世界を、さまざまな角度で

西島渚

第1話「吹き出す、膨大な量の青い雲」

「ああ、あの日のことは鮮明に覚えてる。俺は分娩室の前なんかじゃなく外回りをしていた街の一番勾配が強い坂道で、夕陽を眺めてた。今でも言われる。『あの時出産を見守ってくれなかったから、いつもあんたにはメインディッシュを少なく作る』ってね。もちろん、反論の余地なんかないさ」


 少し薄くなった髪を弄りながら、男性は照れた表情を見せた。


——意外でしたね、息子さんからは夫婦円満で今でも二人で観に来ると仰ってましたよ。


「まあ、仲はいいよ。もう結婚して三十年になるから。ただ、若い頃は仕事で必死でなあ。その分、家庭を顧みなかったから申し訳なさと後悔があるね。だから息子が今の仕事に就いた時はびっくりしたよ、自分の子供にこんな才能があるのかって」


——かの本人は父親似だと仰ってましたが。


「まさか!確かに大きな鼻は似てるけどな。それ以外、特に頭の良さと行動力の高さは妻似だよ。俺はごく普通の、本当に普通のサラリーマンさ」


 ——今日はそのお父様に、お父様ご自身のお話を聞きに来たんです。


「参ったなあ、物好きだね」


 男性はまた照れた表情を見せた。チャーミングな笑顔ではあるが、最近どうも薄毛が気になるらしい。少し咳払いをした後、彼の語りが始まった。


「五十八年前、俺はここからずっと離れた、小さな町に生まれた。その町は本当に何の特徴もなくてね、人も少ないし店も少ない。都心から離れた退屈な町だよ。まあ、息子は今でも大好きらしいけどね。とにかく、その平凡な町の数少ない子供として幼少期は過ごしたよ。学校から帰ったら野原で野球をして、たっぷり汚れたらおふくろ特製のシチューを食べて工場から帰ってきた親父のビールをちょびっと飲めば、すぐ寝ることができる。そんでまた学校に行くんだ、神の教えを学びにね」


 ——ビールの件は放送できないですね。


「なんだ、残念。とにかく、そんな感じで中学まで過ごした。あの頃は楽しかったよ。町しか知らないガキだったけれど、知らないことも知らないから楽だった。思春期を迎えると、それが一気に嫌になるんだ。分かるだろ?自分に問い掛け始めるのさ。『俺の人生はこんな工場のおっちゃんばっかりの、ちっちゃい町で終わっていいのか?』ってね、都会に飛び出すのさ」


 ——青のネクタイ、お似合いですよ。


「はっはっは!嬉しくはないねえ。中学を卒業した後は、音楽を始めたのさ。地元の奴とバンドを組んでね、俺はドラムをやってた。不思議だろ?一丁前に格好付けようとしてるのに、ギターもボーカルも選ばず、新しいことを始めるのにも地元の奴と一緒さ。もちろん、ある程度人気は出たさ。ちょっとした有名バンドになって、一丁前に曲も出したさ。地元の倉庫で録ってね」

 ——『青い空と僕ら』ですよね?

「そこまで知ってるのかい!?またあの息子の仕業だね?困ったなあ。そう、その通りさ。青臭いバンドだよ。自分たちのことを信じて疑わず、どこまでも行けると思っていた。まあそんな絵空事、すぐに途切れてしまうんだけれどね」


 ——高校卒業と同時にバンドは自然消滅。あなたは進学ブーム真っ只中にも関わらず、地元の工場で働いたとか。地元から離れたがっていたあなたが、どうしてお父様と同じ職場へ?


「簡単さ、外へ出る勇気がなかったのさ。バンドを辞めようと言ったのも俺で、外の誰かと張り合うことが怖かった。ダサい奴さ。ただ、もっとダサかったのは外へ出ようとしなかった事自体じゃなくて、その理由を偽ったことさ。『家が貧乏だから、外に出たくても出られない』『引退が近い親父の工場を仕方なく手伝ってやる』そんなことを言いふらしてね、自分が陰で臆病者だって言われているのにも気付かず、みんなの「悲しんだ顔」に浸っていたのさ」


 ——けれどその後、悲劇が起こった。


「そう、親父が死んだのさ。高校を卒業して三年立った頃だった。絶望したよ、何も喉に通らなかったしお袋はずっと泣いていた。働きすぎで心臓が悪くなってからはあっという間だった。俺を襲ったのは虚しさだった、親父に対してではなく親父がいなくなった後、仕事の面でも息子の面でも無力だった俺に対してだ。景気は悪くなり、工場は潰れた。俺は二十歳かそこらで無職になって、それが恥ずかしくて町を出た。皮肉な話だろ?町を出るのが怖くて閉じこもっていたのに」


 ——そうは思いません。息子様の話を聞いていると、あなたはご立派だと思います。


「あんたも息子も、よく出来過ぎさ。俺は普通の人間だよ。けれどまあ、町を出なければ妻とも出会わなかったなあ」


——奥様と出会ったのは次に就職した保険会社だったとか。


「そう。俺は営業で妻は事務の部署にいた。あの頃は大変だったなあ、人生で一番辛かった。二度と戻りたくないね。思い出しただけで頭が痛くなる」


 ——保険営業は厳しいとよく聞きます。


「ああ、厳しい。なりふり構わずアタックするんだ、知人も友人も何もかもに保険をかけに行く。俺が若い時代は割り振られたエリアの家をしらみ潰しにノックするんだ。汚い言葉を投げられたり、ぶん殴られそうにもなったな。最初の三年くらいは本当に何もうまくいかなくてね、ノルマも全く達成できなかった。ずっとずっと怒られっぱなしさ」


 ——あなたが、ですか?


「ああ、誰だってそんな時はある。相手のことを知ろうともせず、自分のインセンティブのために嫌な売り方をしたり相手を蔑ろにしていると思われても仕方ない商談をしていたよ。とにかく、ビジネスの基礎の基礎もできていなかった。それも最悪だったが、メンタルはもっと酷かったね。断られるたびに、失注するたびに自分が否定されていく感覚に陥るんだ。そうなると誰も頼れない。上司にも誰にも自分の本当の思いを話さず、一人で苦しくて仕方ないのに職場で孤立し始めていた。次第に燈は消えていき、仕事をサボるようになった。二十五くらいの時さ」


 ——今、同じ状況の部下がいるとしたらどんな声を掛けますか?


「うーん、難しいなあ。ただ否定はしないと思う。俺自身、あそこで妻に出会わなければ、つまり自身を肯定する存在がいなければ、腐り堕ちていたはずだ。彼女と出会ったのは、仕事をサボっている時のハンバーガーショップだった。その時は顔を知っているくらいだったんだけど、少し挨拶をして世間話をするだけでわかったんだ。俺はこの人の前なら素直にいられるってね、直感だよ」


 ——運命ですね。


「ロマンチックに言うとそうなるね。彼女との出会いを話すと、決まって青い雲を思い出すんだ」


 ——青い雲?空ではなくて、ですか?


「そう。彼女が言ったんだよ。『空ではなく、雲までもが青く見えますか?もっと良い状態は、青と白が逆転した空なんです。青い雲で白い空、分かりますか?』ってね、分かるわけないじゃないか。愛想笑いするとさ、酷く怒ってね。本気なんです、本当にあるんだって。これは後から聞いた話だけど、俺と初めて会ったあの日は逆転した空だったらしい。俺は意味が分からなかったけど、意味が分からないまま彼女に惹かれていった。休日はバルコニーのあるレストランでスパゲティを食べて、噴水が有名な公園でローズマリーの花を撮った。まあ、つまりはそう言うことさ。俺はあの子に惚れていて、気が付けばプロポーズをしていた。知り合ってから一年も経っていなかったね」


 ——奥様はとてもロマンチックな方なんですね。


「何度そう言っても不思議そうな顔をするのが、俺にとっては不思議だけどね。その年から職場を変えて銀行のセールスマンになった。景気が良いこともあって給料は倍以上になったし、何より精神的な余裕ができた。あの子の姉である長女が生まれると家も買った。何もかも順調だった。後輩もできて、あっという間に出世もしたな」


 ——お姉様は小説家として人気がありますよね。


「そう、あの子は完全に母親似だな。ポエティックでロマンチックで、俺の娘かと思うくらい。まあそれでも、息子の方が衝撃は強かったがね。自分の息子に『人類初』なんて形容詞が付くなんて、思いもしないさ」


 ——お父様が一番我々に近い気がします(笑)


「だろ!?あいつらはちょっと頭のネジが外れてるんだ。俺はずっと勤勉なサラリーマンだからね。まあ、長女を授かった後は大変だった、不況でね。リストラされる奴が何人も出て、知り合いには命を絶つ者もいた。どうにも言葉に表せない気持ちが押し寄せてくるが、自分は運良く取り残されたのさ。そこから何年かは酷かった。周りの企業がどんどん潰れて融資も何もかもなくなっていって、街で干からびたミミズを見つけるよりも簡単に失業者が見つかった。今も不景気だって言うけれど、あの時に比べればマシさ。それでもなんとか必死に生きていた。そんな時にはいつも、青い雲を探そうとしていたんだ」


 ——奥様の仰っていたものですね。


「ああ、結局いつ見ても雲は白だがね。泥臭く毎日働いて、外回りと商談を重ね続ける日々の中、ある日夢を見たんだ。故郷の空を野原に寝そべって眺めている若かりし頃の俺を、見つめている夢さ。ぼうっとしていて、俺はそれを後ろから見ているから表情なんて分からない。ただ暫くすれば、目が覚めたかのように俺は走り出したんだ。空から逃げるようにね。すると青空が逆転して、青い雲が副流煙みたいに吹き出した。その夢を見た翌朝に、妻が息子を授かったと知ったんだ。不思議だろう?」


 ——息子さんは、まだその雲を見れてないようですよ。


「はっはっは!大気圏を突破したってのに、そんなこと言ってたのかい!俺はそれから何回も見たさ、不思議なことに人生の節目にその夢を見るのさ。昇進、妻の病気の発覚、長女の小説家としてのデビュー、それから息子の宇宙飛行士の試験合格。俺は一度その夢を見た後、いつも心がけるようにしたんだ。『青い雲と同じように、俺も逆様の存在として生きよう』ってね」

 ——逆さま?


「ああ。たとえばコーラの瓶が道端に捨てられていたら、大体の人間とは真逆にしっかりとゴミ箱まで運ぶ。嫌なことは率先してやってみる、竜巻が来たら誰でもなく他人を第一に動く、傷み始めているバケットを真っ先に食べて、でかい尻の姉ちゃんの後はつけない。ガキたちの野球には文句を言わず、若者と一緒に上司の愚痴を言う。少し薄くなってきた頭やベルトに乗っかった贅肉を褒める。すると、時々青い雲が吹き出してくれるんだ。そうやって青い雲が見えた時は決まって良い報せががやってきて、俺は心が軽くなる。そんなことを繰り返して気が付けば、今、あんたの目の前に座って偉そうに話してるんだ」


 ——海の向こうでは「善行」と言ったりしますよ


「うーん、それはちょっと違うなあ。俺は道徳的な行動をしていたわけじゃなくて、結局は青い雲が見たかったんだよ。それ以外は本当に普通のセールスマンさ。調子がいい時もあれば悪い時もあって、怒られる時もあれば褒められる時もある。仕事を辞めたいと思いつつもやりがいを感じたりしてな。妻はもう、青い雲を見られない。だから俺が見てやるんだよ。それで言ってやるんだ、この雲はずっと俺たちを見ている。入道雲より何より大きい、膨大な青い雲がゆっくりと俺たちを覆えば、きっと何もかもうまくいく。それは神に祈る時と似ているんだ。あんたもすぐに分かるさ、その雲は気まぐれだが決まって平等に微笑んでくれる。見ているか、見ていないか。それだけさ」


 ——ありがとうございます、お父様のお言葉はとても響きました。それでは最後に、現在、人類で唯一火星で月を見る息子様に一言お願いします。


「ちゃんと飯を食って寝ろ!以上!」


 (『イーズ・エコノミックタイムズ』〇〇年△△月××日号 掲載 宇宙飛行士Y・S氏特別特集 『吹き出す、膨大な量の青い雲』より一部抜粋)

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