第10話

 私にはゆっくりと坂道を登るような変化でも、週に一度しかやって来ない彼にとっては飛躍的な進歩を、私は遂げていた。

 もちろん毎日のようにメールや電話をしていたし、香月先生から健吾先生へ、それからさらに彼へと、私の進捗状況は伝えられてはいたけど、やはり私と会って直接聞くのは違うらしい。

 彼の二回の訪問を挟んで、私は半日がかりの手術を受け、眼球型のカメラを装着していた。

 黒目の横には小さな端子があって、今後はここから調整をしていくらしい。

 ついに私は、コンピュータからの信号ではなく、自分の目を通して世界を見られるようになったのだ。

 私の眼球はカメラだし、イメージセンサーが網膜の代わりを務める。その意味では、コンピュータからの入力と変わりがないのかも知れない。でもそんな技術的なことは、私には関係なかった。

 どんなにぼやけたものであっても、たとえ白黒であっても、これは私自身の世界なのだ。

 私は世界を、白黒のマス目として見た。手術直後はまだマス目のひとつひとつが大きくて、とても物の形がわかるレベルではなかったけれど。

 それでも、私は彼の姿を見た。

 白と黒の間にある様々な階調で表された、五十個ほどのブロック。初めて見る、彼の姿。

 他の人と見分けなんてつかないけれど、間違いなく彼はそこにいる。

 両親はこの段階でようやく安心したらしく、母さんが涙声で何度も「よかったね、よかったね」というのが聞こえた。

 父さんは、「見えるか」といって、何度もベッドの横を行ったり来たりした。私がそれを顔と目で追うと、小さい頃みたいに頭を撫でて褒めてくれた。

 解像度を上げて、チェックをして、解像度を上げて、チェックをして。二、三日ごとにこれを繰り返す。

 解像度を上げたあとはとても疲れるけど、世界が着実に鮮明になっていくのが私の励みだった。

「あと何回かの調整で、ぐんと解像度を上げるわよ。視力でいうと、〇・一くらい」

 眼球型カメラを装着してから三週目の火曜日、香月先生は私に包帯を巻きながらいった。この作業を、香月先生自らがしてくれるのが、私は嬉しかった。

 この時点での私は、物の形がだいたいわかるようになっていた。一応白杖は持っているけど、車椅子で独り出歩くには不自由しない程度に。

「それから、色をつけます」

 これを聞いたときの驚きを、どう表現すればいいだろう。

 偉い科学者が、「神様を発見しました」と発表するのを聞いた感じ、とでもいえばいいだろうか。

 もちろん、私の視界に色がつくのは予定されていたことだったけど、目が見えるようになったのとはまた違う意味で、天地がひっくり返るような宣言に聞こえた。

 私がそれを受け止められるようになったのは、夜になって、彼に電話をする頃になってからだった。

「一週間したら、もっと見えるようになるんだって。具体的には視力〇・一くらいっていってた」

「それって、どれくらい?」

「本当の〇・一とは直接比較出来ないらしいけど、近くにいる人の顔がわかるくらいだって」

「それはすごい。とうとう、僕がどんな顔かばれちゃうね」

「それより、私の顔のこと心配しなさいよ。あなたがあれだけ美人だっていってたのが本当かどうか、わかっちゃうのよ」

「それは大丈夫。少なくとも、僕にとってはすごく美人だよ」

 笑いながらいうから、まったく信用が置けない。

「せいぜい期待しておくわ。それからね、もうひとつお知らせがあるの」

 私はじらすように、言葉を切った。

「なんだい?」

 息を大きく吸って、私は告げた。

「色が見えるようになるの」

 今度は、彼が言葉を途切れさせた。

 しばらく、二人とも沈黙。

「やったな」

 その短い言葉で、私には彼がどんなに喜んでくれているかわかった。

 だってそんなに真剣な声で、まるで囁くようにいうから。

「うん」

 それから私は泣いてしまって、洟をすする音を長々と彼に聞かせることになった。

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