神崎という女

(……良い匂いだなぁ……じゃなくて!)


 バッと、俺は神崎から離れた。

 一体全体どうして彼女の胸に顔を突っ込んでしまったのか、それはもちろんワザとじゃない……断じてそうではない!


(冷静になって考えてみると……主人公のラッキースケベってやつをこれでもかって体験した気がするぜ)


 そう、これは正にラッキースケベと言えるものだろう。

 放課後になり少し一人の時間を作りたくて屋上に向かったのだが、そこで扉を開いた瞬間に目の前に神崎が居て……そこで俺は何もなかったのに転げてしまってこうなった。


「ったく……なんでこんな目に――」


 立ち上がろうとする神崎を見た俺はすぐに手を差し伸べた。

 冷静に現状を分析したが、彼女が背中から倒れたことに変わりはないので、どこか怪我でもしていたら大変だからだ。


「お、おい……」

「どこか怪我とかしてないか?」


 彼女の手を取った瞬間、何故か神崎が困惑した。

 そんな彼女の様子を疑問に思いつつも、手を引いて彼女を起こす――立ち上がってすぐ、神崎は怪我がないかと言った問いに答えてくれた。


「怪我はないよ。つっても少し背中は痛むけど」

「それは怪我って言わないのか?」

「こんなもんすぐに治る」

「……俺の不注意でごめん」


 その……普通に相手が神崎だからビビッてる。

 彼女の様子からいきなりぶん殴られたり、心を抉るような暴言を言われることはなさそうだが……。


「……………」


 しっかし、こうして神崎と至近距離で見つめ合うのは初めて……か。

 昨日ちょろっと話した時はここまで近くはなかったし……けど見れば見るほど神崎は美人さんだった。

 男神崎の面影なんて見る影もなく、本当に俺の記憶にある神崎は女子になったんだなと不思議な気分だ。


「……お前、なんだか変な奴だな」

「おい、いきなり変な奴は言い過ぎじゃねえか?」


 言い返すとまた神崎は不思議そうな顔をする……そんなに俺が返事をするのがおかしいんですかね。

 まあでも、確かに今まで一切の会話を俺たちはしていなかったんだから別におかしくはないのかな?


「本当に大丈夫? 俺が見てなかっただけで頭とか打ってない?」

「打ってねえって。心配のしすぎだろ」

「心配するに決まってんだろ。だって神崎が倒れたのは俺が原因の一つでもあるんだから」

「……だから大丈夫だって。二人して倒れたことよりも、あたしの胸に顔を埋めたことがもっと罪な気もするけど?」

「ま~じでごめんなさい」


 それに関してはマジで申し訳ない!

 即座に土下座をすることで罪の意識があることを伝える……確かに女性にとってたとえ事故であろうともあれは不快以上の何物でもないはずだ。

 だからこそ一発殴られるくらいは覚悟したというのに、やっぱり神崎は何もしてなかった。


「男が簡単に土下座なんかするなよ。今回はお互いに余所見をしていたのが原因だった、それで終わりだ――住良木の方こそ怪我とかは?」

「俺は全然大丈夫だ」

「だろうな。良いクッションになったみたいだし」

「……だからマジでごめんなさい!」


 事あるごとに擦ってきやがって……!

 少しムッとしてしまったが、やはり今回のラッキースケベは全面的に俺が悪いので文句は絶対に言えない……言わない。

 本来ならこのまま屋上に出てリラックスしたかったけど、口には出さないがある意味でリラックス出来たようなもんだし?


「……なんであたしと話すのを嫌がらないんだこいつ」

「なんか言ったか?」

「何でもない……それより屋上に行かないのか?」

「もうリラックス出来たから良いや」

「リラックス……はっ」

「ねえ、鼻で笑うの止めて?」


 でもこの言い方は俺が悪かったなごめん!

 結局、屋上には向かわず教室に戻った……その頃には既にクラスメイトは誰も残っていなかった。


「……………」

「……………」


 教室に入って荷物を背負うまで、俺と神崎の間に会話はない。

 さっきのやり取りなんかで仲良くなれたとは思っていないし、そもそもその必要があるのかどうかさえ分からない。

 ただ……何故か彼女を見た時、彼女もまた俺を見ていて視線が絡み合った。


「……………」

「……………」


 ねえ誰か、助けてくれない?

 あまりにも沈黙が嫌になってしまい、俺はこんなことを口走ってしまったのだ。


「神崎ってさ……昔は男だったとかないよね?」

「喋り方は男っぽいしガサツな自覚はあるけど産まれた時からずっと女だよあたしは」

「あ、はい」


 そんな言葉を最後に、俺は足早に教室から出るのだった。

 まさかあんな形で神崎と話をする時が来るなんてな……確かに彼女が言ったように喋り方とかは普通の女子とは違うものの、やっぱりどこまでも女の子だったというのが正直な感想だ。


「……あれ」


 一人、帰り道を歩いていると思い起こされていく記憶がある。

 漫画を読んでいた時は素晴らしいイラストと絶妙な淫語であったり、とにかく興奮を煽る物が多くて気にならなかったけど……よくよく考えたら神崎の家庭環境なんかが僅かに語られていた。

 昔から両親の仲が悪く、喧嘩はもちろんお互いに浮気は当たり前と……そんなゴミみたいな環境だったはずだ。


『くくっ、まあ俺からすればそんなものはどうでも良いことだ。父親からは男の醜さを、母親からは女の醜さを教わった……所詮、自分以外の存在なんてそんなもんだ』


 神崎はそう開き直っていたが、だからって好き勝手に女性を寝取るなんて行為は許されない……あぁでも、そんなダークな部分も一部にはウケてたっけか。


「……そんな家庭環境なら色々と歪んじまうわな。男の神崎はそんな風に受け入れたけど、この世界の神崎はどうなんだろうな」


 ……ったく、だから俺が気にしても仕方ねえだろっての。

 そもそも性別の違いってのはあまりにも大きく、それこそその変化によって神崎の家庭環境が変わっている可能性もあるわけだ。

 漫画よりも良くなっているか、それとも悪化しているのか……仮に変化がなくても地獄には変わりないよな。


「にしても不思議だぜ……あんなに威圧感とかあるのに、今の俺からすれば菜月と同じで神崎も年下の子に見えるもんな」


 それもまた、彼女に怖気付くことなく喋れた理由なのかも。


「さ~てと、帰るか」


 しかしながら……人の縁ってのは本当に不思議なモノ、俺はそれをすぐに味わうことになる。


 ▼▽


 突然だが、学生や社会人にとって一番嬉しい瞬間ってなんだろうか。

 敢えて俺の感覚で言わせてもらうなら、それは翌日が休日であることを実感する時だろうか。


「明日は国民の休日……いやぁ最高だねぇ」


 明日は火曜日だけど休日ということで、俺の機嫌は最高だった。


「飯も美味かったし……良いね!」


 さて、既に暗くなった外を俺は歩いている。

 家に帰ってすぐ母さんから連絡があり、父さんと一緒に知り合いと夕飯に行くからというものだった。

 自分で作るのも面倒だったのでこうして外に来たわけだけど、この面倒さも明日が休みとなれば機嫌が良いものだ。


「……あ、雨」


 家を出る前から怪しかったけど、ここに来て大粒の雨が降ってきた。

 これを見越して傘を持ってきておいて正解だったと、慌てて走り出す通行人たちにドヤ顔するように傘を広げる。


「何事も備えあれば憂いなしってな」


 まあでも、今日一日ずっと天気は良いって予報だったから仕方ないか。

 ただあまりにも雨の勢いが強くて足元は濡れてしまう……嫌だなって、そう思った時だ――目の前から制服姿の女子が雨に濡れるのも躊躇わず走ってくる。


「あれって……」


 それが誰であるかにすぐ気付けたものの、更にその後ろから二人の男が追いかけるように走っており……俺は咄嗟に声を出して彼女の手を掴む。


「こっちだ神崎」

「……え?」


 驚きに目を見張る彼女だったが、俺は即座にスッと路地裏へと神崎を引っ張るように駆け出す。

 黒の傘を目くらましとして活かすようにしながら、駆けていく足音が遠くなるのを待った……と言っても雨の音があまりにもうるさいけれど、チラッと顔を出して覗くと男たちは遠くへ走って行った。


「……ふぅ」


 一体どうしたんだ、そう尋ねようとしてギョッとした。

 大雨に濡れてしまったことで神崎の制服は肌に張り付き、シャツの向こう側にある黒い下着と、その下着に包まれた豊満な胸の膨らみまでバッチリと見えてしまったのである。


「っ……」


 そっと顔を背け、濡れても良いやと思いながら上着を肩に掛けた。


「……おい、濡れるぞ?」

「濡れても良い。俺の視界を救ってくれ」

「視界……? あぁそういうこと」


 おそらく顔を赤くしている俺と違い、神崎の様子は普通だ。

 こんなにも普通にされると照れる自分の方がおかしいと思うほど……それにしても今日は本当に神崎と縁があるな。


「今日はよく会うじゃん」

「それ、俺も同じことを思ってたわ」

「そっか……はぁ……結構走って疲れたな」

「……………」


 疲れた、その一言はあまりにも小さく響き渡った。

 ただ走って疲れたというよりは、もっと別の何かに疲れたと思わせるような……。


「さっきのは?」

「クソババアが家に連れてきた男たちで……ヤラせろってうざくて」


 ……勘弁してくれよマジで。

 さっきまで明日は休日だって機嫌が良かったのに、いきなり地獄のような場所に叩き落とされたような感覚だ。

 とはいえ、この時の俺は随分と心配する顔をしていたらしい。


「なんだよその顔……たかがクラスメイト相手なのに心配してんの?」


 そう神崎が俺に聞いてきたからだ。

 俺は特に考えることなく、反射的にこう伝えた。


「当たり前だろ。クラスメイトだからこそそういうことを聞いちまったら心配するに決まってる」


 関わり合いになりたくない? それは確かだ。

 けど、俺にはだからと言ってじゃあ関係ないからアディオスとは出来ないらしい。


「……っ」


 俺の返答に、神崎はただただ目を丸くしていた。



【あとがき】


ヤンデレの開花までを見守ってくださいな。

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