第5話

 次に松浦さんに会ったのは、二日後のことだ。さすがに、毎日私の相手ばかりはしていられないらしい。

 彼が取り戻してくれた車椅子で裏庭に行くと、ドアを出てすぐ横のベンチから、松浦さんが声をかけてきた。

「ひかりさん?」

 目が見えないのにひかりとは、両親もずいぶんと皮肉な名前をつけたものだ。でもいまは、とても気に入っている。

「松浦さん?なにしてるんですか?」

「休憩中」

 松浦さんの声のする方からは、コーヒーの匂いが漂っていた。

 馬は、人のアドレナリンの匂いを嗅ぎつけるという。

 馬を前にして怖がっている人の身体からは強いアドレナリンの匂いがして、それを察知した馬はその人を舐めてかかるのだそうだ。

 私が初めて馬に触れたときもそうだった。

 私が怖がっているのを見抜いた馬は、両親の差し出すニンジンは素直に食べ、私のニンジンははたき落としてから食べた。おまけに鼻先で私の頭を軽く小突いた。

 悔しかった私は、両親に頼んで翌日も牧場へ連れて行ってもらい、雄々しく馬の前に立っておまえなんか少しも怖くないんだと教えてやり、両親の目を盗んで騎乗して、だめだっていわれてるのに走らせて、勝手に落馬して気絶した。例の軽井沢での一件だ。

 馬ほどではないにしても、鼻のきく私はいろんなものを嗅ぎ分けることが出来る。

 コーヒーの匂いしかり、人の匂いしかり。

 だからきっと、松浦さんが声をかけて来なくても、私には彼がそこにいることがわかっただろう。

「そのうち君が来るだろうとも思ったしね」

 また笑うようにいう。

 私は自分の行動が読まれているようで、おもしろくない。

「あの木から落ちたこともあるんだって?」

 松浦さんが指差しているらしいのが、衣擦れの音でわかる。

「ええ、小さい頃ですけど」

 ある夏の日、私は健吾先生の検診を受けたあと、裏庭を探検中に木に登り、足を滑らせて落下した。

 したたかに頭を打った場所のすぐ横には大きな石があって、もうちょっとで私は帰らぬ人になるところだった。

 泣き叫んでいる私に、しかも出来たばかりのたんこぶの上に、大先生は思いきりげんこつを喰らわせた。

 そして、「おまえが登っていいのはこっちの木だ」といって、根本に固いものがなにもない木のところまで私の手を引っ張って行き、枝に風鈴を吊してくれた。

「いまやられたら困るよ」

 松浦さんの声は、完全に笑っている。

「君の戦歴を聞いたけど、お転婆もいいところだな」

「チャレンジャーといってください」

「無謀なチャレンジが多いよ」

 目が見えないと、とかくあれも危ない、これも危ないといわれがちだ。

 確かに目が見える人より危険は多いかも知れないけど、そんなこといってたらなにも出来ない。私の場合は、その度合いが少々強いというだけだ。

 それに、目が見えない人の感覚世界が貧しいわけじゃない。そういおうとしたとき、松浦さんがいった。

「普通の人が思ってるより、たくさんのものを知覚出来ているのは知ってるんだけどさ」

 そうなのだ。私たち視覚障害者は、たとえ私のような全盲の者であっても、非常に豊かな感覚を持っている。

 先ほどの匂いのこともそうだし、いまだって私は何人かが庭を歩いていることを知っている。そのうち一人は子供だ。

 それは声ではなく、落ち葉を踏む音の違いでわかる。音の軽さ、音のリズム、無意識にそれを知覚している。

 きっとそれは、目が見える人が辺りを見渡すのと変わらない。目で見れば、意識しなくてもそこになにがあるのかわかるんでしょう?

 彼がそういうことを知っていてくれるのは嬉しかった。

 ただ単にかわいそうと思われるのが、私は大嫌いだ。

 カウンセラーをやっていて、そんな風に思う人もいないのかも知れないけど。

「今日はよく晴れて、風にイチョウの葉が揺れてることもわかるんですよ」

「うん、それにね、庭の向こうには山並みも広がってるんだよ。冬になると、すっかり雪化粧するんだ」

 するとここは、私が思っていた通り空が広いのだろう。

「屋上に行くと、もっときれいに見えるらしいけどね」

 そういって彼はコーヒーをすすった。

「それにしても、景色よりなにより、君が色を見られないのが残念だな」

「色はちょっと、無理ですね」

 広い狭い、大きい小さい、速い遅い、そういった感覚を理解することは出来るけれど、私には色を理解することは出来ない。

 強いていえば、太陽に照らされる暑さが赤で、風に揺れる草の音が緑だ。だってみんな、真っ赤な太陽とか、緑の草原っていうでしょう。

「イチョウの葉はね、今の時期は黄色になるんだ。それが庭一面に敷き詰められてる」

 無理だっていってるのに。

「そういえば、君が滑って転んだバナナの皮も黄色だよ」

 また笑う。人の不幸を笑うとは、失礼な人だ。

「嫌な色ですね」

 私の中では、黄色はヌルッとして、強く打ち付けるイメージに固まりかけた。

「でもね、元気な色でもあるんだよ。ひまわりって知ってるかな。あの花は大きくて元気で、夏に咲くんだ」

 ひまわりは知ってる。でもひまわりは、ゴソゴソして、チクチクして、まあるくヒラヒラする花だ。でも確かに、元気で強そうでもある。

 ヌルッとして、ゴソゴソして、元気な色。黄色は不思議な色だ。

「それから君がいった通り、今日はよく晴れていて、空が青い」

「青って、私にはブザーで鳴らしたメロディーのイメージなんですけど」

「横断歩道の?」

「そうです」

「実にその、機能優先のイメージだね」

「だって、私が青と結びつけるものといったら、まず青信号の音ですもん」

「海とかはどうなの?」

「日本の海は青くないっていうじゃないですか」

 グアム旅行から帰ってきたときに、弥栄子がそういっていた。私自身は海外に行ったことがない。

「うわ、夢がないなあ。せっかく見えないんだから、きれいなところにいるって思っとこうよ」

「はあ」

 せっかく見えないという言い方もないもんだと思ったけど、まあよしとした。

 目が見えなくても、大目に見ることは出来る。

「海は、ヒンヤリして、ダブダブして、ザリザリします」

「そんなものが頭の上いっぱいに広がってるのは嫌だなあ」

「しょうがないじゃないですか、私の海はそうなんですから」

「海はだめか。じゃあ僕の青はね、そうだなあ、ハッカの味」

「ハッカですか」

「うん、ハッカのアメの味」

「ミントのキャンディーの味ではなくて、ハッカのアメの味なんですね?」

「あっ、ミント、ミント、ミントキャンディー」

 彼は慌てて言い直す。

「松浦さん、いくつなんですか?」

 いまどきハッカっていう人はめずらしい。

「君とあんまり変わらないって。だから話も合うだろうって、大先生が寄越したわけだし」

「本当ですか?声は若い感じですけど」

「本当だよ。僕はお婆ちゃん子だっただけ」

「わかりました。せっかく見えないんだから信じます」

「本当だよ、嘘じゃないって」

「なに焦ってるんですか。いいですよ、私よりちょっとだけ年上ってことにしといてあげます」

「しといてもらわなくても、本当にそうなんだから」

「あんまりこだわると、かえって怪しいですよ」

 私はちょっと彼をいじめて楽しんでいた。

 彼には悪いけど、丁度いいストレス解消だ。どうせ大先生に私のストレスを発散させてやれっていわれてるんだろうから、彼も文句はないはずだ。

 その日から、私の青空はハッカの味とお婆ちゃん子のイメージになった。

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