第2話 この足で一歩踏み出せば

 柔らかい砂に負けぬよう踏ん張りながら、私は海辺を歩く。さっきテレビに映っていたあるインタビュー番組が脳裏に焼き付いて、空腹だった私をさらに苛立たせていた。内容は、火星に到着した宇宙飛行士の父を特集するもので自慢げに息子を語っていたわけだが、その父親が本当に鼻につく。自分は至って平凡であるということを繰り返しながら、息子の偉業なんて気にしていないような素振りで偉そうにインタビュアーと会話していた。恵まれていたり、持っていたりする人間は決まってそんなセリフを放つ。

 波が引いていく。海を見ると映画を撮りたくなったあの頃の私は、裸足でこの浜を歩き「臨場感が必要」なんて言ってブレた映像を“芸術”と称していた。何の変哲もない、女が一人で浜を歩きメランコリックな自分を時々撮ったりする。本当につまらない映像だ。

 スニーカーの隙間から砂が入り込む。裸足で履いていたから細かな粒子の感触を直接味確かめることができる。砂は好きだ、彼らは均一であることを望まれ個性を殺すことで本領を発揮する。私も砂であれば、きっと。

 携帯電話が鳴った。気分は良くないが、憂さ晴らしにはうってつけの相手からの着信だ。

「もしもし?」

「よう、元気か?」

 声の後ろでは大勢の大人が慌ただしく移動する音が聞こえる。きっとカメラや照明やマイクを運んでいて、発信者の充実ぶりを表している。私はより一層不快になった。

「私のことを気にする余裕も出てきたんだ。有望な若手は飲み込みも早いね」

「開口一番それかよ。その嫌な性格さえ直れば、また飲みに行ってやるのに」

「偉そうな男、業界に染まっちゃったね」

 向かいから、ランニングウェアを着た体の締まった男性が走ってくる。いつもこの時間になると、彼はサンバイザーの下に輝かせた瞳を私に向けて挨拶をする。あまりにも速く走るので、すれ違う僅かな時間では彼を認識するのが精一杯だがなんとなく俯いて視線を合わさないようにしている。

「おい、聞いてんのかよ」

 愛想のない低い声が鼓膜に響く。

「ぼうっとしてた」

「はあ、お前はいつもそうだよ。ぼうっとしてたり、余計なことばかり考えてせっかくのチャンスを逃したりする。いちいち気にせずに普通にやって卒業しとけば、今頃俺より上手くいってたのに」

 流されておけばいいのに、クロはそう付け加えた。右のこめかみに鈍い痛みが走って拍子にもう一度海を眺めた。穏やかな波に捨てられたペットボトルが流されていた。

「そんな仮定の話ばかりしてたら、あんたもチャンスを逃すことになるよ」

「こう見えて世渡りは上手い方だぜ?お前も知ってんだろ、飲み会は最後までいるし煙草休憩もついていく。コミュニケーションだよ、お前に足りないものさ」

 溜息を吐く通話相手とは違って、短い呼吸をリズミカルに繰り返すランナーが迫ってくる。彼は視線を交わし、いつものように軽く相槌を打つ。日に焼けた肌に白い歯がコントラストを産んでいる。私はそれを無視する。

「モモはさ、もう撮る気ないのか?」

「ないよ、もう諦めた。何年前の話をしてるの?」

「何年って……。たかが三年だぞ?お前が大学中退してから、三年しか経ってない」

 クロは何も分かっていない。三年も経てば感受性もセンスも、その言葉を使うことすら烏滸がましくなるくらい錆が付いてしまう。大学を卒業してから、死ぬ気で夢を追い「今」に生きている彼には到底分からない話だ。

「とにかく、もう撮らないの」

「俺はお前の撮った映画、好きだったぜ。今でもテープを見返すんだ、そんで、時々知り合いの監督に言ったりする。『昔、凄い映画を撮ったやつがいる』ってさ」

「……へえ、じゃあなんて?」

 平静を装うように言ったが、鼓動が早くなっているのは明白だった。立ち止まり、波が入り込んで湿っている砂上をキャンバスにして、左足で弧を描く。何度も弧を往来しながらクロの返事を待つ。

「残念ながら興味はないとよ」

「まあ、そりゃそうでしょ」

 ばれないようにしゃがみ込む。喧しかった鼓動が収まる。

 休憩時間が終わったらしく、クロは電話を切りそそくさと現場仕事へ戻った。苦楽をしる大学時代の旧友との五分間は、私の歩みを止めるには十分の重さだった。彼の姿は、あまりにも眩しい。

『君の作品は、なんというか弱さが出てるよね。今まで自分と向き合ったことないでしょ?』

 三年前、大学最後の年に教授に言われた言葉が今も忘れられずにいる。それは芸術学部からはかけ離れた精神論にも似たような、かなり体育会系の表現だと当時の私は錯誤していたけれど、後にも先にもその言葉ほど私を表したものはなかった。

 足元にペンダントが落ちていた。金色のチェーンに青い宝石が付いている小ぶりのものだ。夕日に反射して青と黄色が交じった独特の光、体育座りをしてそのペンダント越しに海を見るとファインダーから水平線を覗いたあの日を思い出した。

「おーい!」

 背後から声が聞こえた。誰かを呼び止めているようだが、この浜に私しかいないのは明白だ。振り返ると、さっき快速ですれ違った褐色のランナーがこちらに向かって手を振っていた。

 返事をする前に、ランナーは私の元へやってきた。力強く踏み込んだ後が浜に残っていた。

「ねえ、君。ペンダント知らない?ほら、青い色の……って。それそれ!」

 日に焼けた男は騒がしい。輝いた瞳はペンダントと私を忙しなく交互に見て、嬉しそうに手を叩いた。溌溂で、うるさいおじさんだ。ペンダントを渡すと男の表情はまた新しくなった。慈愛に満ちたており、瞳は少し潤んでいる。

「ありがとね、これがないとダメなんだ」

「……大切なものですか?」

「ああ、娘からのものでね。君と同じくらいだったはずだ」

 断定がない部分には触れず「そうなんですね」と相槌を打つと、男はさらに言った。

「おじさん、ロウって言うんだ。お嬢さんの名前は?」

「モモです」

「モモちゃん、いい名前だ。よくここで会うよね?何をしてるの?」

「散歩です、海が好きなので」

「そうか。おじさんもこの海が好きだよ」

 立ち上がって波に正対すると、男の筋肉に満ちた四肢はより映えていた。走り続けることで得られる引き締まった筋肉は彼の弛まぬ努力を誇示していて、勝手に卑屈になってしまいそうになる。「ごめんね、あまり若い子に話しかけたらだめだね」男はそう言って、解けかけた靴紐を結び直した。

 日課の散歩で出会うたび反らし続けた視線に対し、勝手に罪悪感を覚える。間を埋めるため適当に言葉を紡いだ。

「どうして、走ってるんですか?」

「僕かい?」

 あなた以外誰がいるのだと思いながら頷く。大きな靴の甲に休む蝶は羽ばたく準備をしていて、黄色の羽を閉じていた。

「そうだなあ、面倒くさいからかな」

「面倒?」

「そう。面倒なんだ、現実のことを考えるのが。走ってるときは何もかも忘れるんだ。脚を取られる浜辺で自分の限界まで走って鼓動が早くなれば、脳に酸素が回らなくなってバカになるからね。現実は困ってしまうことが多い、だからこうして逃げてるんだ」

「へえ」

 男の言っていることは、よく分かるようであまり理解できない。

「すごいですね。それでも走って、そんな鍛えて。私は続けられたことないから」

 退学届けを出したあの日のことを思い出す。自らの意志で届出たにも関わらず、大粒の涙を流しながらキャンパスを後にしたあの日のことを。止めてくれたのはクロだけだった。

「別に凄くないさ。それにモモちゃんだって、続けてきただろ?この砂浜を毎日歩いているじゃないか」

「……そんなの、褒められたものじゃないですよ」

「何言ってるのさ!君がいなければ僕のペンダントは砂に埋もれて見つけられなかったかもしれないし、最悪の場合波にさらわれて海の中で眠ってしまっていたかもしれない」

「ロウさんなら、きっと自力で見つけていましたよ」

「それでも僕は、モモちゃんに見つけられて幸福だったよ。今こうして君と話せてるんだから」

 変な人だ。強引なポジティブシンキングに誘われた私は、思わず弱音を吐いてしまった。

「私、昔映画を撮ってたんです」

「へえ!すごいねえ!」

「学生の時ですけど、そういうの勉強してて。あ、でも、全然才能なんてなくて。この海が好きだったからずっと撮ってて。友達は好きって言ってくれて、その友達は今、業界で働いてるんですけど。でも、せ、先生は『ダメ』って言って。弱さが出てて、自分と向き合ったことないでしょって言われて。それで、怖くなっちゃって。向き合わなきゃって思って海を撮ってたら、この海も自分も嫌いになっちゃって。もう戻れなくて、それで学校辞めちゃって。でも、どうせ続けて卒業して制作会社で働いても、今よりずっとストレスとか疲労とかすごいから同じだろうなって思って。じゃあ、これでよかったのかな。でもなとも思ってて」

 支離滅裂な言葉を、ロウさんは一度もからかったり笑ったりせず、黙って頷きながら聴いてくれた。彼の顔は波のように揺らいでいた。輪郭がぼやけ健康的な肌と美しい真珠のような瞳だけが、抽象画のように映っている。涙が溢れた。袖の汚れたTシャツで必死に拭うと、大きな掌が背中を支えてくれた。

「モモちゃん、君は強くて優しい子だ」

 彼は背中を二度叩いた。

「その若さで自分のことがそれだけ分かっていれば、君はきっと大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない!若さなんか、何の役にも立たない!」

 ロウさんの手を払いのけ体育座りをして閉じこもる。「まだ若い」というモラトリアムの扱いを受ける自分自身に、手を跳ね除けたことを後悔する自分自身に腹が立つ。それでもロウさんは何度も「大丈夫」と繰り返した。

「後悔することも、怖がることも、逃げることも悪いことじゃない。モモちゃんはそれを分かっているから、むしろ素晴らしいことなんだ。僕はね、ここで君とすれ違う時いつも君の眼を見ていた。いつも砂や海を見つめていたね。それはとてもいいことなんだ。人は何かを考えることなしに、砂浜を歩いたりしない。『何も考えないでいる』っていうのも『逃げてしまいたい』というのも、立派な思考の一つなんだ。だから、僕と君は同じ理由でこの浜に来ている。君が僕を偉いというなら、君だって偉いじゃないか」

 説得力があるのかないのかよく分からない理論で、私の涙は引いていった。少しずつ呼吸が落ち着く。

「僕もね、必死に考えないといけないことがあるんだ。でも怖くて逃げてる」

「……さっき言ってた、娘さんのこと?」

「ああ。この海に飲まれてしまったんだ、まだ小さいときにね」

 私はようやく視線を上げて、ロウさんの瞳を見つめた。優しく慈しみに富んだ表情が、つらい話をしているとは思わせず私を抱擁する。

「娘は走ることが大好きだった。それで彼女の分まで走ってるんだ。これでも昔は太ってたんだ。体重も三桁あった」

 一言で済ませる過去を私は全く想像できなかった。彼にとっては体重の減少も「過程」でしかない。ロウさんは今、その過程を経てどんな結果を望んでいるのだろう。

「たくさん考えてるじゃないですか」

「確かに。僕らはずっと、迷ってるみたいだね」

 夕日は随分沈んで寒い風が吹くようになった。たくましい腕に助けてもらいながら立ち上がると、身体が軽くなった気がした。ロウさんも帰る時間になったらしく、彼は街のある東側へ、私は港のある西側へ向かう。住処にしている港側のアパートには話せる人がいないと言うと、ロウさんは街にある喫茶店に連れていく約束をしてくれた。彼がどんなメニューを頼むのか、楽しみが芽生えた。

 別れを告げた後、ロウさんは振り返って大きな声で私を呼び止めた。

「モモちゃん、砂浜を歩く時のコツはしっかりと足下で踏ん張ることさ。後ろに蹴るだけじゃなかなか進めない」

 そう言い残して、彼はまた快活なスピードで遠くの街灯に誘われるように消えて行った。早速靴紐をきつく縛って、足元に力を入れてみる。もう砂は靴に入り込まなかった。

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