第12話 毎日、二回抜いてるだろ?

 五十メートル走の後、男子はグラウンドを六周、女子は五周させられることになった。

 たいていの生徒はだるそうにしながらも、集団から大きく遅れることなく走っている中、久留宮は一人だけみんなのはるか後ろの方で、のろのろと走っていた。

 そんな彼女に対して、百鬼先生の罵倒が響き渡る。


「久留宮ァ、なんだそのちんたらした走りはぁ、やる気あるのかぁ!?」

「あ、ありま、すぅ、ぜぇぜぇ」


 とほとんど歩いているのと変わらないスピードで足を動かしている久留宮。

 久留宮は運動はてんでだめだからなぁ、と以前のサンタとしてクリスマスプレゼントを配っていた時の彼女を思い起こす。


「もっとペースを上げろ、久留宮ァ!」


 と百鬼先生はムチを地面に叩きつけながら、声を張り上げた。

 久留宮はほんの少しだけ走る速度を上げたが、めちゃくちゃ苦しそうだ。


 彼女はあくまでサンタとしての仕事で俺と付き合っているだけとはいえ、久留宮が俺の恋人であることは変わらない。

 ここで彼女を助けないのは彼氏失格だよな、と思い、俺は助け船を出すことにした。


「先生、お言葉ですが、久留宮は他の生徒と比べると体力があまりありません、無理させるのは怪我につながりかねないし、よくないと思います、生徒それぞれの能力に合わせた指導をするべきではないでしょうか?」


 先生に向かって言うと、ぎろりと睨まれる。

 これは聞く耳を持ってくれないかと思ったが、


「ふむ……一理あるな」


 案外、先生は素直に俺の意見を聞いてくれた。


「わかった、久留宮は今日のところはもっと遅いペースで構わない、でも、徐々にペースを上げていけよ? そうしないといつまでたっても体力はつかないからな。

そして志津木、お前はまだ余裕そうだな、グラウンドあと三周追加な?」

「え、まじっすか」

「生徒それぞれの能力に合わせた指導をするべきなんだろ? お前の体力に合わせた指導だ。まさか自分から言い出したことを反故にするつもりはないよな?」

「わかりましたよ、へいへい」


 くそ、自分の発言をうまく利用されてしまったな。

 どうやら彼女はよくいる脳筋タイプの体育教師ではないらしい。


 はあーだると思いながら、再び走ろうとすると、久留宮が息を荒げながらこちらに来た。


「あ、あの、志津木くん、ありがとうございます、助けてくれて」

「ん? ああ、いいよ、別に」

「でも、ごめんなさい、私のせいで余分に走る羽目になって」

「気にすんなって、俺が勝手に先生に歯向かって自滅しただけだから。それに、三周くらい俺の体力ならへっちゃらさ」

「……それでも、本当にありがとうございます、志津木君」


 と深々とお辞儀をして、再びのろのろと走り始めた久留宮。


 本当に三周くらい追加されても余裕だから、気にする必要ないんだけどな。


 みんなより余分に走らないといけないので、俺はその分、他のやつらより速いペースで走り出した。



 全員が走り終えると、今日の体育は終了となった。


「は―ようやく終わった」


 と他の生徒たちとともに教室へ戻ろうとしたとき、百鬼先生から呼び止められた。


「志津木、ちょっとこい!」


 なんだよ、まだ何かあるのかよ。


 俺はそこでUターンして、グラウンドで待っている先生の方へ急いだ。

 校舎の昇降口付近で、久留宮が申し訳なさそうに俺のことを見ていたのが、先ほどちらっと視界に映った。



 先生の前まで来ると、彼女はその豊満な胸の下で腕を組み、威圧感たっぷりの顔で俺を見た。


「志津木、お前は本当に厄介な生徒だ、エロい話ばかりするし、女性を下卑た顔でよく見ているし、授業態度はよくないし、先生には舐めた態度をとる。でもそのわりには成績がよくて、ぶっちゃけめちゃくちゃムカつく」


 先生が言うセリフとはとても思えなかった。


「だが、あくまでそれは私の私情にすぎない。お前のその高い運動能力は、客観的に見ても、もっと有効に活用されるべきだと思うんだ。お前、帰宅部だったよな? 何か部活に入る気はないか? なんなら私が顧問してるテニス部でもいいぞ」


 なんだ部活の勧誘か。身構えて損した。


「えー、どうしようかなー」


 運動は別に嫌いじゃないが、他の時間を削ってまでスポーツに打ち込みたいとは思えないんだよな、正直。


「まぁ、今すぐに決めなくていい、じっくり考えればいいさ」

「はぁ、では、考えておきます」


 俺が先生の大きな胸をさりげなく見ながら言うと、先生の目がスッと細くなった。


「ところで、志津木……お前、童貞だろ?」

「は!? ななな、何を急に言い出すかと思えば、どど、童貞? そんなわけないでしょう?」

「その反応、図星のようだな」

「い、言いがかりだ、ななな、何を根拠に俺を童貞などと」

「根拠ならある、お前、先ほどからずっと私の胸の方を見てるだろ、童貞特有の性欲丸出しの視線だ、女性は男のそういう視線には極めて敏感だから気を付けておけ」


 その先生の発言で、俺は急速に冷静さを取り戻した。

 これなら反駁できる余地がある。


「先生、お言葉ですが、それでおれを童貞だと断ずるのはあまりにも根拠が薄弱かと」

「なに、反論があるのか? 言ってみろ」

「先生、男というものは、童貞とか関係なく、べつにエロい気持ちがなくても、おっぱいの大きい女性がいたら、胸に目が行ってしまうものなんですよ」

「なに、そうなのか?」

「ええ」

「にわかには信じられないな、童貞の男どもはみんな下卑た顔をしながら私の胸を見ているからな、おまえだってそうは言うがいやらしい気持ちで私の胸を見ていたんだろう?」

「ええ、それはもちろん」

「やっぱり私の考えは正しいじゃないか!」


 と胸を揺らしながら怒る先生。

 ヤバイ、つい正直に答えてしまった。


「い、いえいえ、あくまでそれは先生が相手だからです、先生はとても魅力的な女性ですからね、例外ですよ例外、先生の胸をエロい目で見てしまうのは非常に個別具体的な話であり、それは一般化できません」


 褒められたのがうれしいのか、先生は少し機嫌よさそうにする。


「ふ、ふむ、なるほどな、だがそこまで言うからには、私の考えを覆すような具体例が欲しいところだな」

「具体例ですか、そうですね、今ここにとても胸の大きいババアがいれば、先生の考えが間違いであることはすぐに示せるんですけどね。たとえ目の前にいるのがババアであっても、彼女が巨乳であれば、男はその胸に目が行ってしまうはずですから」


「それは男どもがババアの胸に対しても欲情するような変態というだけじゃないのか?」

「まさか、いくら巨乳であっても、ババアの胸に欲情するわけがないでしょう!?」

「言ったな? なら試してみよう」


 と彼女が五十メートルの記録をつけていたノートの新しいページに、爆速で胸の大きいババアの絵を描いた。

 簡易的ではあるが、上手いし速い。この女、こんなに絵がうまかったのか、意外だ。


「先生、絵めちゃ上手いっすね、描くのはやいし」

「ふふ、こうみえて、絵描きを志したことがあるんだ、というかたまにイラストレーターとして仕事しているぞ、本業にできるほどの稼ぎはないけどな」

「へーそうなんですか」


 なんて名前で活動しているのだろうか。気になるな。訊いても教えてくれなさそうな気がするけど。


「それはそうと、ほら、おまえが興奮してないかチェックしてやるから、この絵をじっくり見てみろ」


 俺は彼女が描いたババアの絵をしばらく見つめた。

 先生がじろじろと俺の股間を見てくるのが、なんか落ち着かない。


「なるほど、確かにババアの胸をじーっと見ているが、勃起は全くしていないな、息を荒げている様子もない、確かに胸を見ても、興奮していないようだ」

「先生の根拠が薄弱だということが、わかってくれましたか?」

「ああ、悔しいが認めざるを得ないな……しかし、だ」


 にこりと怖い笑みを浮かべる先生。


「お前が私の胸をじろじろといやらしい気持ちで見ていたのは事実、そんなお前の腐った精神を叩きなおすような指導が必要だと思わないか?」

「え、いいいい、いらないんじゃないっすか、そんなの?」

「いいや、いる、お前はもっとスパルタで鍛えなければならない、肉体をいじめ抜くことで精神も同時に鍛えられるはずだ。とりあえず今日から、毎朝三十分のランニングと腹筋、スクワット、腕立て、それぞれ毎日百回やれ」


 ランニング以外は既に毎日やっているから、べつにたいした支障はないな。こんなん指導にもならねぇよ、ははははは!


 となめくさっていたが、しかし、それから続いた先生の言葉に、俺は心の平穏を乱されることになる。


「あと、オナ禁半年もな」

「無理に決まってるだろ、半年なんて!」


 小学生のころ、オナ禁すればイケメンになれるという情報がネットに書いてあったのを信じてオナ禁したことがあるが、三日で我慢の限界が来た。

 半年など思春期の男に耐えられるはずがない。

 だが、まぁいいか、どうせさぼってもバレはしないだろうし。


「さぼってもバレないと考えているだろうが、筋肉の付き具合を見ればランニングや筋トレをちゃんとしているかわかるし、オナ禁しているかどうかも顔とか見ればわかるぞ」

「え、まじで」

「まじだ、試しにお前が今どれくらいの頻度で自慰行為をしているか言い当ててやろうか?」

「どうぞどうぞ、当てられるもんなら、当ててみてくださいよ」


 当てられるわけがない。そう思っていた。


 先生は10秒くらい俺の顔を見ると、ニヤリと全てを見透かしたような笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。


「毎日、二回抜いてるだろ?」

「な!?」


 うそ、だろ。完璧に言い当てられてしまった。

 俺は今までどんなホラー映画を見ても、まったく恐怖を感じなかった。

 しかし、目の前の女性に対して、今まで味わったことのないほど大きな恐怖を感じ、俺はブルブルと震えた。


 な、なんなんだよ、この先生、なにもんだよ。

 これから俺はこの先生にオナ〇ーの頻度を把握される恐怖におびえながら、生きていかないといけないというのか?


 恐れ慄いている俺の様子を見て、先生は満足気な表情を浮かべる。


「どうしても抜きたくなったら、この絵を見るといい。ほら、先ほど描いたこの無駄に胸の大きいババアの絵をお前にやろう、この絵を見たら性欲も失せるだろ?」


 と先生がノートから絵が描かれたページを破って、それを俺に手渡した。

 その絵を見た瞬間、先ほどまでの性欲が100だとしたら、一気に50まで減ったのを感じた。


「せいぜい頑張るんだな、志津木、破ったのがわかったら罰を与えるからな、フハハハハハハハハハ!」


 とファンタジー作品に出てくる魔王のような笑い声を上げて先生は去っていった。

 とんでもないことになってしまった……。

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