナへの恩義に報いるため、私はまだ、このような場所で斃れるわけにはいかぬ!!」


 ベルフェゴールの想いに応えるかの如く、結界がその強度を増してゆく。強度を増したそれは何と、モレクの突進攻撃を真正面から弾き返すことに成功したのである。


 モレクは勢い良く後方へと吹き飛ばされるも、まるで何事もなかったかのように身を起こす。一方のベルフェゴールは最早、息も絶え絶えといった様子であった。


 その場に力なく座り込み、肩で大きく息をしているベルフェゴールを見下ろすと、モレクが口元の氷を無理矢理引き剥がしながら唸り声を上げる。


 無数の牙を生やした口が、徐々に開かれてゆく……何と形容すれば良いのか分からぬ強大なる力の奔流が、モレクの口の中へと収束してゆく。


 ベルフェゴール目掛け、モレクの口から巨大な火球が放たれようとした、その時だった。


「──邪魔するよ」


 一発の銃声が響くと共に、モレクが左目を手で押さえながら悲鳴を上げる。


「グリゴリの連中を始末するのに、少々時間が掛かってしまい誠に申し訳ない……遅ればせながらこのシェイド、助太刀させてもらうよ」


 ベルフェゴールの肩を優しく叩きながら、モレクの左目を撃ち抜いた張本人──シェイドが、怒り狂うモレクを見つめてニヤリと笑う。


「痛いか……痛いよなぁ。どんなに素の防御力が異常でも、目だけはどうにもならないよなぁ──大精霊さん?」


 それでも尚、火球を吐き出そうとするモレクを、今度はマルコシアスが強襲した。側面からマルコシアスの体当たりを受け、モレクは体勢を大きく崩す。


「さて、あとは頼むよ──セラフィナ」


 刹那──彼の言葉に応えるかの如く、超高速で飛来した三日月状の黒い刃が、モレクの身体を上下に両断した。


 黒鉄の鎧を思わせる巨体が、大きく揺らめく。険しかったその表情は、少しずつ穏やかなものへと変わってゆく。


 撃ち出される寸前だった火球が消失すると同時に、モレクは口元をわずかに綻ばせた。それはまるで、痛みや苦しみから解き放たれたことに歓喜しているかのようだった。


 やがて──神々しい光に包まれながら、モレクの身体は消滅し、力の残滓は母なる大地へと還っていった。


 これが、天空の神ソルによって信仰を失い、嘗ての信者や聖教徒たちから"母の涙と子の血に塗れし魔王"と呼称され、そして蔑まれた哀れな大精霊モレクの最期だった。

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