第32話

 翌日から、アデラはティガ帝国に関する勉強を開始した。

 短期間の滞在とはいえ、皇太子に会うのだから、失礼のないように、最低限の知識は必要となる。

 教えてくれるのは、テレンスだ。

 ずっとティガ帝国に留学していただけあって、ティガ帝国についてはかなり詳しかった。

 アデラが質問を繰り返しても、嫌な顔せずに丁寧に答えてくれるので、とてもわかりやすい。

 父は最初、きちんとした家庭教師を選ぼうとしたようだ。

 だが王弟派と思われる者が、何人か家庭教師としてこちらに侵入しようとした形跡に気が付いた。今は外部の人間を屋敷の中に入れるのは危険だと、テレンスが教えてくれることになった。

(何だが、すごいことになってしまったわね……)

 アデラも、侯爵家の人間だという自覚はある。

 けれど父は権力よりも領地の運営に力を入れていたし、女性は政治に関わらない国である。だからまさか自分が、王位が絡んだ争いに巻き込まれるなんて思ったこともなかった。

「ティガ帝国の皇太子殿下と、どこで知り合ったの?」

 勉強の合間にそう尋ねる。

 たとえティガ帝国に留学していても、そう簡単に会えるような存在ではないはずだ。

「皇太子殿下とは同学年だったからね。留学生だからか、色々と気に掛けてくれた」

 テレンスはそう言ったが、ティガ帝国には、各国から留学生が集まるという。

 いくら同学年で留学生だったとはいえ、よほど優秀でなければ、皇太子殿下の目に留まることはないと思われる。

 それほど優秀なテレンスを、この国に留めてよかったのだろうかと、つい考えてしまう。

 この国ではまだ身分の壁は厚く、どんなに優秀でも、要職に就ける家柄は決まっている。王太子も彼を評価してくれているようだが、ティガ帝国の方が、自由に生きられたのではないか。

「アデラ?」

 そんなことを考えていたせいで、気が削がれていた。不思議そうに名前を呼ばれて、我に返る。

「ごめんなさい。もう時間がないから、頑張らないと」

 ティガ帝国に行くのは、五日後と決まっていた。

 礼儀作法やダンスは問題ないが、帝国語にはまだ少し不安があった。

「それにしても、わざわざお父様が家庭教師を探してくれるとは思わなかったわ」

 ティガ帝国に行くのは、おそらくこの一度きり。

 この国とは違い、女性も政治や外交に関わる国だと聞いていたが、テレンスの婚約者として挨拶に行くだけだ。

「ああ、それは私が王太子殿下に、いずれ外交を任せたいと言われたせいだろう」

「……え?」

 思いがけない言葉に、アデラは参考書から顔を上げてテレンスを見た。

 王太子は自分が即位した際には、彼を外交官に任命するつもりなのだろうか。

 たしかにテレンスならば、ティガ帝国の皇太子とも親しい。

 しかもあの国には、各国からたくさんの優秀な人物が留学をしている。その中には、学友として親しくしていた者もいたかもしれない。

(テレンスはいずれ、この国の外交官に?)

 もし彼がオラディ伯爵家当主のままなら、いくら優秀でも難しかっただろう。

 でもアデラと結婚することによって、テレンスはリィーダ侯爵家を継ぐことになる。

 身分的にも、彼の父と異母弟が起こした醜聞から遠ざかる意味でも、最適な選択だったのではないか。

(よかった……)

 自分との結婚がテレンスの将来を閉ざすのではなく、むしろ後押しできると知って、アデラは安堵した。

「でも、それがどうして私の家庭教師の話に?」

 外交官になるのはテレンスで、いくら妻でもアデラにできることはないのではないか。

 そう思ったが、そうではないらしい。

「この国で、政治に参加できる女性は王妃陛下と外交官の妻だけだ。とくにティガ帝国では、外交でも夫婦同伴が求められる。アデラはこれから、何度もあの国を訪問することになるだろう」

「えっ」

「それとライド公爵に、ティガ帝国から戻ったら、一度アデラを連れて屋敷に来るように言われている」

「ま、待って」

 困惑しながらも、アデラは必死に状況を理解しようとした。

 王太子はテレンスに、自分が即位したあとに外交を任せようとしている。

 そして外交官の妻は、夫の仕事に同行しなければならないこともある。とくにティガ帝国では、夫婦同伴が求められる場面も多いらしい。

(つまりテレンスと結婚したら、私も外交の仕事をするってこと?)

 ライド公爵は現在の外交官で、高齢なのでそろそろ引退するのではないかと言われていた。その公爵夫人は若い頃から評判の才女で、外交官の夫をよく支えている。

 そのふたりに呼び出されたということは、もうテレンスが彼の後継者になるのは決まっているようなものだ。

 それなら、父がきちんとした家庭教師を探そうとした意味も理解できる。

 それにアデラが外交官の妻になるために勉強をしていれば、王弟派に対する牽制にもなる。

「私は、何も聞いてなかったわ。いつから決まっていたことなの?」

 さすがに、ここ最近の話ではないだろう。

 そう思ってテレンスに尋ねると、彼はそれを否定する。

「いや。私はティガ帝国に行くつもりだったよ。そのための準備もしていた。今回のことは、アデラが婚約を承知してくれたからこそ、進んだ話だ」

「私が?」

「そう。アデラのお陰だ。それに私もアデラと一緒なら、この大役も果たせるのではないかと思っている」

 外交官の妻など、自分には無理ではないかと思っていた。

 けれど、女性は何もできないこの国の政治に、少し不満を持っていたのも事実だ。

 学ぶことも嫌いではない。

 それに、これほど優秀なテレンスと一緒なのだ。

「うん。私も、テレンスと一緒なら頑張れる気がする」

 そう言うと、彼は真摯に頷いた。

「ああ。ふたりで頑張っていこう」

 テレンスが、アデラの手を握る。

(あ……)

 エスコートのときは何とも思わなかったのに、今はその温もりを意識してしまう。

 ライド公爵夫妻は、大恋愛の末に結ばれたのだと聞いたことを思い出す。

 公爵夫人が、子爵家の長男だった彼の優秀さと人柄に惚れ込んで、何年も掛かって周囲を説得し、婿として迎え入れたのだと。

 まるで自分たちのようだと思ってしまい、それを慌てて否定する。

(私たちは恋愛結婚じゃないから……)

 恥ずかしくなって俯いた。

「アデラ、どうした?」

 不思議そうに聞かれてしまい、何でもないと、笑顔で答える。

「私たちはライド公爵夫妻のような関係ではないけれど、仕事上のパートナーとして、頑張っていこうと思って」

 ふたりの関係を表すには、一番ふさわしい言葉だと思った。

 けれど、それを聞いたテレンスの顔が曇る。

「アデラ」

「……うん」

 何か変なことを言ってしまったのだろうか。

 そう思って慌てるアデラの手が、先ほどよりも強く握られる。

「私は、家族の愛を知らない。父も母も、異母弟も愛していないし、愛されたこともなかった」

 アデラは黙って頷いた。

 テレンスの事情を知れば、それは無理もないと思ってしまう。

 彼が冷酷だと言われていたのも、その家庭環境のせいだ。

 それを知らずに、テレンスを冷たい人間だと思っていたことを、今では後悔している。

「だがその分、普通の家族に対する強い憧れがあった。ライド夫妻のような、仲睦まじい夫婦を羨ましいと思う。たしかにこれは、契約結婚のようなものだろう。だから、愛してほしいなどと言うつもりはない。それでも、私がアデラを愛することだけは、許してくれないか?」

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