理人だけが咲夜の……

 神崎がうちへ滞在することが決まった週の土曜日になった。

 両親が居なくなるのは来週の木曜日くらいだけど、神崎が今回のことで挨拶をしておきたいと言ったため、彼女は今日家に訪れた。


「……ふぅ、いつになく緊張したよ」


 ソファに深く腰を沈める神崎は、俺を見ながらそう言う。

 既に彼女は父さんと母さんに挨拶を終わらせており、本当の意味で彼女がしばらく滞在する約束がなされた。


『二ヶ月ほど居なくなるだと? はっ、好きにしろ。お前がどうしようと俺には関係ないからな。あいつにも余計なことをして面倒を掛けないように言っておいてやる。はぁめんどくせぇ』


 これは神崎がスマホに録音した父親の声だ。

 まああれだ……たとえ善意で動いたとしても、昨今の世の中には面倒なルールがあるためこういうことが大事だったりする。

 しかし……聞けば聞くほど神崎の家族は終わってる。

 一体何があってあんな風になってしまったのか逆に気になるけど、神崎としてもあの両親に思う部分は何もないらしい。


「ここまであたしを育ててくれたことは感謝してる。中学の頃、ババアはあたしに体を売りまくって生きろって言ったけど、親父は世間体を少し気にして学費を出してくれたからな」

「……………」

「普通な部分はあっても、一般という普通からはかけ離れてる。だから感謝はもうしてない」


 本当に、聞けば聞くほど終わってる。

 つうかあの母親はどんだけ自分の娘を大切にしないんだ? 中学生の彼女に体を売って生きろだって……? 本当に同じ人間なのか疑いたくなるほどに、俺としてもああいうのは初めて会った人だ。


「……前世でもあんなの会ったことないぞ」

「なんか言った?」

「いやなんでも」


 人生二周目の経験者だなんて、頭がおかしいとしか思われないから聞かれてなくて良かった。

 神崎は首を傾げた後、クスッと笑ってこう言葉を続けた。


「住良木があたしを庇った時あるじゃん? あれでババアが随分と炊いたらしくてさ。それを見て親父がざまあないって笑ってるんだからほんと終わってるようちは」

「……マジでどういう反応すれば良いのか困るけど、しばらくは忘れても良いんじゃねえか?」

「そうだな……忘れさせて住良木」


 微笑みから一転し、艶やかさが神崎の声に宿る。

 綺麗な瞳に見つめられてドキッとした俺は、彼女に心の内を悟られないよう視線を逸らした。

 今、この家には俺と神崎しか居ない。

 父さんと母さんもさっきまで居たけど、二人とも来週の準備のために夕方まで家を空けたためだ。


「あ、そうだ住良木」

「うん?」

「あたしがこっちに来た時、食事とかは任せてくれない?」

「……え?」

「あたしさぁ、こう見えて料理は得意なんだぜ?」

「……マジかよ」


 正直、神崎が料理を得意とは思っていなかったのでかなり驚いた。

 それはそれで失礼な反応をしてしまったと思い謝ると、神崎は自分でもそう思うと言ってケラケラと笑う。


「住良木は料理出来るのか?」

「まあ多少程度かな……だから料理出来るってのは凄い助かるかも」

「……助かるか。ははっ、良いなこの感覚」

「感覚?」

「あたし……今まで誰かの役に立てたこととかないんだよ。だからこう言う形でも住良木の役に立てる……あぁ、本当に悪くない気分だ」

「……………」


 神崎は虚空を見つめながら熱い吐息を零す。

 その様子に尋常ならざる何かを感じたものの、それは一瞬ですぐにいつもの彼女へと戻った。

 だがしかし、それは俺の思い違いだったらしい。


「本当に住良木のおかげだぞ!」

「お、おい!?」


 気を抜いた瞬間、神崎が俺に飛び掛かってきた。

 そのまま彼女に押し倒されたことで、いつかの再現のように俺の顔面はマシュマロのように柔らかい物体に包まれてしまう。

 神崎が来ているセーターの質感も相まって、とにかく俺の感想としては柔らかいという言葉しか浮かんでこない。


「ぅん……なあ住良木、またこの体勢だな?」

「っ……お前が飛び掛かってきたんだぞ!?」

「そうだよ、こうしたかったからこうしたんだ……あたし、お前がそうやって胸の中で動くの好き」


 神崎がそう言った時、俺はやっぱりそうなのかって思った。

 何がそうなのかって? そりゃもちろん、何でもない相手にこんなことをすることも言ったりすることもないだろってことだ。

 少しばかりベクトルの違いはあっても、俺は神崎から菜月と同じものを感じたから……はぁ、なんで俺なんかがこんなさぁ。


「こうするだけでこんなに満たされるのに……本当の意味で、お前があたしの中に入ってきたらどれだけ嬉しいんだろうな。どれだけ満たされてしまうんだろうって……そればっかり考えるんだぞ?」

「か、神崎……?」

「……まあでも、今じゃないか。時間はたっぷりあるんだから」


 神崎はそう言って離れ、俺に手を差し出す。

 その手を握った途端、男と間違うくらいの力で引っ張り起こされ、そこで彼女は俺にこう言ったんだ。


「住良木、あたしはお前に惹かれてる。あの環境から少しでも離れたかったのはもちろんだけど、それ以上にお前の傍に居たかったからどうにかしてでもこのチャンスを掴みたいって思った」

「……………」

「混乱してるよね? けど赤坂もお前に気持ちを伝えたんだろ? それならあたしだっていつまでも燻り続けるわけにはいかないってやつ」


 ハッキリと、神崎にそう言われてしまった。

 俺の反応を楽しむような様子は揶揄っている印象を受けるけれど、間違いなく本心の言葉であると理解もしてしまったので、俺は呆然とする他なかった。


「あたしは初めて、ここまで欲しいと思った……だから必ず手に入れてみせるから。だから住良木、覚悟しろよ」


 覚悟……菜月の時にも言われた言葉だ。

 結局その後、神崎は帰ったけど彼女がうちに来ることは決定事項で、俺はしばらくどうすれば良いのか頭を悩ませるのだった。


 ▼▽


 神崎咲夜、彼女は初めて心から欲しい存在を感じた。

 彼だけが欲しい、彼の傍に居たい、彼だけのモノになりたい、彼の全てを独占したい……彼だけの存在になりたいと、本心から咲夜はそう感じている。

 自分の中に眠っていた本能と呼ぶべきそれが、ようやく雄叫びを上げるようにして目を覚ましたのである。


「っ……ぅん……あぁ……っ!!」


 普段の彼女からは考えられない可愛らしくも艶やかな声が漏れる。

 同年代の女子に比べて立派な肢体をしていても、どこか達観したような感覚を持っていても、そして最悪な環境を生きているとしても、その体はどこまでも女である。


「ったく……あたしってばこんな風になるのかよ」


 まさかたった一人で恋に焦がれるように、体を慰める日が来るなんて咲夜は想像もしていなかった。

 敏感な場所に触れただけで体が熱を持つだけでなく、咲夜の全てが彼を求めるからこそ感じるモノも遥かに大きい。


「……………」


 一際大きな波が過ぎ去り、とてつもなく汚れてしまった自室に咲夜は苦笑する。


「タオル……敷いとけばよかった」


 後悔先に立たず……咲夜はため息を吐いてタオルを取りに向かう。

 しかし、そこでまさかの存在に出会う――それは居るとは思っていなかった母の姿だ。

 咲夜の姿を見た母親は、同じ女だからこそ感じるものがあったようで強く咲夜を睨む。


「……どうしてそんなに……っ」


 満たされているの、そんな言葉が聞こえた気がしたが……母親は咲夜を見てすぐに家を出て行った。

 これが咲夜の家庭環境であり、咲夜自身もどうでも良いと感じてしまった溝だ。


「……早く、住良木の所に行きたい」


 だからこそ、咲夜にはもう彼しか……理人しか残っていない。

 人生で初めて守ってくれた男子、優しい言葉をくれた男子、偽りのない心で包み込んでくれた男子……理人だけが、咲夜の心を守れるのだ。

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