5章 神志名
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このままでは、気になって夜も眠れやしない。
家に帰り着くと、必要なものだけ小さなバッグに詰めて外に出る。母はパートに出ている時間で、家には誰もいなかった。盆を過ぎた頃だったが、相変わらず日差しは強く、早足で駅に向かっていると汗がこめかみを伝った。
使ったことのない路線を乗り継ぎ、新幹線の切符を買いにいく。凪は今回もバイト代をくれたので、陽向の財布には十万円が入っている。貰い過ぎだと固辞したが、急な解雇のお詫びも兼ねているのだと凪は言い張った。今回は一部を新幹線代に充てさせてもらう。
滅多に街を出ない陽向は新幹線の乗り方もよくわからなかったが、精算機の指示通りにしていると、やがて切符が機械から吐き出された。改札を通り、電源を入れたスマートフォンで調べた通りのホームで待っていると、すぐに長い車体が滑り込んできた。
平日の昼間のおかげか、空いている席に無事に着き、風のように流れる景色を眺める。考えることは山ほどあり、こんがらがる頭が、初めての速度に少しだけ浮き立った。これから会う逢坂という人間と母親の関係は何なのか。母は葛西将吾以外の人間とも関係を持っていたのか。自分はもしかして、あいつの子どもではなかったのか。答えの出ない考えに気持ちが悪くなり、ひたすら夏の景色に集中した。
一時間と三十分が経過し、ようやく新幹線を下りて在来線に乗り換える。暝島ほどではないが、田畑の広がる田舎の風景が窓の外を青く染めている。ぽつぽつと家が点在し、向こうには山がこんもりと茂っている。車内の冷房が心地よい。
地図アプリが示す場所への最寄り駅に到着し、そこからは田舎道を二十分ほど歩いた。南中に差し掛かる陽が照り付け、喉の渇きを覚え、途中にあった自動販売機で水入りのペットボトルを買って飲んだ。割高だが、熱中症になって倒れるよりはずっとマシだ。半分ほど残してバッグにしまった。
やがて無骨な四角い建物が見えてきた。マップにも示されているが、ここが凪に手渡された住所の場所だ。門には篠村製作所と彫られている。周囲を見渡すと、多少の規模は違えど似た作りの建築物の姿がうかがえる。にょきりと伸びる向こうの建物の煙突からは、白い煙がなびいていた。
門の先には乗用車やトラックの停まる駐車場があり、奥に建物が二つ並んでいる。緊張から躊躇してしまうが、まさかここまで来て恐れて帰るわけにはいかない。スマートフォンの時刻は午後一時を指している。
「きみ、勝手に入っちゃ駄目だろ」
後ろから声がかかり、びくりと身が震えた。振り向くと、青い作業着姿の男がコンビニの袋を下げて門から入ってくるところだった。すみませんと頭を下げながら、これ幸いと声を掛ける。
「ここに用があって来たんですけど……」
「用? 確か学生バイトは募集してなかったはずだぞ」
「逢坂さんに話があって来ました」
一か八かで訴えたが、男は顎を軽く撫であっさりと言った。
「なんだ、逢坂の知り合いか? どんな用事だ」
「本人に直接話したいことがあって……。すみません、陽向が来たって伝えてくれませんか」
男は訝しげな顔を見せたが、了承してくれた。「あいつは独り身のはずだがなあ」とぼやきつつ手招きをするので、ほっとしてその背について行く。駐車場を横切り、建物の前まで来ると、ちょっと待ってなと言い残して中に入っていった。
軒下の日陰で、ペットボトルに口をつける。既に温くなった水が食道を越えて胃に溜まるのを感じながら、逢坂という人について考える。逢坂。自分と同じ苗字だ。だが母の口から葛西将吾以外の男の話は一度も聞いたことがない。ペットボトルを握っていない左手を開いて見つめる。この中に流れている血は、一体母と誰のものなんだろう。
ガラス戸を押し開け、先ほどの男が顔を出した。
「すぐに逢坂も来るから、こっち来な」
急いでバッグにペットボトルを突っ込み、建物に入った。狭い廊下の壁には「節電」の二文字が強調されたポスターが貼ってあり、汗をかくほどではないが、あまり冷房は効いていない。男は休憩室のプレートが下がった部屋を開けた。長机が二つ並んで置かれ、周囲を椅子が囲んでいる。壁際には水道と一口コンロ、一台の冷蔵庫が設置されていた。
端の椅子に座ると男が出て行き、一人きりになった。タオルで汗を拭いて待っていると、十分もせずにドアがノックされ再び開いた。
現れたのは、先ほどの従業員と同じ作業着を着た四十前後の男だった。彫りの深い顔立ちで、剃り残した髭が目立つ。体力勝負の仕事のためか、服の上からでも筋肉がついているのが分かる。ドアが自然と閉まるに任せたまま、男は顔を驚きで染めた。
「陽向か?」
陽向にとっては全く知らない男だった。なのに、彼は自分の名前を知っている。頷いて立ち上がると、どことなく嬉しそうな顔をする。
「そうか、随分大きくなったなあ。そんでも、赤ん坊の頃の面影はなんとなくあるな」
「あの、逢坂さんですか」
「ああ。陽向は俺の顔なんて覚えてないだろうけどな」
聞きたいことが山ほどある。だが、逢坂が座るように促すので、取りあえず着席した。彼はコンロ下の引き出しから紙コップを二つ取り出し、冷蔵庫で冷えていたポットの中の麦茶を注いだ。一つを陽向の前に置き、もう一つを手にして隣の席に座る。テーブルの短辺の位置で、コップの麦茶を啜った。
「俺、何も知らずに来たんですけど」彼がコップを置くのを見計らい、単刀直入に切り出した。「逢坂さんは、母さんと……俺たちとどういう関係なんですか」
「雪さんから聞いて来たんじゃないのか」
逢坂が目を丸くするのに、首を振る。彼は、陽向が雪から話を聞いて訪問したと思っていたらしい。
「母さんからは何も聞いてないです」
「それじゃあ、葛西の旦那か」
間違いなく葛西将吾のことだ。逢坂は彼とも繋がりがあるらしい。陽向はもう一度かぶりを振った。
「じゃあ、どうして俺のところに来たんだ」
「……凪っていう人から、逢坂さんに話を聞くよう言われてきました」
「なぎ……? 誰だ、そいつ」
逢坂は凪を知らないという。混乱しつつ、言葉を選んで話を続ける。
「俺の知り合いで、母さんのことを逢坂さんに聞いてみろって言われました」
凪は自分のことを知っている。加えて、母の過去のことも把握している。彼はいったい何を思って逢坂のことを教えたのだろう。
「旦那の知り合いかな……」逢坂は腕を組んで考えていたが、陽向が実際に来てしまったのなら納得するしかなかったようだ。「気味悪いが、そういうことにしとくか」
「逢坂さんは母さんと何か関係があるんですか。俺、何も知らないんです。母さんに聞いても教えてくれるかわからないし、何があったか教えてください」
陽向は逢坂に頭を下げた。自分の根幹を揺るがす事実を、目の前の男は知っているに違いない。母や凪を頼れないなら、この場でなんとか引き出すしかなかった。
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