壱章-②

 そうして掃除をしたり、使用人たちから貶されたりして時間を過ごし日も傾いてきた頃、琴乃は決まって双子の姉である弓乃ゆみのの元へ向かう。


 それは、術者専門の女学院に通う弓乃の代わりに宿題をやるように言われているからだった。

 また巴家を繁栄させるために、双子の姉との格差を琴乃が知ることは必要なことらしい。


 そうして琴乃は弓乃の部屋の前へ行き、襖の前で膝をついた。


「弓乃様、琴乃です」

『入りなさい』


 自分と似た、けれど自信がありそうな強い声が中から聞こえてくる。

 そうして襖を開けば、そこには琴乃にそっくりな、しかし琴乃よりも美しく整えられた少女が不機嫌そうに座布団の上に座っていた。


 琴乃と同じ黒髪に、まるで藤の花のような紫色の瞳をした弓乃は、しかし琴乃とは違い美しい梅の花が咲き誇る振袖を身に纏っている。その違いに、もう慣れているはずの心がずきりと傷んだ。

 その手には雑誌が握られている。どうやらちょうど読んでいたところだったらしい。


 琴乃が慌てて平伏すれば、冷めた声が降ってきた。


「そんなことどうでもいいから、早くあたしの宿題をやってよ」

「は、はい……」


 声を震わせながら、琴乃は弓乃のいう宿題が広げられた文机の前に腰を下ろした。

 そうして弓乃に見張られている中、琴乃はカリカリと鉛筆を走らせる。


 弓乃は、女学院でも優秀な成績をおさめている一人らしい。

 しかし本人は女学院の勉学がつまらないらしく、宿題もやりたくないそうだ。琴乃に押し付けているのもそれが理由だとか。


 弓乃のわがままに応えるために、琴乃は最低限の知識を与えられていた。

 それでも難しいところは手が止まってしまう。


「何サボっているの」


 そうすると決まって、弓乃が後ろから顔を出してきた。


「こんなことも分からないの? これはここの知識を応用すればいいのよ」

「は、はい……申し訳ありません」

「謝罪はいいから、早くやって」

「はい……」

「あ、あたしの文字に似させることを忘れないでよ? あんたが間違えたら、恥をかくのはあたしなんだから」


 そう指示を出し、弓乃はまた雑誌に視線を落とす。

 間違いが多かったことを理由になじられたことがあるので、鉛筆を握る手にも力がこもった。

 しかしこの時間はとても緊張感にあふれているが、それでも弓乃は琴乃に暴力を振るったりはしなかった。「自分と同じ顔をした人間をいじめても、何も面白くないじゃない」と彼女がぼやいていたが、それは確かにその通りだなと琴乃も思った。


 なので琴乃にとって弓乃のそばにいることは、その格差をまざまざと見せつけられて胸が痛む時間ではあるが、同時にやってくる暴力に身を縮こませることがない時間でもあったのだ。


 そうして宿題を終わらせた頃には大抵、夕餉の時間になっている。

 弓乃は琴乃が間違いなく宿題を終わらせたのを確認した後、しっしっと追い払うような仕草をした。


「あたしはこれから夕餉だから、さっさとその見窄らしい体を霧崎きりさきに診せてきなさいよ」

「はい。……失礼します」


 そう言って弓乃に頭を下げ廊下を出た琴乃は、少しだけ深呼吸をしてから離れへ向かった。


「失礼します、琴乃です」

『ああ、はいはい。どうぞ』


 断りを入れて離れの一室に入れば、そこにはたくさんの薬棚に囲まれた一人の男性がいる。

 霧崎和臣かずおみ。巴家の専属医だ。

 どことなく胡散臭さをまとう糸目をした彼が、琴乃は苦手だった。


 術者の家に専属医がいることは、なんら珍しいことではない。より強く優れた術者を輩出するためには、医者が持つ医学や薬学の知識が必要不可欠だからだ。

 また巴家の場合、琴乃を虐げながらも決して殺さないために必要な人材だった。


 だからそんな和臣に素肌を晒して傷を見せるのも、琴乃の日課の一部だった。


「あちゃー。これまた手酷くやられたねぇ」


 そう言いながら、和臣は手早く琴乃の治療を行なう。軋むように痛んでいた部分が癒えていくのを感じ、琴乃は安堵するのと同時に絶望した。


(私の苦痛は、決して終わることがない)


 死にたくて舌を噛んだり手首を切ったりしたこともあったけど、それを治したのも和臣だった。


『ごめんね、でもご当主様からの命令だから』


 そんなふうに、心底悪いと思っていながらも命令に逆らわない和臣の態度。それが、琴乃は嫌だった。彼を苦手としているのはそれが理由だ。

 すると、そんな彼が琴乃の胸元を見て首を傾げる。


「ところで……この痣、治らないみたいなんだけど、何か分かる?」

「……いいえ、分かりません」


 ふるふると、琴乃は首を横に振った。

 和臣の言う通り、琴乃の心臓の上には赤い痣があった。出てきたのはここ三年ほどだが、年を重ねるごとに色が濃くなっている。

 しかし琴乃には、何も思い当たることがなかった。


「ふぅん、そっか……まあならいいや」


 和臣もそれ以上興味はないらしく、琴乃から視線を外すと片付けをし始める。


「今日はもう帰っていいよ」

「はい、失礼します」


 そうして自分に与えられた使用人屋敷の片隅の部屋に向かえば、部屋の前に食事が置かれている。

 朝餉の際に置かれたのだろう、米も固くなって食事もすっかり冷めていた。これが、琴乃にとっての唯一の食事だ。


 彼女はそれを機械的に胃に流し込む。味など気にしたことはなかった。ただきちんと食べなければ、どろどろした流動食を管を使って飲まされる。それが嫌なだけ。


 食器を洗って片付ければ、琴乃の一日はようやく終わる。


 寝巻きに着替えれば、就寝の時間だ。

 薄汚れた畳の上に薄い布団を敷き、身を縮こませる。


 暖かくなってきたといえ、朝と晩は冷える。薄い布団では心許なかった。

 それでもなんとか体を温めようと、両腕を交差させて自分の体を掻き抱く。


(大丈夫、大丈夫……眠ってしまえば、安心、だもの)


 夢の中に身を委ねれば、安寧が待っている。琴乃が何より待ち望んだ幸せだ。


 ぎゅっと目を瞑って必死に耐えていると、だんだん意識が引っ張られていくような感覚に襲われる。ようやく眠りにつけるらしい。

 まどろみの中、琴乃は心の中で呟く。


 おやすみなさい。

 どうか、明日も早く終わりますように。

 そして願わくば。


(――私の人生が、できる限り早く終わりますように)

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