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「おいおい、取りあえず顔を上げな」陽向の肩を押して頭を上げさせ、逢坂は尚も悩んでいる風だったが、「そうだな……」と重たそうに口を開いた。

「公言しないと葛西の旦那と雪さんには約束したが、当事者の陽向に話さないと言ったわけじゃない。経緯は知らんが、このままじゃおまえも気分が悪いよな」

 大きく頷いた。逢坂は額をかき、振り切るように話してくれた。

「俺は、雪さんと陽向と三ヶ月だけ一緒に暮らしてたんだ。まさに、おまえが生後三ヶ月になるまでな」

「それって、つまり、逢坂さんが……」

 陽向が上手く言えない言葉の先を察し、逢坂は大袈裟に右手を左右に振った。

「違う違う。陽向は雪さんと葛西の旦那の子だ。俺はちゃらんぽらんだが、子どもがいたことは一度もない」

 肩の力がすっと抜けていくのを感じた。葛西将吾は嫌いだが、今更知らない人間の血が流れていると聞かされても、戸惑うばかりだ。十余年騙され続けた怒りも覚えただろう。

「じゃあ、どうして一緒に?」

「つまりは、偽装結婚ってやつだな」

 言い難そうに口を歪めて逢坂は言う。

「利害が一致したんだ。俺と雪さんのな。雪さんは苗字を変えたがっていて、俺は一時だけでも既婚の事実が必要だった。葛西の旦那を通じて、籍だけ入れていたんだ」

 全く知らない事実だった。母が苗字を変えるために、偽装結婚をしていた? 母の雪は、これまでずっと未婚であると信じていた。先ほどの安堵も束の間、母の知らない面を垣間見たことに絶句する。

「葛西の旦那には既に家庭があったからなあ。ひどい話だが、子どもができたからって雪さんと籍を入れるわけにはいかなかったんだ」

「母さんは、どうしてそんなことを」

「彼女は逃げていたんだ。神志名雪さんは、自分の家が大嫌いだったんだ」

 ショックで言葉が出なかった。ようやく見つけた神志名の名を、この場で聞くことになるなんて。

 絶やそうと考えた神志名の家。もはや、別物だとは思えない。

「どうした、陽向。真っ青だぞ」

「なんでもない……」必死に嘘を吐く。「それより、どうして母さんは家から逃げてたの」

「ああ……それも、俺は詳しく知らないんだが、このままだと家に子どもを取られるって言ってたな。昔ながらの家で、跡取りに取り上げられるって。だから苗字を変えて実家から身を隠すことにしたんだ。住民票にも閲覧制限を掛けたり、色々手を尽くしたらしい」

 跡取りに取り上げられる。紛れもなく自分のことだ。陽向は唇を噛み締める。神志名の末裔は、ここにいる逢坂陽向だったのだ。

「雪さんは陽向に付きっ切りだったよ。ちょっとでも目を離した隙に誰かが攫ってくんじゃないかって……お守りまで作って、不憫だったなあ」

 お守りの感触が手の中に蘇る。物心ついた時から、それはいつも自分のそばにあった。最近では、母との繋がりを感じられる最後の砦だとも感じていた。

 陽向は何も言えず目を伏せ、逢坂も口を閉ざした。クーラーや冷蔵庫の稼働音、別の部屋にいる人のざわめきさえ聞こえる気がした。

「……よく、葛西将吾が許したね」

 疲れた気分で陽向は呟いた。

「あいつはもともと遊びだったはずだ。俺たちを捨てることも出来たし、そもそも、俺が産まれることを許したのも不思議だった」

「それなあ……」

 逢坂も葛西将吾の本質は理解しているのだろう。不思議な顔も見せず、人情という言葉も口にはしなかった。確実に面倒な負債など、産まれる前に捨ててしまえと命じるのが、葛西にとっては自然だと思われた。こんなこと、母には訊けるはずのない疑問だった。

「雪さんが何も言ってないなら、陽向にも黙っておくべきだと思うんだが……知らぬ存ぜぬで納得できるもんでもないよな」

「やっぱりあいつは、渋ったんだよね」

「旦那が愚痴るには、散々雪さんを説得したらしい。さっさと子どもを堕ろして俺と縁を切れってな。だが、まだ若いし押しも強くない子だったけど、彼女の方もそれだけは譲らなかったんだそうだ。何が何でも子どもを産むと言って聞かなかった。お腹の子どもに罪はないからな。その上、自分たちを脅したら妻子に暴露するって葛西の旦那に詰め寄ったんだ。殺すつもりなら、先に遺書を書いて警察に送るとも言ってな」

「母さんが、あいつに……?」

 いつも葛西将吾の機嫌を取ってばかりの母が、あいつを脅迫していただなんて。とても想像しがたいが、逢坂は確かに頷いた。

「旦那は順風満帆だったんだ。会社でも重要なポジションにつく間際だった。いくらプライベートだといっても、若い女の子を弄んで妻子と揉めているだなんて、絶対に周囲に知られたくないことだからな。産まれる子どもに関しては、雪さんに逆らえなかったんだ」

 逢坂は思い詰めた表情で陽向を見つめた。

「雪さんは、おまえを命がけで守り抜いたんだ」

 頭がくらくらする話ばかりだ。眩暈を覚えながら、今までのことを思い出す。母はいつだって葛西を優先し、陽向の意見は二の次だった。奴が家に来ることも一切拒まず、息子にひたすら我慢を強いてきた。自分など、母にとってはその程度のものなのだと陽向は信じていた。

 しかし、逢坂の話はそれらを打ち砕いていった。殺される可能性まで考えながら葛西に反発し、実家と縁を切り、偽装結婚により名前まで変えて自分を守っていたのだ。

「葛西の旦那は子どもに関しては諦めてな、代わりに手元において飼いならすことに従事した。雪さんにとっても、それが生きていくための最善の妥協だったんだな」

 逢坂はそう締めくくると、コップの麦茶で舌を湿らせた。陽向が呆然としていることに気付くと、茶を飲むよう勧める。言われるまま手を伸ばし、陽向は薄い麦茶を口に含む。一度に大量の情報を摂取したせいで、脳が消化不良を起こしていた。それを押し戻すように、麦茶をむりやり喉の奥に押し込んだ。

「陽向、俺はろくな人間じゃない。おまえの母ちゃんと偽装結婚するくらいにな。けど、こうして無事に大きくなってるのを見ると、なんだか嬉しいよ」

 たった三ヶ月だけ一緒に暮らしていた、同じ苗字の男。何一つ彼に関する記憶はないが、語られた話を疑う気など微塵も起きなかった。

「……ありがとうございました」

 紙コップを置き、陽向は頭を下げた。

「仕事中に、すみませんでした。帰ったら、母さんと話してみます」

 懐かしそうに目を細め、逢坂は深く頷いた。

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