傲慢

 ——鳥取県某所、九月十二日。


   ◎


 沈む夕日を追いかけるかのように、後島ゴトウ和音カズネは帰路を急いでいた。学校から家までの道を全速力で駆ける。

 受験を控えているとはいえ、どうせ進学先は地元の公立高校だ。自分の頭であればまず落ちることはないだろう。今は中学生活最後のコンクールに向けて練習あるのみ。そう思って集中していた結果、いつもより下校が遅くなってしまった。


 半分ほどがシャッターに覆われた商店街を抜けて、その先。本来なら見晴らしのいい寂れた公園の脇を通るはずだが、視界は黒く塗り潰されている。一週間ほど前から全国的に発生している霧のせいだ。


 この霧のことを、カズネは特に警戒していなかった。ニュースでは色々と言われているが、それでカズネの生活が大きく変わるわけでもない。それどころかむしろ、変わらぬ日々に飽き飽きしていたカズネにとっては、非日常感を楽しめる刺激になるとすら思えるものだった。

 端的に言えば、理解していなかったのだ。それが、彼女にとって不幸の始まりとなることを。


   ◎


 どこかで犬の吠える声が聞こえる。うちで飼っている豆柴じゃないな、とカズネはまどろみから起こされた。目が覚めた、ということはつまり今までは眠っていたのだろう。そう考えて自分自身に混乱する。

 いきなり、どうして?

 なぜ帰り道に突然意識を失ってしまったのか、心当たりは全くなかった。


 事故にでも遭ったのだろうか、そう考えたが否定する。

 違う。車なんてほとんど走っていなかったし、そもそも確認するまでもなく身体に痛みも何もない。

 わけが分からない。


 ぼんやりとした頭でも分かるくらい不自然に暖かな空気がカズネを包む。暑いくらいだ。もう秋なのに、真夏に戻ったかのよう。


 視界に立ち込める黒は、気付けば白に変わっている。奇妙な霧はカズネの思考がクリアになるにつれて消えていった。

 晴れた周囲を見回し、カズネは愕然とするしかなかった。

『……ここ、どこ?』


 眼前には、見知らぬ景色が広がっていた。

 朽ちる寸前の配管が走るビル、崩れかけた屋根を支える錆びた柱、ひび割れた窓。そんな建物が並んでいる。廃墟かと思ったが、窓から灯りが漏れているので誰かが中にいるのだろう。住人なのか、物好きな連中か。


 いや、そんなことはどうでもいい。問題はこの場所にいる、ということそれ自体だ。

 鞄を探り、携帯電話を取り出すも圏外だった。親にも友達にも連絡はできない。

『どうしよう……』

 先程聞こえた犬の鳴き声はもはやかすかで、飼い主がいるにしても近くにはもういないだろう。

 薄暗い街灯が照らす路地をカズネはあてもなく歩く。どこかへ行きたくとも、道なんて知らない。


 空を見上げてみる。星にでも願いたい気分だったが、あいにく空には星どころか月すら見えなかった。

 時間や天気のせいではない——空自体が見えなかったのだ。

『ここ、建物の中……?』


 カズネの遥か頭上は何かに覆われていた。細部までは見えない。しかし目を凝らすと確かに天井らしきものがあり、星を模したようなライトがその所々に弱々しく輝いている。

 妙に天井が高い。見渡す限り壁もない。こんな建物は彼女の知る町にはないはずだ。あれば知らぬはずがない。


『もう、何これほんと……最悪』

 悪態をついても状況は変わらないが、何か口から吐かないと、代わりに涙が溢れてくるのを止められなかった。

『最悪、最悪、最悪! もうマジで何! ほんと、私どうしたらいいの……っ』


 あぁ、駄目だ。泣く。

 家に帰りたい。高校を卒業したら女優になって、絶対こんな田舎から出てやる。そう誓っていたのに、今は港で聴こえる波の音や潮の匂いが恋しくて堪らない。


 制服が汚れるのも構わず道端にうずくまり、カズネはひたすら泣き続けた。誕生日に友達からもらったハンカチは涙と鼻水でもうぐしゃぐしゃだ。けれども、流れるものを止めることはできなかった。

 カズネは膝を抱えて俯き、これからのことを考える。けれども何も思いつくことはない。不安だけが頭をめぐり、アイデアは形にならず、ただ時間だけが過ぎてゆく。


 そうしている間にも何度か人が近くを通る気配がして、カズネはその度に顔を上げたが、誰とも目が合うことはなかった。助けを求めても、皆一様に顔を背けて足早に去ってしまう。

 そのうち、カズネは周りに頼ることもやめた。結局、他人は他人。期待してはいけない。

 見ることも聞くことも、最後には失望に繋がる。だから頭をうずめて、目も耳も閉じていた方がいい。


 それからどのくらいの時間が経ったのか。

「——**、******?」

 声をかけられ、カズネはそっと目を開けた。


 頭を少しだけ上げると、ハンカチを手に男が立っている。身に付けている衣服は清潔で高級感があり、これまでカズネの前を通り過ぎていた人々と比べて明らかに裕福であるのが明らかだった。


「**、*****。**********?」

 雰囲気で、何かを問うているのは分かる。聞いたことのない言葉だが、外国語なのかもしれない。

 日本語が伝わるかは分からない。けれど、カズネは感情を抑えることが出来なかった。

『何、言ってるか分かんない。あなた、誰なんですか? 私を助けてくれるの? 私、家に帰りたい。誰でもいいから、どうにかしてよ……っ』


 また目の端を涙が伝う。

 カズネの様子に男は背後を振り返ると誰かを呼んだ。その声に応えて、近くに停められた車から三人の若い女が降りてくる。皆、揃いのメイド服のような衣装を纏っていた。

 男がその中の一人に何かを告げると、その女は頷いてカズネの前にしゃがみこみ、優しく微笑みを浮かべる。


『あなた、外界種、ですか? 言葉、分かる、ですか?』

 たどたどしく、彼女は日本語でそう訊いた。初めて聞く語句もある。完璧でない文法もある。けれど、カズネにとっては知った言葉を聞くだけで嬉しかった。


『日本語、話せるんですか?』

『少し、言葉、分かる、です。お屋敷、言葉、もっと、分かる、人、います』

『お屋敷……?』

『ノーテ様。大きな、お屋敷、住んでる、です。あなた、一緒に、来る、したい、ですか』

 女はそう言って立ち上がり、最初に声をかけてきた男を示した。きっと彼がその『ノーテ様』なのだろう。


 知らない人間について行くな。

 分かってる。もう小さな子供じゃない。そんなことは、もちろん理解してる。けれど、ここにこのまま独りでいて、他に何かできることがあるの?

 誰も気にかけてくれない。たぶん言葉も通じない。道も知らない。何も分からない。

 やっと状況が変わったのに、このチャンスを棒に振るべきなの?

 カズネは迷いながらも、差し伸べられた男の手を取った。そのまま車へと乗り込む。


 潮風に似た香水の匂いはむせるほどに強く、カズネは吐きそうになりながらも、どこか懐かしさに安心を感じていた。


 車から列車に乗り換えて、また車で移動する。今までいた場所は建物の中などではなく地下だった、ということにそこでようやく気がついた。

 車窓からの景色はやはりどこを見ても見覚えがなく、カズネは黙ったままぼんやりと流れる雲を見ているだけ。それでも、空が見えるだけでましだ。


 ノーテの屋敷は六番街と呼ばれる地区にあった。カズネが拾われた十一番街スラムとはまた違った意味で落ち着かない空気が漂うその街では、すれ違う女も男も妙に着飾り、中身のないロボットのように見える。

 煌めくネオンがギラギラと眩しい。むしろ夜の方が明るいのではないだろうか、とそんなことを考えながら、カズネは屋敷に続く道を進む車に揺られていた。


 屋敷に迎えられたカズネは、ノーテにメイドの仕事を与えられることになった。掃除に洗濯、その他家事全般。加えてカズネは言葉や作法、常識を身に付けなければならない。

 これまでの暮らしとはかけ離れていたとはいえ、衣食住に加えて賃金も与えられ、ひとまずの生活が保証されただけでカズネは自身をそれなりに幸運だと思っていた。

 事実、あの場で拾われなければどうなっていたことか。考えるだけで恐ろしい。


 メイド達にはそれぞれ自室として小さな部屋が与えられているのだが、言葉の通じないカズネには、通訳を兼ねた同室の者がいる。名前はアスコといい、彼女にカズネの教育は一任されていた。

 最初にカズネと話したメイドが口にした、言葉の分かる者。それが彼女だった。


 アスコは十番街から出稼ぎに来て半年ほどなのだという。彼女の育ての親が外界種の原種オリジンと交流があったらしく、その縁で外界種語、つまり日本語を話すことができたらしい。アスコはその親から言葉を習ったそうだ。

『まさか、この言葉を学んで役に立つことがあるなんて。驚いたわ』

 カズネよりニつ年上で落ち着いた性格のアスコは、年の近いカズネを歓迎した。カズネも悪い気はせず、アスコやノーテ、その他のメイド達に囲まれながら、自身の置かれた状況について少しずつ学んでいった。


 それから、約一年が経って。

 自分のことを外界種と呼ばれるのにもとっくに慣れた頃、カズネは少しずつノーテの周りにいる女達の歪さを感じていた。

 いや、考えてみれば、本当はもっと前から気付いていたのだと思う。ただ見ない振りをしていただけ。

 自分には関係のないこと。だってその時は、そう思っていたのだから。


   ◎


 ある夜、アスコが口にした。

「私、もう少しでここを辞めようと思うの」

 文化も言語も一通りの生活ができる程度に覚えたカズネは、アスコの突然の発言に戸惑うしかなかった。


「辞める、って。どうして?」

「お金が貯まったから。働き始めて二年経つし、そろそろ契約更新の時期なんだけど、新しい生活を始めるにあたっての目標額まで貯金ができたのよ。だから契約は更新せずに、そのまま退職するつもり」

「このお屋敷を出ていくの?」

「そうよ」

 寂しいという気持ちはあったが、アスコが嬉しそうにしているのでカズネは引き留めることができない。

 ただ、気がかりなのはノーテの存在だった。


「それって……もう、ノーテ様には伝えてるの?」

 カズネは自分の声が震えるのを感じながらも訊ねる。アスコも、その問いの意味を察しているのだろう。顔を曇らせて首を横に振る。


 この屋敷にカズネが来てから今まで、誰一人として辞めていった者はいない。メイド達の中で触れてはいけない暗黙のルールのようなものだ。実際にカズネも誰かにについて尋ねるのを避けていた。


 ここに来てから分かった。ノーテはおそらく、自分の気に入った女達を手放す気はない。それは単に家事や仕事の補佐をするにも、彼が彼女らをとしているからである。

 メイド達の住まう使用人棟で、真夜中に誰かの部屋の扉が開く音をカズネは毎晩のように聞いていた。


 奇妙なのは、誰もが人形のようにただ彼に従いを受け入れていること。さらに言えば、一見すると束縛されている様子もなく、幸せそうですらあること。

 カズネはその異常さを認識しながらも、理解することをずっと後回しにしてきたのだ。自分には関係がない。何度も何度も、そう言い聞かせて。


「ノーテ様に辞めるのを許してもらえると、本当に思ってるの?」

「話せば分かってもらえるはずだわ。最初にここへ迎えられた時に、ノーテ様自身が仰ったんだもの。仕事が自分に合わなければ、契約更新は必ずしも義務ではない、って 」

「でも……」

 それでもカズネは心配だった。どういう理由だかは知らないが、最後には誰もがノーテの支配下に置かれている現状。アスコも結局は言いくるめられ、彼に囚われてしまうのでは。


 カズネの様子を見て、アスコは後輩を安心させようと微笑む。優しくおとなしく、それでいて揺らがない芯の強さが笑顔の中に見えた。

「大丈夫、私はちゃんとノーテ様に伝えられるから。実を言うとね、私を待ってる人がいるの。だから私は帰る。ノーテ様に何を言われようとも、この気持ちは変わらない」


 アスコは窓際に置かれた自身の机に歩み寄り、置かれた写真立てを手に取る。写っているのはアスコともう一人。

「子供の頃に同じ孤児院で拾われて、家族同然に育ったの。私達、顔も性格も全然似ていないけどとても気が合ってね。いつかは二人で暮らそう、って。その夢がやっと叶う」


 写真を覗き込んだカズネは今更ながら、その二人が揃いの指輪を嵌めていることに気がついた。桜色の石がついたその指輪は、アスコがネックレスにして常に身に付けているものだ。

「明日の朝、ノーテ様に話してくるわ」

 アスコはきらきらとした瞳でそう言った。


 ——そう、言っていたのに。


 翌日、アスコは部屋に帰らなかった。

 次の日も、その次の日も。一週間ほど彼女は屋敷に居なかった。急に入ったノーテの出張に付き合っているのだ、と。そう他のメイドは言っていた。


 それから。数日ぶりに再びアスコが屋敷へと戻った時、それはもうカズネの知る彼女ではなかった。


 顔も性格も確かにアスコはアスコだ。ただ大切な何かがぼんやりと溶けてしまったようにカズネには感じられた。

「この間のことだけど。ノーテ様、退職についてなんて言っていたの?」

 恐る恐る尋ねると、アスコはカズネに向けて微笑む。かつてカズネが見た強さは、そこにはなかった。


「退職って、何のことかしら」


 耳を疑う。カズネにはアスコの心変わりが信じられなかった。あの夜の決意は何だったの?

 得体の知れない気持ち悪さ。カズネはそれをアスコに、ノーテに、この屋敷のすべてに感じた。


 その日を境にして、真夜中に響く扉の音がカズネの眠るすぐ近くで聞こえるようになった。

 アスコは指輪を机の上に置き忘れることが増え、写真立ては引出しの奥にしまい込まれた。

 そんな日々が続く中でカズネは耳を塞ぎ、目を閉じる。カズネにはそれしかできない。


 だって、何よりも自分を守ることが大切だもの。仕方がないじゃない。


   ◎


 アスコがもうアスコでなくなってしまってから半年が過ぎた。カズネがノーテの屋敷で働き始めてからは約二年。間もなく、契約更新の時期を迎える。


「ノーテ様は十一番街に出張です。カズネさんもお供しなさい」

 先輩達からそう告げられ、カズネはいよいよその時が来たのだと悟った。


 ノーテはカズネに対し、未だに紳士的な態度を崩してはいない。アスコの件がなければ、彼を疑う自分の方が認識を誤っているのではないか、とすら思えただろう。

「……行ってくるね、アスコ」

「ええ、カズネちゃんの帰りを楽しみに待っているわ」


 カズネはこの半年の間、どんな状況でも気丈に振る舞えるように努力してきたつもりだった。けれど、見送りに出てきたアスコがその手をひらひらと降るのに合わせて覚悟が揺らいでゆく。

 それでも、逃げ出すことはできない。だって、逃げたところでどうなる?


 カズネにとって、この世界で過ごしたほとんどの時間はこの屋敷の中。外での生活が安全なのか、それともさらに危険なのかの判断がつかない。自分は守られているのか、脅かされているのか。まるで分からないのだ。


 屋敷から車で、かつて来た道をなぞるように逆行して南へ。八番街を抜けて鉄道に乗り換え、十一番街へと下る。

 列車を降りると広がる景色に二年前のことを思い出す。あの時とは違って、今は時が経つのがやけに早い。焦りや恐れに冷めた気持ちで蓋をして、カズネは他のメイド達と共にノーテの後ろを歩いた。


 まず訪れたのは自社工場。ノーテの姿を認めると、作業員達は一瞬手を止めて敬礼した後に再び仕事へと戻ってゆく。ここでは十二番街から運ばれた素材を義体用に加工して製品化しているらしい。

 複数の工場が連なる敷地内を一周しながら、管理不備や怠慢を指摘するノーテ。その叱責が妥当な評価であるのかはカズネの知るところではないが、誰もが真面目にそれを聞いては頷いていた。首を縦に振り続けるだけの作業員達をカズネはぼんやりと眺める。


 従順。勤勉。素直。その点では共通するのに、どうしてこうも隣に控えるメイド達と同じような存在に思えないのだろう。

 考えれば考えるほどにカズネの中の違和感は増していくだけだった。


   ◎


 そうして数日が過ぎ、出張も最終日。

 一緒に来ていたメイド達は休暇をもらっていたが、カズネだけはノーテに呼ばれて彼に同行していた。


 嫌な予感がする。けれどカズネに断ることなどできるはずもない。

 普段と変わらず優しい態度の主人。妙に距離感が近い。肩を抱かれるように腕を回されて、とても気持ちが悪かった。

 目を合わせないようにカズネは俯き、わざと歩幅をずらして歩く。このまま彼の背中を突き飛ばして逃げ出す、なんて。想像するだけで無謀だ。抵抗して、逆上でもされたらどうなる? 何もできやしない。


 私は馬鹿だ。目先の安心しか見えていない、子供だった。考えが甘かった。こんなに簡単に悪い大人に騙されて、どうしようもない馬鹿。

 カズネは抑えられない自己嫌悪にひたすら自身を罵る。


 でも、あの時はそれしかなかったじゃない。他に何もできなかったじゃない。だって、まだ子供だったんだから。


 そうやって必死に言い訳を探すも、受け入れるには程遠い。頭では納得していても、心がどうしても拒否をする。

 カズネはもう、あの日泣いていた子供ではない。少なくとも、ノーテにとって。だからこそこんな目に遭わされようとしている。これからは他のメイド達のように、として扱われることになるのだろう。


 ノーテはカズネを薄暗い隘路の先に佇む建物へと誘った。入口に看板が掛けられていて、目立つ物といったらそれだけ。外観からは何の施設か分からない。質素な看板には、『脱色/着色』と記されている。

 どういう意味だろう。色を抜いたり染めたり、というと美容室くらいしか思いつかない。髪でなければ衣類とか? まさか!


 混乱と動揺で頭が回らないカズネの手を引き、ノーテは躊躇うことなく謎の建物に入る。

 扉が開くと、ラフな衣服を纏った金髪の男がにこやかに二人を迎えた。真っ黒なサングラスのレンズで目元は見えないけれども、非常に美しい顔立ちをしているのが分かる。しかしそれでいて、どことなく気味が悪い。

 彼はどうやらノーテとは旧知の仲であるらしいが、どうも友人という間柄のようには思えなかった。


 ただ、彼が何者であろうとも、そんなものはカズネにとってもはやどうでも良い。

 逃げられないのなら、せめて早く時間が過ぎますように。カズネにできるのは、そう祈ることだけ。


 ノーテは慣れた様子で金髪の男に金を渡すと、そのまま案内を待つことすらなくビルの奥へと進む。手を引かれるがままのカズネ。半ば自棄になりながらも、連れていかれたのは地下室。経験はなくとも、どのような部屋なのかはなんとなく分かっている——つもりだったが。

『何なの、ここ……?』

 室内は想像に対し、良くも悪くも全く違っていた。


 壁も床もまるで牢屋か何かのように無機質で装飾はない。しかし殺風景というのではなく、何に使うのかよく分からない機械やら薬棚やらが雑多に置かれていてごちゃついている。

 その中でも特に存在感があるのは、部屋中央に置かれた大きな椅子だった。何本かのコードに繋がれていて、ただ座るだけの用途には思えない。普段ならマッサージチェアの類いにでも見えたのだろうが、今の自分には処刑用の電気椅子といった方がしっくりくる。


「あれは……あの椅子、何、ですか?」

 絞り出すように震えた声で質問を投げかけるカズネを無視し、ノーテは穏やかな笑みを浮かべたままで何も答えない。代わりに、二人の後を追って入室した金髪の男が事もなげに答えた。

「何、って。あれで君の『色』を消すんだよ」

「『色』……?」

「そう。君が君たる所以、個性とかそういうものだと思ってくれたらいい。記憶とか、感情とか。そういう要素を一度抜いて、別の物で上書きするのさ」


 洗脳、というワードがカズネの頭をよぎる。そんなに簡単に、男が語るようなことができるものか。カズネの常識では考えられないことだ。

 ただ、この世界は彼女の生きてきた世界とまるで違う。そういった処置ができたとしてもおかしくはない。

 何より、男の言うことが真実だとして、それがもたらした結果があのアスコの変貌だとしたら。

 その仮説は、カズネを納得させるのに充分すぎるほどだった。


 爪が食い込むほどに拳を握りしめ、鳴くように呟く。

『……許せない』

 ノーテの行おうとしている行為を知ったカズネは、恐れよりも怒りを強く感じた。

 私は私の為に生きている。身体を好きにされる以上に、心を壊されるのは我慢がならない。

 許さない。こんなの、許すわけがない。

『あんたなんて……』

 ——あんたなんて、死ねばいいのに。


 カズネは口に出かかった言葉を飲み込んだ。喉が渇き、悪態をついて感情を吐き出すことすらできない。

 それなのに、逃げるなんてどうしてできようか?


 涙を堪えてノーテの姿に目を留める。

 昨日、そのジャケットを用意した。ネクタイもベルトもハンカチも、準備した。

 それ故にカズネは知っている。ノーテが常に、胸元に護身用の銃を忍ばせていることを。

 でも、だから何だというのだろう。銃を奪えるとでも?


 無理だ。隙を突いて、寝ている間にでも、なんて思うけれど。彼はそのようなあからさまな油断をしない。

 この部屋に連れてきたのは、それでも万が一の可能性を潰す為だ。そんな用意周到な男をやり込めることなどできるわけがない。


 ノーテはカズネに手を伸ばす。無理矢理にでもあの椅子に座らせる気だろう。

 嫌だ。何の為に私はあの日、この手を取ったというのか。カズネの心には後悔しかなかった。その感情も、おそらくこの後すぐになくなってしまう。

 なんで自分だけが我慢をしなくてはならないのか。その苛立ちに、先程飲み込んだ言葉を吐き出す。


『……あんた、死ねよ』

 口にすると少しだけ楽になれた気がした。そのまま頭の中でノーテを殺す。馬鹿だな。言ったところで、考えたところで。何も変わりはしないのに。


 ——そう、諦めていたのに。


 ノーテは伸ばしかけた手を引くと、自身のジャケットに潜ませた銃を取った。躊躇いなくその先を自身の口内へと突っ込み、流れるように引鉄に指を掛ける。


 何が起きたのかを理解するのは、部屋の中に破裂音が響いた後だった。


 カズネは呆然と立ち尽くす。間近で聞こえた銃声に頭を殴られたような衝撃を受けた。しかし、それ以上に目にした光景が信じられなかった。

 ノーテの行動は、まさにカズネがつい先程考えたままを再現しているとしか思えない。まるで、カズネの想像がノーテを洗脳したかのように。


 動かなくなったノーテを眺め、カズネは呟く。

『これ、まさか……』

 思い当たる節があった。かつてアスコから聞いた超能力の話だ。これまでカズネには、これといった力はなかった。

 これがそうなのだ、と思うと妙に確信がある。アスコの言っていたとおりだ。なぜできるのかは分からないが、何ができるのかは漠然と理解ができる。


 カズネはサングラスの男へ視線を移す。彼は驚きつつも冷静にじっとノーテの死体を見つめていた。

「これだと脳がもう駄目だね。Z型だし、残念だけれど彼はここまでか。可哀想に」

 淡々と男が話すのを聞きながら、カズネはこの場をどう乗り切るかを必死に考える。吐き気と耳鳴りを誤魔化しつつも生きる為の努力を優先した。

 本能で解るのだ。この男には、カズネの手に入れた力は使えない。


「あの、私……」

 見逃せ、と言って通じる相手なのか。確実に言えるのは、あまり真っ当な商売をしている者ではないということ。どうやってここから逃げ出そう。

 ちら、と横目にノーテの手元を見る。あの銃を奪えば、逃げられるかもしれない。


 そんなカズネの心を見透かすように男は口元には笑みを浮かべた。

「それで僕を狙うつもりならやめた方がいい。君、人の死は彼が初めてなんだろう? 見たら分かるよ。僕を殺したいならやってみるのは自由だが、きっと僕を殺しきる前に君の精神が保たないさ」

「……なら、どうしろってのよ」

「それはどういう意味だい?」

「そのままの意味よ。主人がこんなになってしまって、今更お屋敷には戻れない。でもそこ以外に行くところもないし、あんたに見られてるし。この先どうすればいいのか、もう分かんないわ」

「ははは。何だ、君は。そんなつまらないことで悩んでいたのか。彼はもう死んだ。なら君は自由じゃないか。いくらでも存分に好きにしたまえ」


 陽気な笑い声を上げて、男は掛けていたサングラスを外した。整った顔には薄く笑みが浮かんでいる。

 優しく、どことなく昏く輝く瞳をカズネに向けてから、彼はノーテに歩み寄った。

「これは餞別だよ。お得意様が居なくなるのは困ってしまうけれど、まあ仕方がないな」

 見開いた瞳を隠すようにサングラスを掛けさせると、ノーテの死の惨状が少しだけましになるような気がした。


 カズネにとって、ノーテは害である。そう位置付けられた。それゆえに死んだことに後悔はない。

 だけど一方で、殺したかったわけでもないのだ。出会った時のまま、紳士の皮を被ったままで、カズネやアスコ、他のメイド達の主人でいてくれたら良かったのに。


『……もしかしたら』

 ふと思いついてカズネは想像してみた。もしも彼の死が、カズネによって操られたものだとしたら。

 それならば逆に、何事もなかったかのように彼が生きていることを想像したらどうなるのだろうか。


「おやおや、これは……」

 サングラスを外したことで、男の驚いた表情をしっかりとカズネは認識する。


 効果は思ったとおりだった。蘇生まではさすがにできやしなかったが、ノーテの身体はカズネの意のままに立ち上がり、そのまま歩きだす。最初はふらふらとしたが、コツを掴めば簡単だ。頭に穴さえ空いていなければ、彼が死体であるとは誰も思うまい。

「これは、君がやっているのかい? それであればすごい才能だ。驚いたよ」

「……どうも」

「彼のように自意識の高い人間が突然の自殺なんて、とは思ったが。さては君が何か働きかけた結果がこいつ、と。そういうわけか。なるほどね」


 男は興味深そうにじろじろとノーテを観察する。よくそんな真似ができるな、とカズネは思うが、考えてみれば死体で人形遊びをやっている自分も大概だ。

 しばらくして、男はカズネに視線を移した。何かを思いついたらしく、悪戯っぽく口角を上げる。


「ところで君、主人の跡を継いでみるというのはどうかな。これはなかなかどうして、妙案だと思うんだが」

「……え?」

「君、彼の動きを制御できるんだろう? それなら君が彼の傍に立ち、この遺体を彼として振る舞わせればいいじゃあないか。君には帰る場所ができるし、僕も君と取引を続けられる。お互いに損はない」


 冗談のような内容を男はさらりと告げた。からかっているのか、とカズネが思うほどに男は平然としている。

「あんた、本気で言っているの?」

「もちろんさ」

 間髪入れずにそう返す。その態度はカズネにとっては腹立たしいものに感じられた。抜け抜けとよく言えたものだ。


「私は、さっきあんた達が私にやろうとした事を許す気はない。この先、私がここに誰かを連れてくるなんて、あり得ない」

 全力で男の提案を拒否する。受け入れるとでも思っているのか。であれば、舐めるのも大概にしろ。


 カズネの苛立ちを煽るかのごとく、男は悠々と煙草を取り出して火を灯す。

「構わないよ。君が望まないのであれば、誰もその椅子へと誘う必要はない」

 煙をくゆらせながら、カズネの予想に反して彼は言った。

「……嘘、なんで。それなら取引って何?」


 この施設の利用者の斡旋と、今日の惨劇の口封じ。それを天秤にかけているのではない、と言うのだろうか。では、目的とは何なのか。


「僕はね、君の主人の造る製品が気に入りなんだ。特注で毎度用意をしてもらっていてね。今後君が破滅しようがどうでもいいんだけれど、そこの彼の会社が廃業したら困る。僕が君に手を貸す理由はそれだけさ」


 自分勝手で恩着せがましい台詞。

 ただ、カズネにとってそれが救いであるのも確かだった。むしろ同情や慈愛による提案よりも、欲望の方が遥かに信頼できる。

 結局、浅ましい狙いが根幹にあったとしても、この世界でカズネが頼れる存在といえたのはノーテだけ。その彼がもうあてにできないのなら、おのずと進む道は限られる。


 カズネは、男に右手を差し出した。

「私は……私の為に生きるの。勘違いしないで、あんたの為じゃないわ」

 男が手を握り返す。あの日取った、ノーテの手とは違う感触だった。


 どこかから犬の鳴き声が響く。初めてこの街に着いた日のように。

 カズネはふと、二年前の自分を思い出した。まだ幼く、弱かった自分。


 そうだ、子供の私はもういない。

 私はとっくに大人だから、だから。

 ——だから、この状況を自分でどうにかしてやる。ここからは独りで、生き延びてやるんだ。


 部屋を出る時に、改めて例の椅子を見た。おぞましいと思っていたそれは、今のカズネの目にはまるで玉座のように魅力的なものに映っていた。

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