第6話 拭い去れない記憶
昔から俺はよく色んな奴に襲われた。
よく魔族に襲われていたが、それ以上に同じ人間から暴力の対象にされていたのが何より辛い記憶だ。
「やい泣き虫レッド! また魔族に襲われて泣きべそかいて帰ってきてやがる!」
「俺達が鍛え直してやるよ! オラッ、俺のスーパーパンチを喰らえ!」
「ざーこ! ざーこ! 雑魚レッド!」
生まれた地は人口の少なく関係が密接となりやすい田舎と呼ばれる川が綺麗な近代都市国家エクリュース郊外の農村。
故に俺の無能ぶりは直ぐにも広まり、同年代の標的になるのは当然のことであった。
「ぐずっ……や、止めて……やだよ」
「うるせぇ! 男のくせにメソメソ泣いてんじゃねぇよ気持ち悪い!」
まだ殴り返せる程のタフさがこの時にあれば扱いも少しはマシになってたはずだ。
だがそう心も強くはなれず、マナが弱くて力もなく、直ぐに泣いていた俺はいいサンドバッグであっただろう。
物心つく前に親を亡くし、養父母も俺を毛嫌いして後ろ盾になる大人がいなかったのも大きかったと思う。
「うぇぇぇん……ぐずっ……助けて」
思い返すと自分にも腹が立ってくる。
ただ岩のように身体を丸くして蹴りや殴りを泣きじゃくりながら助けを呼ぶだけ。
そんな弱っちい俺を気にかけてくれた奴がこの世界には一人だけいた。
「コラァ! 止めなさいアンタ達!」
「やべっ!? 鬼だ!」
「逃げろ捕まったらボコボコにされるぞ!」
覇気の籠もった強気な声色。
右の拳を振り上げながらこちらへと鬼気迫る表情で走る姿に俺を襲っていた男児達は散り散りになって逃げ惑う。
銀のショートヘアに快活さを裏付ける鼻に付けられた白の絆創膏と可憐なドレス。
少なくとも俺よりかは圧倒的に男勝りな勇ましい雰囲気の鬼と称される少女。
「ったく下劣め……一人相手に大人数なんて卑怯極まりないからねッ!」
今よりも遥かに感情を顕にしていた彼女は怒りの籠もった声を吐くとか弱い俺へと優しく手を差し伸べる。
「大丈夫? 怪我してない?」
「ぐずっ……うん……平気」
俺はその手を取り、立ち上がる。
痛みや恐怖による震えではない。
ただ一人の自分を守ってくれる存在を目の前にして安心と喜びから来る震えだ。
「ありがとう……ユレア」
関係の黎明期は実に情けない構図だった。
ユレア・スタンバース、幼き頃から魔法の天才と呼ばれ勝ち気な性格から鬼と恐れられる美少女に俺は常に助けられていた。
「酷いわね……またこんなことして。クソッやるなら正々堂々一対一でやりなさいよあいつら!」
正義の炎を瞳に燃やす彼女はやるせない怒りに強く握った拳を震わせる。
何故名門出身の超がつく令嬢の彼女がここにいるのか、当時は知る由もなかったがどうやら無断で屋敷を抜け出しては王国近くの農村へと勝手に訪れていたらしい。
転移魔法すらもこの年で操れる血気盛んな彼女は様々な箇所へ無作為に遊びに出掛けていた中で俺と出逢うことになる。
「ぐすっ……ふぇぇぇん」
「全く、ほらアンタも何時までも泣かない! またあいつらが来たら私に言いなさい、ぶっ飛ばして上げるから!」
この頃の彼女は毎日のようにここへと現れてリンチにされる俺を見つけては身を挺して守り相手を追い払っていた。
どれだけ人間を魅了する絶世の美女に女神だと名乗られてもこの時の俺はユレアを女神と崇めただろう。
それ程までに彼女への依存は激しく彼女の存在だけが俺の生きる原動力だった。
「うん……ありがとう」
「ホントにここの大人はどういう教育をしてるのかしら! 後でパパとママに言いつけてこの村を焼いてやる!」
「い、いや燃やすのは止めて! 皆……懸命に生きてるから」
「はぁ? 悔しくないの? 皆アンタを虐めるか見て見ぬ振りする奴らなのよ!? 呑気に生きてる資格なんて!」
「でも……自分が痛いからって同じ事をしていい訳じゃない……はずだから」
もしここで彼女の言葉に甘えていたら本当に生まれ故郷は焼け野原と化していた。
それ程までに当時からスタンバース家の影響力は国内でも強く田舎の村一つ滅ぼすくらいは容易である。
正直、ここで下した俺の決断が正しかったどうかは今でも分からない。
「ぐぬぬ……まぁアンタが言うなら止めておくわよ、でもイジメは今後も許さないから! そうだ、気分転換に私と遊びましょうよ」
「えっ? いやでも」
「でもじゃない、行くわよ!」
「ちょ、ちょっと!?」
ウジウジしている俺の腕を掴むとユレアは半ば強引に走り出す。
抵抗する気力はなく、彼女にされるがままに俺は村から離れることとなる。
彼女が連れてきてくれた場所は何処までも続く広大な草原地帯だ。
清々しい程の澄んだ空気が漂うこの場所は心身ともに安らぎを与えてくれる。
「見なさい、世界はこんなに広くて綺麗なのよ、あんなしょうもない奴らや弱い魔族で泣く必要なんてないのよ!」
「そ……そうなのかな……でもユレアだっていつかは僕をダサい弱いって笑うよ……だって僕は魔力が弱くてだらしなくて強くなくて笑われて当然なんだから……」
「そんなことしないわよ! そうだ、なら約束しましょう」
「約束?」
「アンタが強くなるまで私はどれだけ酷い姿を見ても絶対に笑わない友達でいる! ほらだから安心しなさい!」
絶対に自分を馬鹿にしないという約束。
卑屈になってた俺は他人の言葉を信用しない性格だったがユレアだけは守ってくれるんじゃないかという感情が湧き上がる。
「本当に……?」
「私は嘘をつかないわよ、だって誇り高きスタンバース家の一人娘なんだから! だから私を信じなさい」
「うん……そうしてみる」
差し出された手に恐る恐る応える。
握った彼女の手は力強く俺は忘れかけていた笑顔という感情が表面に浮かび上がった。
「よしっ約束成立! ならまずは気分転換にあの水辺で遊びましょうよ、私水遊びはパパやママとよくやってるの!」
振り回される日々だったが幼少期はこの時間だけが幸福に満たされていた。
家では罵倒、村ではリンチ、森では魔族からの襲撃、もはや笑えてしまう状況。
その中でユレアだけが俺に勇気を与えてくれる、ユレアだけが俺を肯定してくれる、そりゃ心酔するのも当然のこと。
ずっと、ずっとこんな時間が続いてくれ、神様にそう願いながら俺は毎日を過ごしていたが彼女との関係は簡単に崩壊した。
『ビィィィ!』
「うわぁぁぁぁぁぁっ!?」
今日も養父母の罵倒に耐えきれず家から抜け出した俺はもはや当たり前のようにまた魔族に襲われている。
蜂型の低級魔族ラバ・ビー、危険性が低く殺傷能力を持たない相手だが数十匹で迫る奴らに俺はボロ泣きしながら逃げ惑う。
毎日襲われているからか、皮肉にも逃げ足は早くなっており奴らの追跡を振り払うことに成功した俺は物陰へと身を隠す。
十分悲惨だがこれでも家や村で罵声などを浴びせられるよりはマシという消去法の理由でユレアがいない時はずっとここにいる。
自身を投影したような薄暗い森林、陰鬱だがそれ以上の悪夢から少しでも逃れるために俺はここでまた夜まで身を潜めようとした。
「……こんなんじゃ、駄目だよね」
しかし少しだけ心情は変化していた。
ユレアと約束した強くなるまでは自分を笑わない友達でいるという二人の契り。
行動に移せずともこのままでは駄目だという思いが脳内に小さく、だが着実に広がる。
「よしっ……強くなろう、ユレアに追いつけなくても友達と言えるくらいには」
明確なビジョンはないが強くなりたいとただ純粋な決意が幼き自分を動かす。
誰にも負けないくらい、ユレアの為に強くなって友達として誇れるようになりたい、自分の中で前向きに決意した最中だった。
奴が……現れてしまったのは。
「ん?」
周囲を漂う少しだけ違う空気感。
毎日ここにいるからこそ僅かな気配の差でも感知することは容易だ。
悍ましい何かが地を揺らし、これまでとは比べ物にならない悪寒が背筋を走る。
直後、鼓膜に響き渡ったのは草木を乱雑に踏み潰す鈍く大きい足音。
「ッ!?」
振り返った先の光景が悪夢だと信じたい。
だが肌に伝わる風がこれが現実だと受け止めさせていく。
二足歩行の昆虫、光沢のある漆黒の甲殻に逞しい両腕と伸びる鋭利な鎌。
体長は軽く五メートルは超えており、この世の生物とは思えない異形の怪物が眼前で君臨していた。
涎を滴らせながら餌となる俺を凝視するその姿を見て俺は悟る。
アレには勝てない、力も知性も経験も何もかもで劣っているから生きて帰れないと。
「ヒッ……!?」
腰が抜け、まともに走れない。
考えられない恐怖感と絶望感が理性を蝕み思考は逃げようとしていても脚が言うことを聞かず走っては転ぶという愚行を繰り返す。
やがては激しい転倒の後にズボンがずり落ち、見るに耐えない情けない姿で俺は涙目に化け物の姿を見上げた。
強くなろうと決意した炎は一瞬にして鎮火され弱者としての畏怖に満たされていく。
「キシャァァァッ!」
俺の心にトドメを刺す耳を切り裂く咆哮。
遠くへ逃げろと考えていた理性すらも消え「死ぬ」という恐怖の感情に支配された。
異形の怪物はゆっくりと一歩、また一歩と確実に距離を詰めてくる。
決して逃がさぬように、俺が絶望に咽び泣く姿を楽しむように。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
壊れたように悲痛な言葉を連呼する。
しかし叫べば謎の力で怪物を押し返すなんて奇跡が訳もなく両腕に備わった鎌が無慈悲にも振り上げられ目前に迫る。
ここで死ぬ、そう確信した直後だった。
「発動魔法段階シュレ、
紅蓮の閃光。
目前に迫る凶刃より速く、化け物を突き刺すように炎の一撃が飛来した。
「キシャァァッ!」
突然の攻撃に悶える怪物。
火の粉が舞い散り、その威力は背中の甲殻を焦がし抉るように貫く。
「パニッシュ・ゴライプ、中の下程度の魔族だったかしら、前に読んだ全魔族生態教本にこいつもいたはず」
毎日のように聞いていた女神の声。
銀髪を可憐に揺らす少女は幼い年齢には見合わない勇ましさで魔族と対峙し、右手には純白の魔導書が握られている。
「デカイだけが取り柄の下劣な魔物め、スタンバース家のお嬢様であるこのユレア様が裁きを下してやる!」
恐怖に苛まれても可笑しくない状況にて爽快に現れた戦乙女はパニッシュ・ゴライプと名付けられた魔族へと真正面から接近する。
迫り来るユレアに長い両腕を振るうがその刃は空を斬り、軽々と回避した彼女は無防備な懐に潜り込む。
「発動魔法段階シュレ、
瞬間、ゼロ距離から詠唱を行うユレアの手元には氷塊が集結されていく。
巨体を上空へと吹き飛ばす程の威力を有する技を幼きユレアは手足のように操る。
魔導書の表紙に描かれた紋様は生きているかのように発光し、彼女が持つ魔力の強さを象徴していた。
「やっぱり酷く雑な大振りね、当たんなきゃ自慢の力も使えない!」
狂乱に満たされているパニッシュ・ゴライプの大振りを巧みに回避しながらユレアは主に背後を狙って魔法による攻撃を継続する。
パニッシュ・ゴライプ、木々を薙ぎ倒す力と巨体が特徴的だが精密動作性は低く隙が生まれることが多い。
今じゃ俺も当たり前のように知っているがこの幼少期の時点で奴の弱点を完璧に頭に叩き込んでいる彼女は異常だ。
「発動魔法段階シュレ、
ましてや、実物と殺し合いをしている中で分析するのは余計にイカれている。
だが何より自身の魔力を魔導書を経由して発動出来ているのが一番の異常。
魔法を放てるようになるのが一般的に九歳からと言われている世の中で彼女は六歳ながら大人顔負けの膨大な魔力を司る。
「トドメよ、発動魔法段階ファイラ!」
ユレアという存在は百年に一度の天才という肩書きでも格落ちする程の逸材だった。
多彩な技を駆使し、大きく弱らせた段階で彼女は魔法のギアを上げる。
「
回転するようにして放つ剣舞がパニッシュ・ゴライプの頑丈な甲殻を焼き削る。
十字に交差した斬撃は奴の胴体を抉り、苦悶に満ちた絶叫を上げさせた。
凄惨な断末魔が轟き、弱者の立場へと追いやられた怪物は焼き焦げた図体と共に地面へと叩きつけられる。
「レッド!」
敵が絶命した事を確認したや否やユレアは華麗なる無双劇を呆然と眺めていた俺へと足早に近付く。
もし……もしここで彼女の助けにいつも通り何事もなく泣きながらも喜んでいたら未来は大きく変わっていただろう。
「あっ……ユ、ユレア」
ここが俺の最大の分岐点だった。
喜びからなのか、彼女がいるという絶対的な安心感から普段以上に涙が溢れる。
同時にズボンがずり落ちている状況を正そうと下半身に触れた時だった。
ジョロ……ジョロロロ……。
「ふぇ?」
局部から始まり鼠径部、脚部が段々と温かく湿っていく異様な不快感と何かが排出される音が森林に響き渡る。
真下に広がっていく液体は近場の土へと侵食していき、ようやく俺は状況を理解する。
「はっ……あっ……!」
言葉にならない声。
安心感からか、先程までの恐怖からか、俺はユレアの目の前で最大の恥辱を味わう。
パンツが露出した上での失禁、死んだ方がマシなのではないかと思いたくなる羞恥心が心を満たしていく。
「と、止まっ……止まって……あっ……あぁぁぁぁぁぁ……!」
どうにか止めようとするが一度放出されてしまった物は言うことを聞くはずもなく理不尽に地面へと注がれていく。
「止めて……み、見ないでぇ……」
頼むから見ないでくれと今更過ぎる懇願を弱々しい声で行う。
頬が真っ赤になり涙で満たされるという酷い顔でユレアの表情を上目で見つめながら脳裏に過るのは「強くなるまで笑わない」という彼女との約束。
恥ずかしさに脳を犯されながらも「何よお漏らしくらい気にしないわよ!」と溌剌に励ましてくれると淡く期待していた。
「えっ?」
だか、現実はそういかなかった。
ユレアはただ俺が失禁する姿を見下ろしながら無表情で最後まで見つめる。
身を少しだけ震わせながらこれまで見たことのない雰囲気を彼女は醸し出す。
「……ハッ」
そして笑った。
涙に包まれる俺とは対照的に彼女の口角が上がり、瞳の色に熱が帯びる。
あの顔は今もこれからも忘れない、軽蔑を示す乾いた無慈悲な笑顔。
「ッ!?」
自らの思考にあった感情は子供に塗りたくられたキャンパスのようにぐちゃぐちゃに乱されていく。
極彩色に混乱する脳内の中、辿り着いた感情は凄まじい羞恥心と屈辱感。
俺はズボンを慌てて上げると逃げるように走り出す。
やがては彼女の様子が見えなくなりその場の地面へと崩れ落ちた。
「あっ……あぁ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
見られてしまった。
人前で漏らしてしまった。
唯一の親友に笑われてしまった。
「うわあああぁぁぁぁッ!」
叫んだ所で未来が変わることはないが今はもう叫ぶ事でしか自分を維持出来ない。
まだ思い入れのない誰かに見られ笑われたのならここまで悲痛な心に包まれることはなかっただろう。
しかし、相手は唯一の心の拠り所であり自分をずっと肯定してくれた相手。
「何で……何で笑った」
辛さと恥ずかしさと同時に心から湧き出たのは「何故笑った」という疑問。
絶対に笑わないという約束があり、俺は本気で彼女との契りを信じていた。
だからこそ裏切られたという結果に対する怒りは募り始めていく。
「何で笑った、何で笑った……!」
辿り着いた感情に歯止めは効かない。
痴態を見られたという羞恥心は憎悪心へと豹変していく。
女神だと崇めていた彼女の笑顔も今はどの怪物よりも醜いものへと変わっていた。
「許さねぇ……許さねぇッ!」
誰も信用できなくなった今、湿っていた強さを求める炎は再び燃え上がる。
約束を破り、俺を弄んだあの悪魔のような女を絶対に許さない。
「絶対に許さねぇ……お前にも俺と同じ屈辱を味合わせてやるユレアァァァァァァッ!」
最高の天才への純粋なる復讐心。
今に至るまでの原動力が生み出される。
俺へと無意識に変化した一人称と共に憎しみの叫びが澄んだ空へと轟いた。
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