壱章-③

 *



 それから、琴乃にとっては何も代わり映えしない日々が続いた。


 一日、一日と終わりを望んだが、そう簡単に終わってくれない。

 あの日以来、夢の彼も別の言葉を話すようなことはなく、しかし藤と煙草の匂いは色濃くなっていって、琴乃が夢から覚めても身を包んでいるようだった。


 そんな日々が変化したのは、雪もすっかり溶けて庭先の桜木が蕾をつけ始めた頃。



 弓乃に、許婚ができたというのだ。



 お相手は弓乃と同等の力を持つ良家の御子息だ。家を継がない次男ということもあり、婿養子をする形で嫁いでくるという。

 それにより、今まで代わり映えしなかった日々が大きく動き出した――










「ご当主様! どうして分家の人間から婿を選ばないのですか!」


 琴乃がそんな叫びを聞いたのは、弓乃に婚約者ができた翌日だった。

 廊下で、雄一郎に詰め寄る男を見つけたのだ。

 彼の顔を、琴乃は知っている。巴分家出身の息子・古谷勝己ふるやかつみだ。


 琴乃だけでなく使用人にも当たり散らすのに当主には腰の低い人なので、印象に残っていた。


 彼女が曲がり角で息を殺しつつ、廊下を通れず困っていると、やりとりはさらに白熱していく。


「能力の高い者同士を許婚にすることの、一体何が悪い」

「なっ……!」

「それに相手方は、巴家同様名実ともに備えた伯爵家の人間だ。文句があるならば分家もそれくらいの人間を輩出したらいいだろう」


 そう言って立ち去ろうとする雄一郎に、勝己は尚も食い下がる。


「しかしそれでは伝統が! 血の濃さこそ、優秀な術者を作るために必要な要素ではありませんか!」

「ハンッ。世情が見えていないのはどちらだ? 血を薄めないための同族婚など古い。むしろ昨今の研究で、血の繋がりのない第三者を入れたほうが力の強い子ができることは証明されておる。相手の家柄も功績も申し分ない。それなのに何が不満なのだ」

「それ、はっ」

「大方、自分の血筋を本家に入れたいというだけだろう。血に縋るなど愚かにもほどがある」


 ぱんっと、雄一郎がすがる勝己を払い除けて笑った。床に倒れ込んだ勝己は、ぎりっと顔を歪めながら言う。


「ご当主様だって、分家から婿に入った身ではありませんか」

「……は?」

「あなたが一番、巴家の血に縋っているくせに」


 おそらくそれは、勝己にとっての最後の悪あがきだったのだろう。だが雄一郎にとっては、逆鱗そのものだった。

 みるみるうちに雄一郎の顔が真っ赤に染まり、そしてあっという間に怒りが噴き出す。


「出て行けッッッ!!」


 その声は、巴家中に響き渡るほど大きく響いた。

 一連のやりとりを見ていた琴乃は、その怒声に激しく震え上がる。


 それから大きな音がしたかと思うと、雄一郎が勝己を蹴り飛ばしていて、勝己の口端から血がこぼれていた。


 勝己は自身が蹴られたことが信じられないのか、憮然とした様子で雄一郎を見つめている。挙句雄一郎は「二度とこの屋敷の敷居を跨ぐな!」と言い、勝己を外に追い出してしまった――



 *



 夜。琴乃は落ち着かず、布団の中で手鏡をぎゅっと握り締めていた。

 その日の雄一郎の怒りはかなりのもので、あれだけ虐げてきた琴乃にも見せたことがないものだった。


 いつあの矛先が自分に向かうか、分からなくて怖い。今日は雄一郎に出かける用事があったため琴乃と顔を合わせることはなかったが、明日はきっと今まで以上に痛めつけられるのだろう。でないと雄一郎の腹の虫が治らない。


 それを想像して、胸の辺りがきりきりと引き絞られる。恐怖からか、指先から熱がなくなり震えた。冬場よりもよっぽど暖かいはずなのに、今は真冬よりも寒い気がする。だからか、眠ろうと思ってもうまく眠れなかった。


 琴乃はため息をこぼし、手鏡にそっと鏡面にはあ、と息を吹きかけ曇らせると、『栄』と文字を刻んで撫でた。


 少しだけ。本当に少しだけ、震えがおさまる。


 それから深呼吸をして、今度こそ眠りにつこう。そう思ったときだった。


 ずるずる。


 立て付けの悪い襖が、開く音がした。

 驚いた琴乃は、布団の中でぎゅっと身を縮こませて固まる。


(だ、れ……?)


 今まで、琴乃の部屋に人が来たことはない。それは使用人であっても、だ。食事を運んでくる人は大抵、襖の前に置き去りにして去ってしまう。


 しかも今は、夜更けだ。真っ暗闇が辺りを色濃く染める頃。そんな時に入ってくる人間など、絶対にろくなものではない。


 人ではないものの可能性も考えたが、この屋敷は術者の屋敷で、何重にも結界が張られていた。生半可な妖物では、屋敷に入る前に跳ね飛ばされてしまうだろう。なのでその可能性はないと思われる。


 ひたり、ひたり。


 布団の中で必死にそんなことを考えていると、忍ばせた足音がする。


 ひたり、ひたり。


 一歩。また一歩。近づいてくる音に、琴乃は息を殺した。恐怖のあまり、声が出なかった。体も上手く動かせない。

 それでも、何事もなく事態が過ぎ去ってくれることを願う。


 しかし、琴乃の願いは叶わない。

 侵入者が、琴乃の掛け布団に手をかけたからだ。


「――ひっ」


 掛け布団を取り払った人物を見て、琴乃は喉の奥から悲鳴を漏らした。



 そこにいたのは、勝己だったのだ。



 明らかに正気ではない様子で、ぷうんと酒気の匂いがしてくる。どうやら、相当飲んだようだ。


 だが問題は、彼が酒を飲んだことではない。何故今、琴乃の前にいるかということだ。

 手鏡をぎゅっと握り締めたまま、琴乃は震える声で問う。


「勝己、さま。何故、こちらに……?」

「ああ? 俺がここにいて悪いのか?」


 良い悪い、で言うなら悪い。だって勝己は今朝方、雄一郎に屋敷へ入ることそのものを禁じられていたからだ。

 しかしそれを琴乃が口に出せるはずもない。思わず押し黙っていると、珍しく勝己が笑みを浮かべた。


 その笑みがどことなく粘着性を帯びていて、琴乃は知らず知らずのうちに後ずさる。本能が、この状況はまずいと訴えかけていた。

 その予想違わず、勝己は琴乃の首筋を片手で掴んでくる。

 まるで、命綱を握られているようだった。


「いやさ、あいつに屋敷から追い出されてさぁ……昼間っから酒を浴びるように飲んで。そっから、気づいたんだよ」

「なに、を」

「あいつにはもう一人、娘がいるっていうことをだよ」


 そう言う勝己が、琴乃の襟元に手をかけようとする。

 勝己が何をしようとしているのか。それを理解した瞬間、肌が粟立ち生理的な嫌悪感が噴き出す。琴乃は必死になって胸元を押さえた。


 そんな琴乃に苛立ったのか、勝己は首筋を掴んでいた手を離すと、琴乃の頬を勢い良く叩く。その衝撃で床に倒れ込んだ琴乃に、勝己は馬乗りになった。

 そして琴乃の両手首を片手で頭上に封じると、鼻歌混じりに襦袢を脱がそうとしてくる。


「弓乃じゃなくても、お前を孕ませたらさすがのあいつも俺を認めるしかねえ……」

「い、や……いやっ」

「うるせえ動くな。それに叫んだところで、お前なんて誰も助けに来てくれねえよ」


 下卑た笑い声をあげながら、勝己はなんてことはないように琴乃を辱めようとする。


 言っている言葉の意味が、分からない。琴乃を手篭めにして身篭らせても、雄一郎が勝己を認めることはない。琴乃にすら分かるほどの結論に、どうして勝己本人が気づけないのだろう。


 むしろそんなことのために、琴乃の中にある最後の矜持すら貪りとられるのだと思うと、目の前が真っ暗になった。

 しかし、誰も助けに来てなどくれない。それは勝己の言う通りだ。叫べばさすがの使用人も起きるだろうが、止めに入ってくれる人間はきっといない。勝己に逆らうのは恐ろしいからだ。


 そう自覚すると、自分が独りぼっちだということを改めて突きつけられて、心が音を立ててひび割れていくのを感じた。

 抵抗しなければきっと、暴力を振るわれることはない。犯されるのはほんの一瞬だ。それまで心を無にして、耐えれば良い。

 そう思い、琴乃が脱力しようとしたとき、だった。


 ――手のひらに、固い感触があったのだ。


 それが一体なんなのか考えて、手鏡だったことを思い出す。それと同時に、手鏡に刻んだ『栄』の名前も。


『何かあったときは、どうか僕の名前を呼んで――』


 夢の中の美しい人は、琴乃にそう言ってくれた。言われたのが夢だということを考える余裕すらなかった。本当にどうしようもない絶望的な状況の中、琴乃が最後に見出した光だったからだ。


(どうか、どうか、どうか、お願い。お願いします)


 その人に手を伸ばすように、琴乃は手鏡を握り締めて口を開く。


「さか、え。たす、けて」


 お願い、助けて。


 小さな小さな声だった。恐怖が絡みついた、掠れた声だった。


 しかしその願いは確かに空気を震わせて――


 次の瞬間、屋敷の屋根が根こそぎ飛んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る