第9話

 包帯を取ると、そこには世界が広がっていた。

 世界は私の目に飛び込んで来て、私は彼の腕の中に飛び込んで行った。

 などという虫のいい話はない。私の視力獲得への道のりは、もっとずっと地味だ。

 包帯を取っても、なにも見えない。それどころか、包帯を取るとすぐに、私は目の奥の方にある端子に様々なケーブルを接続された。

 この時点では、まだ私の眼窩にカメラは入っていない。眼窩の奥にある端子に直接接続されたケーブルが、コンピュータからの信号を私の脳に送っているのだ。

 たぶんこのときの私は、世界一ゴージャスな睫毛を持つ女だったと思う。誰も羨ましいとは思わないだろうけど。

 だけど、香月先生が「これ見える?」といってなにかのスイッチを入れたとき、私の世界は永遠に変わった。

 なんの特徴もない一面の灰色だったけど、私は初めて色を見た。

 彼が教えてくれた通りの、雨が降る前の湿った風の色だった。

「良好、良好」

 そういって香月先生はスイッチを切ってしまった。そうでなければ、私は何時間でもその灰色を眺めていただろう。

「順調にいけば、二週間ほどで眼球型のカメラを埋め込んで、そのあと解像度を上げていくわ。一週間くらいでものの形が判別出来るようになるでしょう。それから最後に、色をつけましょう」

「いまのは、色じゃないんですか?」

 私は狐につままれた気分だった。

「色といえば色なんだけど、いま見てもらったのは本物の灰色じゃなくて、明度の低い白なの。音でいえば、そうね、くぐもっていて誰のかわからない声って感じかしら」

 香月先生は私にもわかるような説明を心がけてくれる。でもあんなに喜んだ私は、ちょっと損した気分だ。

 そのことも、彼に伝えた。

 電話やメールではなく、日曜日に来てくれた彼に直接。

「いきなりだと、脳がびっくりするからじゃない?」

 彼は相変わらず、楽しそうにいう。

「テレビ放送だって、最初は白黒から始まって、そのあとカラーになっていったんだから」

「それはそうなんだけど、ちょっと拍子抜けしちゃった」

「いきなり見えるようになるわけじゃないって、説明されてたでしょ?」

「うん」

「予定通りなんだから、焦らないの」

「はあい、わかりました」

 私は彼が買ってきてくれたゴディバを頬ばって答えた。

「それに、君の場合は一足飛びに目が見えるようになったら、別の病気が再発しかねない」

「どういうこと?」

「重度のお転婆病」

「目が見えるようになったら、真っ先にあなたの顔に落書きしてやる」

 そうやって舌を出したところへ、健吾先生が入って来た。

「じゃあ、そろそろ帰るよ」

 健吾先生は、車を持っていないという彼を日曜日ごとにここまで送って来てくれる。

 気を利かせてすぐに香月先生のところに行ってしまうけど、それでもちょっと、やっぱり二人きりという気分にはなれない。

 でも健吾先生にも、香月先生に会うという口実が出来てよかったみたいだ。

 アメリカ人ならこういうとき、さりげないキスのひとつもするのだろうけど、日本人である私たちは当然そんなことはしない。

 それどころか、彼は病室に二人でいてもいまだに手すら握ってくれない。乙女心くらい、察してくれればいいのに。

 このまま手を握ってくれなかったら、目が見えるようになったら私から手を握ろう。

 落書きは、それからでいい。

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