第8話

 母さんに読んでもらった契約書に拇印を押すと、私の入院は大学病院へと引き継がれることになった。

 骨折で三週間の入院が終わったら、人工視覚の埋め込みで七週間の大学病院暮らし。もっとも、最初の一週間の検査にパスすればの話だけど。

 大学病院は大先生の病院からは少し距離があって、私と彼は毎日会うというわけにはいかなくなった。

 無理を承知で携帯電話とパソコンの使用をお願いしてみると、私のベッドがある個室内では使っていいという許可が出た。

 最近はこんな風に無線LANが使える病院があるのか。退院したら大先生の病院でも導入するように進言しよう。

「各階のコモンスペースとか、一階のロビーでも使えるわよ」

 私に視力をくれるという香月こうづき先生はそういった。とてもいい匂いのする、女の先生だった。

「部屋に機材を持ち込んでるときは、影響が出ちゃうかも知れないからオフにしておいてね」

 それだけではなく、病室に仕事を持ち込んでもいいという許可ももらった。これは助かる。

 この先生と健吾先生がただの友達なのだとしたら、健吾先生は本当にもったいないことをしている、と私は思った。

 転院初日の午後から、私の検査は始まった。

 CTやMRI——私がいうたびに、香月先生は「fMRIね」とやんわり訂正した。よほどのこだわりがあるらしい——という聞いたことのある検査から、PET、SPECT、NIRSという耳慣れない装置までが、私の頭の上を次々と通過していった。

「目から入った信号はね、左右で脳の別々のところへ伝わるの」

 香月先生から聞いた説明を、私は電話やメールで彼に伝える。

「右目で見たものは左脳に、左目で見たものは右脳に伝えられると思うでしょう。ところが違うの。右目の視野の右半分が左脳に、左半分が右脳に行くのよ。左目でも同じことが行われるの」

 私はまるで自分が発見したことででもあるかのように、彼に伝えた。

 その知識のうちいくつかは間違っていたかも知れないけど、私は気付かなかった。そして私が犯していた、それよりずっと大きな間違いにも、私は気付かずにいた。

「でね、目からの信号は外側膝状体っていうところで整理されて、頭の後ろにある視覚野に伝えられるの」

 彼は電話の向こうでも、「うん、うん」と楽しそうに聞いてくれる。

「だから、あなたたちは目ではなくて脳で、しかも目からいちばん遠いところでものを見てることになるわけ。そう思うと、なんだか不思議じゃない?」

 こんな話に、彼はいつでも私が欲しい相づちを打ってくれる。

「私の場合は、その外側膝状体から延びる視神経にケーブルを繋いで、目に埋め込んだカメラからの映像を見ちゃおうってことらしいの。いまはその検査の結果待ち」

 本当はそんなに簡単なものじゃないんだろうけど、私に理解出来るのはそのくらいだ。

「うん、きっと大丈夫だよ」

 彼が祈るようにいってくれたのが効いたのか、私は検査に合格した。

 香月先生によると、百点満点中で九十点というところらしい。

「私は医者だから、下手に楽観的なことはいっちゃいけないんだけど」と前置きして、香月先生はいった。

「あなたの外側膝状体はまったく正常で、視神経も眼窩のところまでちゃんと延びてるわ。だからカメラと接続して視覚を得られる可能性は、とても高いと思う」

 問題となるのは、私が新たに得た感覚にうまく対処することが出来るかどうかだ。

「突然空を飛べるようになるようなものですもの、衝撃は大きいわよ」

 でも私には、強い意志がある。

「大丈夫です」

 初めて馬の前に立ったときに比べればこんなのなんでもない、というのにはちょっと無理があったけど、とにかく私はそう思い込もうとした。

「私たちもがんばるわ。だから、一緒にがんばりましょう」

 香月先生は私の手を強く握りしめた。

「そういえば、電話のお相手は恋人さんかしら」

「はい」

 そう答えられる自分がとても嬉しかった。

 私には、両親や香月先生以外にも、一緒にがんばってくれる人がいる。

 手術は、三日後と決まった。

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