壱章 双子の妹、救(さら)われる
壱章-①
帝都に残る雪も半分以上溶け、春の暖かさがちらつく季節。
この時季になると大抵の者が浮き足立ち、春の訪れを喜ぶものだ。
しかし。
「こんなこともまともにできないのか!」
巴家の朝は、いつもそんな怒声と共に始まった。
廊下で怒鳴り散らしているのは、巴家の家主である
彼女の名前は巴琴乃。
巴家の双子の妹だ。
そんな父親の足元で平伏しながら、琴乃はか細い声で謝罪する。
「申し訳ございません」
「まったく……この程度のことすらまともにできないとは。どうしようもないな」
雄一郎が言っているのは、廊下の掃除のことだった。しかし床はピカピカに磨き上げられており、ぱっと見問題があるようには見えない。
だが琴乃はそれに対して文句一つ言わず、ただ頭を下げ続けた。
「申し訳ございません」
そうしていると、前髪を掴まれ無理やり上を向かされる。痛みが走ったが、琴乃は唇を引き絞って悲鳴を耐えた。
すると、嘲笑を浮かべた雄一郎の姿が目に映る。
「お前は本当に、不出来な娘だな! 何より見窄らしい!」
「……申し訳ございません」
「……ふん!」
そう鼻を鳴らすと、雄一郎は琴乃を床に投げ捨てて行ってしまった。
それでも、琴乃はぐっと悲鳴をこらえて耐え忍ぶ。
だって一連の罵倒も暴力も、琴乃が何かしてしまったからではない。いくら完璧に仕事をこなそうと、彼女は周りから虐げられる運命にあった。
それは巴家が、術者の家柄だからだ。
それも、双子の片割れを崇め奉り、もう片割れを虐げることで代々強い術者を輩出してきた家系だ。
この国で、術者の家柄は特別な扱いを受ける。
その中でも代々国に仕え役に立ってきた家柄は、文明開化の世の中で華族として爵位が与えられていた。巴家もその一つであり、伯爵位が与えられている。
そして琴乃は、双子の妹。
――つまり琴乃は生まれてきたというだけの理由で、家系のために虐げられ続ける運命を背負った娘だった。
だからこの暴力を抑える術はない。この屋敷に味方はいない。家族だけでなく使用人ですら、琴乃のことを虐げることに躊躇しないからだ。
そんな琴乃にできるのは、できる限り苦痛が長引かないように祈ることだけ。
そしてそれが終わった後、自身に与えられた仕事を淡々とこなすことだけだった。
(今日は、ご当主様の機嫌が悪くないみたいでよかった……)
廊下から裏庭へやってきた琴乃は、ふう、と息をついた。少し前までは雪が積もっていて寒かったが、だいぶ暖かくなってきたことに安堵する。
琴乃は奴隷同然の扱いを受けており、着ているものも使用人たちのお下がりだった。そのため、とても薄い。
ありとあらゆることをやらされているため、手もガサガサでひび割れていた。
使用人たちはそんな琴乃を見て、華族の血を継いでいるのに、と嘲笑う。
しかしそれも琴乃には日常で、もう痛みを感じるような心の余裕はなかった。
そんな日々の中で唯一琴乃が楽しみにしているのは、夢を視ること。
そしてその夢で、一人の男性に会うことだった。
(今日も、とても美しかったわ)
箒を動かしながら、琴乃は今朝視た夢のことを思い出していた。
銀色の長髪に金色の瞳。
人間離れした美貌を持つその人は、いつだって優しい眼差しをして琴乃のことを見つめていた。
彼が夢に出てくるようになったのは、ここ三年ほどだろうか。
初めは驚いたものの、それが夢で、琴乃のことを何も脅かすことがない優しい夢だということに気付いたとき、彼女は警戒を解いた。
何より、藤の花と白い彼岸花が咲き誇る空間は幻想的で、男性も美しくて。屋敷の中から出たことがない琴乃の心を慰めて救ってくれたのだ。
(けれど、今朝は普段とは違っていた……)
普段なら、彼が話すようなことはなかった。ただこちらを見て煙管をくゆらせ、微笑んでいるだけ。琴乃に触れることもなければ、こちらへ歩いてくることもなかった。
それなのに今朝は、彼に触れられ、声だけでなく名前を聞いたのだ。
(確か……さかえ、さま)
栄。
そう名前を舌の上で転がし、琴乃は目を伏せる。
見目だけでなく名前まで美しいなと思った。そんな人に触れられたカサカサの唇に指先を滑らせ、琴乃はぎゅっと唇を噛み締める。じんわりと胸が温かくなったような、そんなぬくもりを感じてきゅうと胸が締め付けられた。
(これだけは、誰にも奪われたくない……だから)
琴乃はそれを、誰にも口にしないように大切に胸中にしまい込んだ。
これから先、誰かに助けを求めることなどないだろうけれど。
けれどこの名前は、琴乃にとって二つ目の宝物だ。
一つ目の宝物は、巴家の双子がそれぞれ持つ手鏡である。
巴家の繁栄のために必要な術具らしいが、それを持っていると不思議と心が落ち着くのだ。
懐から手のひらにおさまる程度の丸い手鏡を取り出した琴乃は、背面の美しい彫り細工を指先で撫でる。
琴乃の手には、綺麗なものがふたつ。
それを確認して手鏡を懐に戻し、箒を握り直した琴乃は、ようやくてっぺんに辿り着いた太陽を見上げ、噛み締めるようにほう、と息をついたのだった。
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