黒霧
——東京都某所、十月三十一日。
◎
視界を奪う黒い霧の中、俺は真新しい携帯電話のライトと感覚を頼りにいつもの路地を歩いていた。バイトの帰り、慣れた道とはいえ、やや遅くなってしまったせいで歩きにくいことこの上ない。
黒い霧。
九月の初め頃から突如発生したそれは、現在世界各地に蔓延している。原因は未だ不明。
謎の現象に当初世間は戸惑っていたが、人間ってやつはどんな状況にも大抵すぐに慣れるもんだ。引きこもっていては結局経済が回らない。ひと月もする頃にはみんな普通の生活に戻っていた。
もちろん、俺も例外じゃない。
悪天候でもやって来る生徒がいれば塾は開かれる。つまり講師をやってる俺も出勤しなければならなかった。働きたくはないが仕方ない。
大学は奨学金があるとはいえ、独り暮らしの家賃に食費に光熱費、携帯電話の料金。これらを支払いつつ、実家になるべく迷惑をかけずにそれなりに自由にできる金も手に入れるとなると、こんな天気でもバイトに行かざるを得ないってこと。
鬱陶しいだけで、特に人体には害がなさそうらしい霧。専門家はそう言ってるとかなんとか。
交通機関にはそれなりに打撃を与えたが、昼間のうちはさほど影響はない。夜間はこうして面倒でも、人の少ない地域では霧は薄いと聞く。高速道路と空の霧が濃くなければまあ、世の中の混乱はこんなもんだ。
日々のニュースではとっくに霧の話は旬を過ぎ、最近ではもう騒がれなくなってきている。ネットではまだネタにされているらしいけども、陰謀論だとか神の怒りだとか、本気か冗談かの判別がつかないような噂が飛び交っているだけ。
そのうちみんな、この秋の異常気象を忘れるだろう。
——などと、この時の俺は思っていた。
前提として、人々は認識を誤った。黒い霧はどこからか湧き出してきたガスのようなものではない。むしろ逆。
何が言いたいかというと、つまりだ。
この霧はどこからか出てきたのではなく、その中に入ったものを吸い込んでいた、らしい。
なぜ分かるのか。
そりゃ、俺がそれを体験したからだよ。
◎
鈍い痛みに目が覚めると、俺は覚えのない場所にいた。
『うっ——』
呻きながら身を起こす。ここがどこなのか、自分の身に何が起きているのか。頭が働かず、よく分からない。
芳香剤だか香水だか、咽せるような匂いが鼻をつく。薄ぼんやり目を開き周囲を確認すると、おそらく車の中にいるようだ。
見知らぬ団体と一緒に。
『どこだ、ここは?』
訊ねるが、俺を覗き込む奴らは答えない。
『あんたら、誰なんだ?』
なおも言葉を続けるが、誰も何も言わない。どうやら俺の言葉が通じていないらしい。まあ、それもそうか。
俺を囲むのは三人。
そのいずれも日本人には見えなかった。
まずは、隣に座る女。年齢はだいたい
肩のあたりまで伸ばした髪は金髪かそれにほど近い茶髪。海外ならいざ知らず、日本ではあまりお目にかかる明るさの色ではない。バイト先によってはアウトだな。
見ようと思わなくても目に入るので服装に言及すると、勝手に目に入るくせに目のやり場に困るほどにはやたらと露出が高い。水着、あるいはスポーツジムの広告に出てるモデルくらいの布面積だ。とっくに夏の名残は消え失せていると思うが、寒くないのだろうか。腹筋すごいし、元気そうではあるけど。
次に、車の運転席からこちらを見る男。二十代後半くらいか、まだ三十路まではいかないと思う。
派手な銀髪はアッシュに染めてるとかそういう感じじゃなく、青みがかっていてアニメでしか見たことがないくらいに現実離れした色。しかもかなりの長髪で、三つ編みにしているのにその先端が隠れて見えない。童話に出てくるラプンツェル、とまではいかないだろうが、概ねあんな感じだ。日常に不便でしかないだろう。
服は先述の女が着ているものとは明らかに雰囲気が異なっており、何枚もの布を重ねてゆったりとしている。端の方が破けているのは、どこかに引っ掛けたのかもしれない。
最後に、助手席の少年。まだ幼い感じがする。およそ中学生か、小柄な高校生……はないか。従兄弟も背が低かったけど、あいつが中学生の時このくらいだったな。むしろ背の高い小学生だったりするのかも。
硬そうな、黒に近い赤毛。容姿は、三人の中では一番普通っぽい。普通の定義を聞かれても困るが。ただ薄暗くとも分かるくらいには顔色が悪く、表情は険しい。やっぱり普通ではないのか。分からん。さっきから感じている強い匂いの出処はどうやらこの子供のようだ。
バイク用みたいなごついゴーグルを額に載せ、口元まで隠れるような形の襟がついた通気性の悪そうな生地のジャケット。全体的にほぼ露出がない。女は水着みたいな服なのに、この少年はまるでスキーヤーだ。女の方は寒そうだが、逆にこっちは暑くないんだろうか。最近冷え込んできているとはいっても、さすがに日中はまだこんな真冬のようなアウターを着るには早いだろ。いや、真冬ですらここまでの防寒着で街を歩いている奴は都内にはほとんどいない。
結論として。
ここは日本ではなさそうで、この三人はきっと日本人ではない。だから日本語も理解しないだろう。どうすっかな。
と、回らない頭が動き始めたところで俺は最初に感じた痛みのことを思い出した。状況に気を取られて忘れていた。
痛みを感じるのは左手。見れば布が巻かれている。簡易な包帯として誰かがこうしてくれたらしい。滲む血に顔を歪める。
『何だ、この傷……?』
さっきまで忘れてたのが嘘のように、いざ認識すると痛いな。どこで傷つけたのかは分からないけど、そんなに深い傷じゃないといいが。
「ごめん、それやったの私なんだけど……その。あなたが外界種だなんて、知らなかったから。あ、念のため聞いとくけど、あなた抵抗派とかじゃないよね?」
——え?
真顔になる俺。
どういうことだ? さっぱり分からん。よく知らない単語はさておいて、ともかく何で今、女の言ったことが理解できたんだ?
女は申し訳なさそうにしている。この怪我の手当ては彼女がやったということか。これ巻いてくれたのはあんたなんだな、と聞きたい。
いやその前に、なぜ俺がそっちの言葉が分かるのに、そっちが俺の言葉分かってくれないのか知りたいんだが。
「えーと、こっちの言ってること分からないかもしれないけど、許してくれたら嬉しいなー、なんてぇ」
だから、そっちの言ってること分かるんだって。あーくそ、もどかしい。なんで日本語通じないんだよ。
こうなりゃ自棄だ。聞けるなら話せるかもしれない、と俺は思い切って声に出してみる。
「おまえ、やった、これ」
喋れた。
自分の耳で聞いた感想としては、正直言って半端に知能を持った怪物レベルの語彙。だけども、たぶんこの三人には伝わったんじゃないかと思う。そんな顔をしている。
「え、あっ、分かる……の? 私達が、何を言ってるのか」
俺は頷く。どうやら、本当に伝わったらしい。すごいぞ、俺。
「おまえ、わかる。おで、いう、こと」
「うん、まあ。今のあなたの言葉はなんとか分かる。雰囲気だけ」
やったぞ。なんか知らんがいけた。
『いや、マジか。意外と通じるんだな』
「ごめん、そっちの言葉は分かんない」
日本語で呟いた独り言はやはり拾ってはくれない。けれど反応から、無理やりに発した俺の現地語は確実に相手に伝わっているようだ。
しかし、これからどうするか。聞きたいことは山ほどあるが、この調子では意思疎通ができるとはいえ、まともな会話になるのかどうかといわれたら怪しい。
「この言葉……もしかしたら、ただの外界種じゃないのかもしれないですね」
「どういうこと?」
「
「そういう超能力、あるんじゃないの?」
三人は俺をよそに盛り上がっている。言葉としては伝わっているのだが、意味はよく分からない。
「ねえねえ、どうしようこの人。ともかく死ななくて良かったけど、置いてくのもかわいそうだよね? 弱そうだし」
「はぁ。だから変なもの拾うの反対だったんですよ、俺は」
「あのさぁ。彼、僕らの言ってること理解してるんでしょ? 二人とも、言葉を慎みなさいね」
三人は苦悩する俺の前で不穏な相談を始めた。ここがどこかもよく分からない状況で置いて行かれても困る。本気でどうしよう。
どうにか打開策を、と考える俺に長髪の男が微笑みかけてきた。
「ところで、君はなんて名前なんだい? あ、僕のことはメルクって呼んでね。落ち着きがないのがロロフィリア、愛想がないのがグラフェンだよ」
「言い方ー」
「いや、事実じゃないのロフィちゃん」
なるほど、この男はメルクというらしい。女の方がロロフィリアで、ロフィと呼ばれているようだ。しかめ面の少年がグラフェンな。
自己紹介をしてくれたのはありがたい。気分的にだが、多少なりとも打ち解けた空気のようなものが生まれるというか。俺もメルクの問いに答えておく。
「おで、なまえ、ネモトゲンキ」
漢字で書くと……って、無駄だな。そんなことは相手には関係ないだろう。ひらがなカタカナですら読めやしないに決まってる。
「了解。ネモでいいかな?」
さっそく略された。そこで切るのか、とは思うがまあいいか。訂正するのも大変だ。俺は頷く。
「それじゃ、ネモのことをアサヒさんに連絡しとこうか。彼を今後どうするかも相談しよう。変わったもの見つけたら報告しろ、ってのが今回の仕事だったよね」
「あ、忘れてた」
ますますよく分からないが、どうやら俺の今後はアサヒという人に委ねられたようだ。
メルクはロフィとグラフェンが同意するのを確認すると、車に備え付けられた液晶っぽい画面の横にある電源を入れた。カーナビだと思っていたが、どうやらこれで他人と連絡を取れるらしい。通信機としての機能があるんだろう。
それにしても、アサヒか。『朝日』って書くのかな。ちょうど朝日出てるし。待てよ、『旭』かもしれないな。
……なんて、どうでもいいか。いずれにせよ、その人に日本語が通じればいいんだが。
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