2 女神様と力の話

 気付けば、銀二はあたり一面真っ白な空間に座り込んでいた。

 そこには天井も地面も壁もなく、一言で表わすなら光の中だった。

 が、銀二にとってそれはどうでもいい問題だった。かたわらを見れば、死ぬ直前まで胸に抱いていた『魔王』の瓶が一本あった。銀二はそれを手に取り栓を開け、ぐびぐびと煽って「ぷはあ」と酒臭い息を吐いた。

 酔いが回り、体が胸から温まっていく。


「あー、びっくりした。死んじゃったかと思ったなあ」


 銀二は死んだことに気付いていなかった。

 今も夢の中にでもいるような心地で、酒をちゃぷちゃぷと躍らせながらぼーっとしている。

 すると突然、目の前に光の柱が現れ、神秘的な雰囲気を纏った女神のような人物が、銀二の前に顕現けんげんした。

 酒のせいで視界がぼやけ、目を凝らしてもその人の姿はよく見えなかったが、その人が口を開くととても心地いい声音が辺りを満たし、銀二は思わず眠りそうになった。心なしか、この空間の温度が上がり、春のような暖かさに包まれたように感じた。


「こんにちは、坂倉銀二さん」

「どうも」銀二は返事をして、酒を舐めた。

「銀二さん、あなた、死んでしまったのですよ?」

「……あー、やっぱり」銀二はそれでも驚かなかった。

「ええ。あの、寝ないで聞いてもらえますか?」女神は戸惑い気味に頼んだ。

「あい」


 銀二は股の間に『魔王』を挟み、落ちてくる瞼を必死に持ち上げながら、女神のような人の声に耳を傾けた。彼女が言うには、自分は死に、別の世界で第二の人生を歩ませてもらえるということらしい。


「あれ? じゃあ俺、生きてるんですか?」

「いいえ、ばっちり死にました」

「あー、ばっちりぃ」

「そこで、あなたに新しい世界での人生を与えます」

「天国とかぁ、地獄には行かないんですか?」

「行けるほどの何かをあなたはしたんですか?」

「いやー、無職プーですね」

「ね?」

「……でも、どうして二回目の人生?」

「魂の救済です」


 銀二はぼんやりする頭で考えた。

 魂の救済というのも、新しい世界での人生を与えられる意味も不明だ。神様にはきっと色んな考えがあって、色んな理由もあってそんなことをしているのだろうが、銀二はそれすら考えるのが面倒になって、「わかりまちた」とだけ答えて頭を下げた。

 女神は二本、指を立てた。


「さしあたって、あなたに決めてもらいたいことが二つあります。一つ目は、新しい世界で生まれ変わる際に、新たな命として生を迎えるか、今の姿のまま、新しい世界へ行くか、です」

「もう少しわかりやすく言ってもらえますか? 頭ぼーっとしちゃって」

「赤ちゃんになるか、大人のまま新しい世界へ行くか、です」

「赤ちゃんからやり直す意味は?」

「特別な力を持つ家柄や種族として生まれ変われます。もちろん、新しい家族も手に入りますよ? 家族構成も希望に沿います。血のつながっていない妹でも姉でも、何人でも用意できますよ?」

「なら、大人のままで、赤ちゃんだと酒呑めないし」

「……ではもう一つ、これはよく考えてください」


 女神は立てた指を銀二へ向け、尋ねた。

 

 新しい世界へ持っていく『力』。


 その『力』に、何を望むか。


「……例えば?」

「魔法だったり、不老不死だったり、物体を生み出す力だったり、物質を変化させる力だったり。ここを通る者達は、自分の欲望に忠実な人たちも多く、ここぞとばかりに世界を支配できるような力を望んで手に入れ、新たな世界でハーレムを作ったり国を築いたり、静かに暮らすことを望む人もいますが、みんなが好き勝手やっています」

「なるほどぉ、なるほど」銀二は薄く髭の生えた顎をぽりぽりと掻いた。

「私達は、あなたが望んだ力を与えます。それが次の世界にどんな影響を及ぼすとしても、例えその力が、次の世界を滅ぼすとわかっていてもです」


 まるで、人がどんな力を望むのか、それ自体を楽しむかのような響きを銀二は感じた。

 その後の世界で、転生者、或いは転移者がどんな影響を世界へ及ぼしたとしても、仮にその世界の人々を蹂躙したとしても、それすらも興味の対象とするかのような雰囲気だ。神にとっては人の命も、その人生さえも、取るに足らないのだろう。

 だが、自分の国にも、ハーレムにも興味がなかった銀二は、『力』について考えるのすら面倒くさくて仕方がなかった。


「ういっ――っと」


 垂れてきたよだれすすり、手にした『魔王』に目を落とした。


 天使を誘惑し、魔界へ最高の酒をもたらす悪魔にちなんで命名された鹿児島産の芋焼酎。

 

 まだ呑んでいない酒が、自分の生まれ育った世界には山ほどあって、父と飲むはずだった酒すら一緒に飲むことは叶わなかった。父はいつも言っていた。お前がでっかくなったら一緒に酒を飲んで語らいたいと。そんな機会は、これからいくらでもあったはずなのに、結局一度も一緒に酒を飲むことはなかった。あったとしても、いつもそこには誰かが居て、語らう雰囲気ではなかった。


 お互い、いつでも呑めると高を括っていたから、そうなった。


 酒のせいで酷い目にあうこともなくはなかったが、それ以上に酒が繋いでくれる縁も多く、存外、未練の多い人生だったな、と銀二は鼻を啜った。

 

 素面しらふではやっていられない。


 飲まなければ、やっていられない。

 

 飲まねば忘れられず、飲まねば笑っていられない。


 自分の人生から酒を取ったら、何が残るというのか。


「あの、酒をずっと呑める力ってありますか?」

「お酒を無尽蔵に呑み続けられる力、ということですか?」女神はきょとんとした。

「いや、その力は既に持ってるんで。その、湯水のごとく酒が沸く力っていうか、酒を造れるような力っていうか。あのーなんだ、あれ、えっと誰だっけな」


 銀二はとある宗教にそんな奇跡を起こした人物が居たと説明したかったが、なかなか名前が出てこなかった。要するにキリストである。水をワインに、皿をパンに変えた奇跡の人だ。大学時代、銀二はキリストの奇跡について学ぶ機会があり、水をワインに変える奇跡を羨ましいと思う一方で、ワイン以外にならないのであれば不便だな、という感想を抱いた。そもそもキリストの奇跡はそういう話ではないので、割愛する。

 この聖人からヒントを得た銀二は、自分が望む力を決めた。


「水を――」

「水?」

「水を酒に変える力が欲しい、です。うん」


 それを聞いた女神は呆気にとられた。


「……たったそれだけですか? もっと高次元の力でも、なんであれば神と崇められるような力だって手に入るのですよ? あなたは何者にでもなれる機会を得たのです。それを――」


 そう説得してくる女神の声は、銀二にとっては雑音でしかなかった。

 どれだけ説明されても、酒を飲む喜びに勝るものはなく、知りもしない力を得る喜びは想像できないし、知る必要もない。


「俺は、酒が飲めればいいんで。っていうか、酒がないとダメって言うか」

「本当にそれでいいのですか? よく考えてください、あなたが向う世界は、今までよりもっと危険かもしれないんですよ?」


 考え直すように勧めてくる女神にしかし、銀二は困って頭を掻いた。


「今も生きてんだか、死んでんだかわかんないっすけど、こいつがあるから今もこうして話せてるんす。そんな俺は、どこの世界に行ったって素面しらふじゃ何もできないのはわかりきったことっすから」

「その性格だって、力があればきっと変わります。力を得れば、人は変わるのです。あなたがお酒の力で変わっているように。そうして何人もが今までの自分以上の存在となり、英雄や魔王、時に賢者となり生きているのが異世界です。あなたにはないのですか? 英雄になりたいとか、魔王になりたいとか、成功者になりたいという願望は」

「……ないっすね。それに、力を持つと、面倒にも巻き込まれそうですし」


 考えるまでもない、という銀二の様子に、女神は少し残念そうに肩を落とした。


「……欲がないのですね」

「欲を言うなら、その水が俺の望んだ酒に変わってくれればいいかなって。高くてなかなか飲めない酒も、随分舐めましたから。その力があれば飲み放題だ」


 酒瓶を愛しそうに撫でながら言う銀二を不思議そうに見つめた女神は、おかしそうに笑み、頷いた。


「……いいでしょう」

「いいの? あざざっす!」銀二は膝に手を突いて深く頭を下げた。

「はい。では、行ってらっしゃい」


 さっさと行け、と女神は手をヒラヒラ振った。


「いってきやっす」銀二は五指を揃えた手を額に当てた。


 直後、銀二は急激な眠気に襲われ、そのまま眠りに落ちた。


 目覚めた時、そこは銀二の知らない、まったく別の世界だった。

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