第87話



 転移魔法を駆使すれば、逃走は簡単だった。


 生来の身体能力と種族由来の体内での魔力操作技術がかけ合わさり、純粋に足の速さも図抜けている。


 この街の中で、自らを補足できる者などいないと思っていた。

 

「……出て来い」


 組織でも一、二を争う凄腕の暗殺者【迅獣】は、路地裏に誘い込んだと勝負を決する為に背後を振り返った。


「……戦いたいわけじゃない。話をしに来ただけだ」


 降り注ぐ月光と共に、追跡者の全貌が明らかになる。


 黒い風を纏いながら、凡庸な容姿をした執事服を着た青年が


 【迅獣】はその言葉を鵜呑みにせず、着ているメイド服のロングスカートを片足側だけ上げた。


 程よく太い、むっちりとした色っぽい太ももが露になり、対する青年が居心地悪そうに眼を逸らす。

 その初心な反応が意外で、口元に僅かに笑みが浮かんだ。


 【迅獣】は太ももに巻いている革製のベルトから愛用の暗器を抜く。


「……なるほど、暗殺者だ」


 その姿に、青年は納得の面持ちで相槌を打った。


 【迅獣】の左右の手には、針のような形状の暗器が握られている。

 青年はその武具が使われた形跡がない事から、


「使わなかったのか」


「……依頼は暗殺ではなかったからな。万が一、公爵の妹や母に当たっていたら取り返しが付かない」


「賢明な判断だ。猛毒の蝶、アモスの毒が塗ってある危険な獲物を狭い室内で振り回すべきじゃない」


「……何故知っている?」


 毒を塗っている事はおろか、種類まで言い当てられた。

 警戒心から鋭い視線を送る【迅獣】に青年は取り合わず肩をすくめた。


「……だが、そんな凶悪な代物を俺に向けて抜くんじゃない。戦いに来たわけじゃないと言っているんだ」


 【迅獣】は無視して、空間転移を発動。

 青年の背後に転移し、死角から針を突き出す。

 

 しかし突如地面から伸び出た灰色の金属壁によって妨げられた。


「……速さが足りない。足に傷があるだろ。その身体では無理だ」


「……ふむ、帝国の第三皇子。どんなものかと思ったか、やはり強いな。あわよくばれと言われているが、これは無理だ」


 残念そうに口元を尖らせる【迅獣】に、ため息を吐きながら魔法を解除した青年は続ける。


「……では話を聞いてもらえるな?」


「逃がしてくれそうにはないのでな。良いだろう」


 むっつりとした表情で腕組みをした【迅獣】に、青年は何故か懐かし気に目を細めた。


「俺は眼に適った戦力を集めている最中でな、強者である君が欲しいんだ。組織を抜けて、俺の元に来ないか?」


「……スカウトか。だがこの会話は頭領に聞かれている。だからこう答えるしかない。無理だと」


 そう言って【迅獣】はメイド服の胸元のボタンを強引に開けた。

 ふくよかな胸の谷間が露になる。その右胸、鎖骨の下辺りに黒い蛇の刺青があった。


 青年は視線を逸らしながら、


「……なるほど、君の意思では抜けても良いと考えているわけか」


「……」


「……というか、もう仕舞っても良いんだぞ?」


「何だ、脂肪の塊くらいで。さっきといい照れているのか? 初心な雄だな、強いくせに」


「……強さは関係ないだろ」

 

 【迅獣】は鼻で笑いながら、僅かに表情を歪めた。


「……そう簡単に組織は抜けられるものではないのだ。例外はあるが」


鏡男ミラー・フェイスは抜けられた」


「……そうだな、奴こそが例外だ」


「……後世に、自分の魔法を引き継いだ子供を残せたからか?」


「……っ」


 その言葉に大きく【迅獣】は眼を見開いた。


名付きネームドの暗殺者は、子供を作る義務があるんだろ? 固有魔法を血統魔法にするため。暗殺者の質を高めるために、固有魔法の使い手は子供を残す義務がある」


「……」


「だが、固有魔法の使い手が子を残して、その子に魔法が引き継がれ、血統魔法となる確率は高くない」


 青年は無表情ながら、嫌悪感を浮かべて告げた。


「だから、【影蛇】の頭領は血統魔法になるまで、魔法が引き継がれるまで子供を作らせる。好きでもない奴らと交わらせて」


 【鏡男】をすんなり引き渡したのは、既に代わりがいるからだ。


「……まるで君たちは家畜だ」


「……否定はできん。だが勘違いするな。私は違う、私は私以上に強い奴としか交わらないと決めている。頭領に気に入られている限りは要望が通る。私は安全なのだ。あの悍ましい輪の中に組み込まれる事はないッ」


「……だが、命令されれば受け入れるしかない」


「……」


「矜持と誇りを失う日が来るのを怯え続けて生きていくのか? そんな人生を望むと?」


「……」


「俺の傍にいろ。それが一番だ。もう蛇の巣に帰るな」


 僅かに【迅獣】の瞳が揺れた。


 だが、すぐに俯いてしまう。


「言っただろう。この会話は筒抜けだ。意思が変わる事はない」


 蛇の刺青が身体中に広がっていく。

 

『――ひひッ、第三皇子の坊や。有言実行じゃな。もう力づくで奪いに来たのかい?』


 しわがれた老婆の声に、青年は舌打ちを放った。


『じゃが、無理さね。余計な事はしない方が良い。あたしの魔法は特別でね、刺青を刻んだ者の身体を乗っ取れるのよ』


「……」


『もし今、坊やがこの娘を連れて行っても無駄さ。あたしはすぐにこの娘の身体を乗っ取る。意識を乗っ取られたら最後、人格は戻らない。あたしの新しい器になるだけ』


「化け物が」


 思わず口から出た悪態に、刺青から大きな笑い声が聞こえる。


『ひひひッ、ひははッ! 坊やも一緒じゃろうに。化け物に化け物と言われる筋合いはないさね』


「……化け物蛇ババアを殺せば刺青は消えるはずだ。俺は諦めない。それまで待っててくれ」


 青年のその言葉は、【迅獣】に向けられたものだ。


「……」


 しかし彼女は返答せずに、青年から背を向けた。


『坊や、それよりも城から離れて良いのかい?』


「……何?」


『【鏡男ミラー・フェイス】はあんたにくれてやったけど……城に幽閉されているのはかもしれないよ』


 青年は大きく目を見開いた。


 その忠告の後、老婆の声は聞こえなくなる。

 【迅獣】は去り、青年は舌打ちをして急いで城へ戻った。


 

 

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