地理
「ようやく区境だよ、ネモ」
メルクの声に、うとうとと夢に沈みかけていた意識が現実に引き戻される。慌てて前を向くと、見上げるほどの巨大な壁がそびえ立っていた。
壁には標識のようなものが取り付けられている。書かれている文字は読めそうで読めない。しかし、『8→6』らしき数字だけは認識できる。
なぜ算用数字っぽいものが流通しているのかは不明。メルクが『残機』という言葉を使っていたように、この数字の表記ももしかしたら外界種の文化が伝来したものとかだったりするのかもな。
「さて、この壁を越えたら六番街だ」
メルクの示す前方、壁の一部には門のような設備があり、そこに何台かの車が連なっている。俺らの乗る車もその最後尾に並ぶ。
門は関所のようだ。あるいは高速道路の料金所。
ふと気になって訊ねてみる。
「はちばんがい、いま。ろくばんがい、かべ、むこう」
「そうだねぇ」
「ななばんがい、ない」
「七番街は通らない。反対側だからさ」
そう、なのか。八と六の間に七がないとは納得しがたいな。数字の数え方が違うわけではない、とどうしてだか分かっているだけにかえって疑問がわく。
俺のもやっとした感覚を察してか、隣のロフィが荷物の中から一枚の紙を取り出した。カラフルに色分けされたシンプルな絵と文字っぽいもの。地図のようだ。
「これを見て、ネモ」
百聞は一見にしかず。
なるほどな。地図を見れば確かに、七番街を通らなくとも八番街から六番街に向かうことができる。
ざっくりと各地区の位置関係を示すのであれば、こんな感じだ。
3 4
5
6 7
8
9 10
おそらく数字が小さいほど北なのではないかと思う。配置としてはこんな並びだけど、各地区の面積は均等ではない。北側ほど狭く、南下するほど広くなっている。
また地図上では、区の境目は色を変えて記されている。この色の切り変わっているライン部分というのが、実際には今目前にある壁なのだろう。
しかし妙だな。
「どこ、いちばんがい、にばんがい」
地図に示されているのは3から10までの数字。1と2はどこへ行ったんだ。
念のため地図の裏も確認してみたが特に記載されてはいない。数字は読めても文字は分からないので、説明があるのかもしれない。
「これは『壁中街』の地図だから、他の地区は載ってないの」
ロフィの言い方から、どうやら番号の付けられた地区を取りまとめた大きな区分があるようだ。
あれか、市区町村と東京都みたいなもんかな。あるいは東京都他と関東地方くらいの面積比かもしれない。地図に記載された情報量から、日本とアジアほどの規模感ではなさそうだ。
「へきちゅうがい」
言葉を繰り返すとロフィは何度か頷いた。指を地図に添え、簡単に解説をしてくれる。
「そうそう。ここの五番街から鉄道で上に向かうと『天上街』で、それから八番街から下に向かうと『地下街』ね」
「てんじょうがい、ちかがい、ばんごう、いくつ」
「地区番号のこと?」
「いちばんがい、にばんがい、どこ」
ロフィは先程指差した五番街を再び示す。
「ここの、色変わってるとこ。分かる?」
頷く。見れば五番街の一部、面積でいえば半分程度に斜線がかけられている。
「ここの線のところはね、高い山の麓をくり抜いて五番街を広げてるの。で、天上街はその山の上」
つまりはトンネルを山の中に張り巡らせているようなものか。そんな地形で山が崩れないのかが心配ではあるが、さすがに上手いこと支えになる部分は残したり、何らかの補強はしてあるのだろう。知らんけど。
「天上街のほとんどは二番街で、その端のもっともっと標高が高いところにあるのが一番街。選ばれた人しか入れないから詳しくは知らないんだけどねー」
結構格差社会なんだな。どこの国も世界もそんなもんなのかね。
「てんじょうがい、わかった。ちかがい、しりたい」
「地下街は三層に連なる人工の街で、八番街から降りて行くの。まずは十一番街、その下が十二番街、最下層が十三番街ね。地下街の各層は完全に重なってはなくて、鉄道を軸にちょっとずつ位置がずれてて……」
そこまで言いかけて、ロフィはそっと黙った。彼女に合わせて俺も地図から顔を上げると、ちょうど門にさしかかったところ。
門番というか係員というか、関所の担当者は長髪で細身の人物だった。優しそうに微笑んでいて、性別はぱっと見ではよく分からない。分かることといえば、血色からおそらくはZ型でない、ということくらいか。
ロフィにしか聞こえないよう、俺はそっと顔を近寄せて尋ねてみる。
(あいつ、Sがた、Tがた、どっち。おで、おもう、Zがた、ちがう、たぶん)
(あいつ、って門番さん?)
俺が首を縦に振ると、ロフィは後部座席から身を乗り出して相手の観察を始めた。しかしすぐに諦めた様子で座り直す。座席の配置から彼女の座る場所が最も相手から遠く、メルクの身体が邪魔をしてよく見えないのかもしれない。
通行料の支払いを済ませた車はそのまま門を抜ける。振り返ると、通り抜けた壁には『6→8』との標識が見えた。これで無事に六番街に入れたようだ。パスポート出せ、などと言われなくて良かった。ほっとした。
「ねえねえメルクー、さっきの門番さんってS型? それともT型? ネモが聞いてきたんだけど、帽子被ってて耳が見えなかったから。メルクは手元見たかなーって」
壁から離れるとそうロフィが訊く。メルクは特に考えもせずに即答した。
「さっきの人は僕と同じじゃないかな」
分かるもんなんだ? 俺には見た目でその差が分からないんだが。耳や手元に特徴があるのかな。
「みみ、てもと、みる。なんで、わかる、しゅぞく」
そう口にしながら隣のロフィに目をやる。耳は髪で半分ほど隠れていてよく見えない。
俺の視線に気付いたようで、ロフィは照れながら髪を掻き上げて片耳に掛けた。
「私達T型ってね、耳が長いの。とは言っても、私かなり耳が短い方だからあんまり参考にならないかもだけど」
そう言われてみれば、やや耳の先が尖っているような。よく漫画やゲームで出てくるエルフだとか悪魔だとか、そういう感じの形なのか。そして個人差がある、と。
T型の判別を耳でするとなると、手元にはS型の特徴が出るのだろう。気になって運転席の方を覗き込むと、メルクは俺の興味を察したのか、にやりと笑って片手を挙げた。そのまま手のひらを開く。
何かが気になるような……けど、何が?
「あ」
俺は自身の手と彼の手を見比べる。メルクは、右手と左手が逆についていた。いざ意識してみるまで何とも思わなかったのに。
腕が落とされた時にはそんなのチェックするどころじゃなかったし、ゆったりとした袖口のせいで今までちっとも気付かなかった。
なるほど。
「はだ、みみ、ゆび。みわける、わかった」
「例外だらけですけどね」
俺が学習の成果を披露するのに合わせて、グラフェンが水を差す。
「他人を見た目で判断しないこと。たとえば、特殊な義手を使っている厚化粧のZ型って可能性もある。倒すべき敵なら種の分析は必要ですが、他人なんてどんな種だとしてもアンタには関係がない。どうだっていいでしょうが」
うーん、それはそう。グラフェンが言ってることは半分正論だな。確かに興味本位で聞いてみたことではあるので、そこらへんの主張は認める。
だけど、今の言葉には一部反論したいね。
「たにん、ぶんせき、いらない、わかる。おで、しりたい、おまえら。おまえら、たにん、ちがう。おで、ひつよう、わかる、ぶんか、じょうしき」
分かるかな、グラフェン先輩。あんたの言うとおり、他人には深入りすべきじゃない場合はある。そこは理解してる。
だけど他人に興味を持てないと、そこから交流することはできない。なんだったら、無知ゆえにかえって相手を傷付けることになるかもしれない。
俺が元の世界に戻れるのか、はっきり言って分からん。だから俺は色々と知りたい。
それはこの世界で生きてく為であり、この世界で最初に知り合ったあんたらと上手く付き合っていく上で知っときたいからなんだぜ。
……なんてかっこいいことを言ってみたいわけだが、すまん無理だ。語彙力の限界。察してくれ。
俺の念が通じたのか、面倒くさくなったのか。グラフェンはそれきり前を向いて黙ってしまった。助手席を眺めるメルクが笑っているので、前者だろうと勝手に思うことにする。
「と言うわけでー、だいたいはそれで分かるの。グラフェンが言ってたような例外の人とか、私みたいな奴もいるけど。ここらへんも含めて確かめるにはもう傷見式テストするのが早いっていうか、それしかないっていうか。そんな感じでーす」
ロフィが強引にまとめる。
傷見式テストっていうのはもしかしたら、俺の手に付けられた傷と関連するのかもしれないな。この場で詳しく聞いてもいいんだが、またそれとなくロフィに聞いておこう。
聞きすぎてグラフェンが苛立つのも嫌だし、それに今は他にやりたいことがある。
メルクは車の速度を落とし、そのままそっと道の端に停めた。そのすぐ近くには、鮮やかなゴールドに塗られたキッチンカーが営業をしている。目的地、いや寄り道か。探していた店に到着したようだ。俺の為にありがとう。
車を降りると、聞き慣れた音がする。俺の地元的には、ワンワンと表現されるやつ。要は犬だ。いるんだなあ、犬。
鳴き声の方を向けば、毛並みこそ見たことがない独特な色だが、きちんと犬って分かる雰囲気の生物が二匹。ブルドッグっぽいのと、ダルメシアンっぽいの。鳴きはしたが吠えるというほどではなく、しっかりと座って尻尾を振っている。たいへんお行儀が良い。いいなあ、犬。
「どうも、いらっしゃい」
犬の声を呼び鈴の代わりにしているのか、奥から店主らしき女性が現れた。短く刈り上げた髪にピアスだらけの耳、頬から首筋にかけて刺青もある。結構強めなスタイルだが、そんなんどうでもいい。
この人の、腕——。
「お客さん、ウチは初めて……じゃ、ないね。そっちの二人は前に来たことあるでしょ、覚えてるよ。新しいお友達も連れて来てくれたの?」
店主はそう言って口の端を吊り上げる。その笑みにメルクはさっと顔を逸らした。目が泳いでいる。グラフェンの方は特に変わらない様子で、軽く一礼した後にメニュー表を手に取った。
「ええ、お久しぶりです。メニュー、かなり増えてますね。あれから何年も経つのに、まさか覚えてくれてるとは思いませんでしたよ」
「そりゃあね。この辺りに住んでるのはほとんどがZ型だから、ウチの店にはS型のお客さんなんて特定のメンツしか来ないし。それに、あの時誰が後処理したと思ってんの?」
「うぅっ、すみません……」
消え入りそうな声でメルクが呟く。心なしか顔が赤い。さては、過去に何かやらかしたっぽいな。
ただ店主はさっぱりした性格らしく、グラフェンにもメルクにも、もちろん俺やロフィにも変わらずにニヒルな笑みを投げる。メルクは恐縮しているが、店主の方は全然気にしていないようだ。
「で、注文は? そっちのS型の兄さんは食べないでしょうけど、新規のお二人さんはどうする?」
「ああ、注文は俺と後ろに立ってる彼だけです。二人とも季節のおすすめを」
店主の問いにはグラフェンが答えた。さらっとロフィは注文対象から外されている。まあ、そうだよな。あの生野菜を美味い美味いと食ってるんだもんな。
……待てよ?
ロフィと俺であれだけ食の好みが違うんだ。グラフェンの方が味覚近い説があるとはいえ、こちらもあっさりと信頼すべきと言えないのでは。
俺は慌ててグラフェンへ告げる。
「あじ、ふあん。たべる、できない、こまる。おで、したい、ししょく」
基本的に好き嫌いはないので食えるものなら食うが、食えないものが出てくる可能性も高い。グラフェン自身も注文しているわけだし、食べられなかった時に残すのはなんか嫌だ。店主にも食材にも悪い。
グラフェンは俺の言い分に対して納得したようで、嫌そうながらもすぐに店主に注文の修正をかける。自身の注文はそのまま、俺の方はとりあえずサイドメニューに変更してもらった。これで安心だ。食べられそうなら追加をお願いしよう。
「お好きなテーブルへどうぞ。テイクアウトでも良いけど、今ちょうど空いてるし。お連れさんも座りなよ」
促されるまま、俺は席に着く。陣取るのはキッチンが一番良く見える椅子。気になりすぎるのだ、彼女の手腕が——つまりその、彼女の四本の腕が。
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