第一酒席 出会った少女に酒を振舞ったら命拾いしたっていうね

3 異世界の散歩道

 子供の頃身近にあった濃い青葉の香りに包まれて、銀二は目を醒ました。

 胡坐あぐらをかいた股の間には『魔王』の瓶があり、手を突いた地面は小さな白い花と草葉で満たされていた。肩越しに振り返って自分に影を作っていた存在を見上げると、そこにはビルよりも高い立派な巨木が生えていた。

 銀二は酒を手に立ち上がり、幹に触れて、「でっけえ樹だなあ」と暢気のんきに言った。

 幾重にも重なる青葉は濃く大きく、深く吸い込んだ空気は甘く、美味かった。


「なんか住み着いてそうだな、この樹――にしても」


 辺りを見渡すと、どうやら山の中腹にある丘、その先端にいる事がわかった。

 そこから望む眼下の景色は霧に覆われていたが、やがて晴れ、山肌から広原へと続き、文明や文化を感じる大きな都が一望できるようになった。空を見上げれば、抜ける様な青空に見たこともない長い尾を持つ彩豊かな鳥が巨大な翼を広げて飛んでいた。そんな巨鳥を、交差するように空をかけた竜が両足で捕らえた。巨鳥の悲鳴を掻き消す竜の咆哮ほうこうが、空気をビリビリと震わせて伝わってくる。


「ここは……群馬か?」


 銀二はまだ酔っていた。


 この絶景を眺めながら一杯やるのもいい、と木陰に腰を下ろし、酒瓶を揺らしながら考えた。


 ちゃぷんちゃぷん、と酒が踊る。


 車にねられて命を落としたが、体に傷はなく、痛みもない。

 女神とのやり取りは覚えているし、一度は死んだということも理解している。しかし、未だにここが別世界で、自分がそこへ放り込まれたのだという実感は薄かった。実は事故で死んだのではなく、植物人間状態になってベッドの上で永遠と眠っているのではないか、ただ夢を見ているだけなんじゃないかとさえ思えた。

 ただ、全身で感じる五感は夢のそれではないし、酒の味もはっきりしている。

 現実なんだろうなあ、とゆっくり受け入れていくしかなかった。


「電車とか、車とかあんのかな。ここ」


 銀二はポケットにあったものを草の上に広げた。

 財布と携帯、タバコとライター、それと折り畳まれたメモ紙と、酒屋の割引券。

 死ぬ直前まで持っていた物は、どうやらこの世界へ持ち込めたようだ。

 財布には小銭とコンビニのレシート、家の鍵が入っている。

 携帯の電源は入るものの、電波は立っていないし、使えない。


「んー、わからんなあ。どうしたらいいのか……ん?」


 よくよく見ると、見覚えのないメモ紙があった。

 手に取って開いてみると、自分の字ではない文字で、何かが書いてあった。


「えー、なになに? 新しい世界へ旅立つあなたの為に、言語のチャンネルは調整しておきました。しょ、召喚された場所の近くに村があるので、まずはそこへ行ってみるとよいでしょう。それと、サービスであなたの衣服と酒瓶、携帯電話は、元いた世界への思い出に、破けたり壊れたりしないように魔法をかけておきました――女神より。か、なるほど、やっぱりあの人は女神だったのか」


 銀二はなるほどなあ、と感嘆しながら、自分の置かれた状況をぼんやりと整理した。

 言語のチャンネルを調整とあるから、きっとこの世界の人たちと言葉は通じるようにしてくれたのだろう。もしかしたら、文字も読めるようにしてくれているかもしれない。衣服が破けない、酒瓶が割れないというのも、とてもありがたい。携帯も、充電が切れずに使えるなら、役に立つ場面もあるかもしれない。近くに村があるというのもわかったので、ひとまず何とかなるだろう。

 銀二は残り少ないタバコを咥えて一服つけると、「こんなに不味かったかね」と顔を顰めた。


 しかしすぐ、この世界の空気が美味いせいか、と気付いた。


「ま、人がいるならなんとかなるだろ。杯交わせば皆兄弟、っつって」


 前向きに考えれば、こんな世界の酒を飲み歩くのも悪くないんじゃないか思えた。

 前世で叶わなかった願いは、こっちの世界で叶えればいい。

 だが、銀二は何も知らなかった。


 この世界には酒がない。


 アルコール飲料という物は、果実酒程度でも到底酒と呼べる代物ですらなく、飲んだところで酔うこともできない。つまり、この世界における銀二の願いは既に絶たれていた。

 そんなことも知らずに、銀二は財布やタバコをポケットにしまい、酒瓶を持って立ち上がった。


「よっこらしょっ、っとっと」


 足元がふらつき、「しっかりしねえと死んじゃうねえ」と他人事のように言って一人で笑う。

 銀二は「へぇ~え」と溜息を吐くと、巨木に小便をひっかけて、人がいそうな山の麓を目指してのんびりと歩き出した。

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