第33話



 エルバン伯爵家の先代当主と食事を共にした後、ユリフィスは浴室で湯船に浸かり、旅の汚れを落とした。


 風呂から上がり、用意されたバスローブに着替える頃には既に空に月が昇る時間帯となっていた。

 部屋にある装飾付きの卓の上に用意された水差しからグラスに冷水を注ぎ、ユリフィスはエルバン伯爵邸の客室の窓を開け、バルコニーに出た。


 冷水を喉に流し込むと、風呂上りの火照った身体に染みわたる。


「ハーズの街を発って一週間。ほぼ休みなく来たせいで、身体の節々が痛むな」


 休憩も碌に取らず、ユリフィスの一存で巡遊に同行する面々には無理をさせている自覚がある。

 

 街道はある程度整備されているとは言え、スピードを出せば馬車は揺れる。


 一週間ともなれば、いくらユリフィスが強靭な肉体を持っていても疲れは溜まるものだ。


 強行軍に付き合わせて申し訳ないと思うが、次なる配下はエルバン家の先代当主の話を聞く分ではいつ教会に囚われてもおかしくはない。


(……明日の朝この街を出て【迷いの樹海】に入る。それで間に合えば良いが……)


 今後の予定を考えながらぼんやりと空に昇った月を眺めていると、室内からノックの音が耳に届いた。


「――ユリフィス様。少々、お話させていただけませんか?」


 透き通るようなその声は、ユリフィスの婚約者であるフリーシアのものだ。

 扉前に立つ気配は、彼女ただ一人。


 ユリフィスは悟った。もしかしたら彼女は自分が第一皇子に狙われていると知って不安に思ったのではないだろうか。


「開いている。入っていいぞ」


「……分かりました」


 ユリフィスがバルコニーから戻り、返事をすると扉が開いた。


 そして入室してきた婚約者の恰好を一目見て、思わずユリフィスは眼を逸らした。

 着ている薄い白のネグリジェ姿で、年齢不相応に豊満な身体の凹凸がはっきりと分かる。


 肩にかけたストールによって肌の露出は控えられているが、彼女も風呂上りなのだろう。

 艶やかで上気した肌と、美しい銀髪を身体の前に持ってきた事で、露になったうなじが眼に毒だった。


 彼女はユリフィスの姿を見て淡く微笑み、そのタレ目を優し気に細めた。


「きゅ、急にすみませんでした。直前まで悩んだのですが……話したい事がありまして」


「謝る事じゃない。君の話ならいつでも聞くさ」


「……あ、ありがとうございます」


 照れくさそうにぺこりと頭を下げるフリーシアは、顔を上げた後で目線を泳がせながら続けた。


「あ、あの……す、座っても良いでしょうか?」


「……勿論」


 フリーシアはこの客室に用意されたキングサイズベッドに浅く座った。

 彼女はそのまま、隣のスペースを控えめに叩いた。


「……ユリフィス様も、こちらに」


「……」


(隣り合って座れと?)


 あまり近すぎると否応なしに彼女の胸や尻に視線を吸い寄せられそうで、ユリフィスは一度冷静になるために目を閉じた。


「分かった」


 ユリフィスは人一人分の感覚を空けて彼女の隣に座った。

 フリーシアを流し見ると、彼女は悩まし気な表情を浮かべていて、内心首を捻る。


「――ユリフィス様……私がお話したい事、分かりますか?」


「……第一皇子が君の身を狙っている件か?」


「……違います」


 フリーシアはゆっくりと首を左右に振った。

 彼女は自らの銀髪を身体の前に持ってきてゆっくりと梳きながら、


「今日も、それ以前にも。ユリフィス様は、私に聞かせたくない話があるように思えます」


「……それは……」


 言い淀んだユリフィスに、フリーシアは悲し気に眉根を寄せる。


「貴方様が決めたこの巡遊。最初は帝国の中央から遠ざかる為かと思いましたが、ハーズの街で奔走した事も魔法都市に急ぐ理由も。きっと大きな目的の為の行動だと見ていて分かりました」


「……」


「でも、貴方様は私には何もおっしゃってくれません。だから、寂しいのです」


 真摯に見つめる宝石のような碧眼は僅かに潤んでいる。

 ユリフィスは僅かに目を見張り、肩を落とした。

 

 彼はゲーム上でラスボスとなり、全世界を戦火に包む暴虐の王となる。

 暴走のきっかけは婚約者であるフリーシアの死によって始まるが、闇落ちしなくともその根源は善とは言い難い。


 正義か悪か等、立場によって変わるものだ。


 だが客観的に見て、差別のない世界を創るためとは言え、戦争を引き起こし、多くの人民を殺す腹積もりをしている者が正義などと胸を張って言えるはずがない。


「……俺の夢はきっと多くの犠牲を孕む。君に軽蔑されたくなかった。傷つきたくなかった。失望されたくなかった」


「……」


 常になく弱々しい態度で俯きながら言うユリフィスに、フリーシアは身を寄せて手を彼の頭に伸ばした。


 優しく頭を撫でられて、ユリフィスは思わず眼を瞬いた。


「確かにユリフィス様、私は貴方様が血に塗れたり、誰かを傷つけたりすることを望みはしません」


「……」


「私の夢は単純です。ただ私は、貴方様の傍にいたいのです。一緒に食事をして、一緒に眠り、一緒に起きて。ささやかな日常に幸せを感じたい」


「……」


「地位や名声、名誉も望みません。私は貴方様と同じだけの時間を同じ場所で過ごしたいだけなのです」


 ユリフィスは顔を上げて、真っすぐ彼女と目を合わせた。

 その透き通るように綺麗な碧眼は、記憶の中の彼によく似ていた。


 アークヴァイン王国の第一王子、すなわち彼女の兄でありこの世界の主人公でもある彼と。


「……それ以上のものを私は望みません。人を傷つけ血に塗れてまで、ユリフィス様は一体どんな理想を叶えようというのですか」


 一泊を置いて、ユリフィスは深く息を吐きだした。


「差別のない理想郷。新国家の建国だ」


「……それは」


 眼を見開き、その小さな口を手で覆ったフリーシアに、ユリフィスは静かに語りかけた。


 胸の奥底にある気持ちを全て。


「もう今更だから俺達は良いんだ。だが、後に生まれる子達に苦労を負わせたくない。赤い瞳は遺伝する。半魔に子ができたら、その子も半魔として迫害される。いずれ君とそうなって、子ができたとしてもその子はきっと世界を呪う」


「……え?」


 そんな未来に歯止めをかけ、誰もが自由に過ごせる世界を。

 あくまで真剣な態度と言葉を並べるユリフィスの隣で、フリーシアは氷のように固まって動かなくなった。


「どうかしたか?」


「そうなって……こ、こども……」


「……フリーシア?」


 頬を真っ赤にしながら、急にそわそわしだして衣服の乱れを確かめるフリーシアにユリフィスはジト目を向ける。


「わ、分かっていると思うが今するわけじゃないぞ、フリーシア。俺たちはまだ子供だし、覚悟とかそういうのがアレだし」


 珍しくしどろもどろになるユリフィスに、フリーシアも首を何度も縦に振った。


「わ、分かっています、分かっています。い、いずれはそうなる、という話ですよね……」


「……ああ、まあ……婚約者だし?」


「……い、いずれ……そ、そうなりますよね」


 どちらも何とも言えなくなり、フリーシアは俯き、ユリフィスは後頭部を掻きながら仰向けに寝転んだ。


「……でも、少し安心いたしました。ユリフィス様の夢は……多くの血を流してでも叶える価値がある未来なのかもしれないと私は思えました。であるなら、私も覚悟を決めて、死が分かつまでお傍にいます」


 儚げに微笑んだフリーシアに見惚れながら、ユリフィスは僅かに眼を見張り、


「……いいのか。俺が負けたら、きっと君も断頭台に立つ事になるんだぞ。婚約の解消を申し出るなら最後のチャンスだ」


「……ユリフィス様はいつも優しいですが、そんな気遣いは無用です」


 僅かに唇を尖らせた婚約者の珍しい表情に思わず首を捻る。


「……何か気に障ったか?」


「そ、そんな脅し文句で、私がお慕いしている方の傍を離れるとお思いですか?」


 ユリフィスは蒸れた林檎のように顔色が朱に染まったフリーシアと視線を絡ませた。


 熱を帯びたその眼差しに、ユリフィスの心臓が高鳴る。


 はっきりとした彼女の想いを初めて聞いた気がする。


 起き上がってゆっくりと腕を広げる。

 その仕草を見て、フリーシアはおずおずとその身をユリフィスの胸に預けた。


 抱きしめると、恥ずかしさからか僅かに震えるその姿が酷く愛おしい。


 甘い石鹸の匂いと、とにかく柔らかい肢体。吸い付くような瑞々しい柔肌の感触に思わず抱きしめる力を強くなる。


「んっ」


 痛いくらいの力を籠めると、フリーシアは甘い吐息を漏らした。


「悪い。痛かったか?」


「あ、いえ……」


 フリーシアは視線を泳がせながら、吹けば飛ぶような小声で呟いた。


「……何だか、苦しいくらいの方が……私は好きかも、です」


「え、それは」


 ユリフィスは動揺した。

 

 痛い方が良い。それはつまりMという事なのか。

 懐疑の眼差しを送ると、フリーシアは慌てて首を左右に振った。


「へ、変な意味ではなくて、ですね。あの、強く求められている気がして……し、幸せな気持ちになるというか……」


「……ふむ。なるほど」


 一応の納得をしながら、ユリフィスはどこか彼女の清楚さに彩られた外見の奥にある本性を捉えたような気がして、少し面白く感じた。


 僅かに湧き上がる、好きな子に意地悪をしたいという子供そのものの感情。


「……手を繋ぐ事にすら赤面する君がまさかな」


「い、いや、ユリフィス様。だから変な意味ではないと申し上げたはず――」

 

 必死に取り繕う婚約者の姿に、ユリフィスは非常に珍しく優しげな笑みを浮かべた。

 そしていつまでも続けられる彼女の抗議と弁明を静かに聞き流すのだった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る