第2話
あなたも幽霊を見ることが出来る、といったら、あなたはどう思うだろう?
やり方は簡単だ。窓もなにもない、まっ白な壁だけの部屋を用意する。その中に入って耳栓をし、なにもせずにひたすら待つ。何日かすると、ないはずのものが見え、聞こえないはずの音が聞こえる。
感覚遮断という有名な実験だ。
これは人間の脳が常になんらかの入力を必要とするからで、入力がないと、脳は自分で入力を作り出してしまう。
なにがいいたいのかというと、入院生活が退屈すぎて私は我慢の限界に達していたということだ。
入院三週間の刑が宣告されるとすぐに、私は母さんに頼んで音楽プレーヤーを持って来てもらった。
本当はノートパソコンも持って来てもらいたかったけど、病院内ではネットに繋げないのであきらめた。
パソコンもそうだけど、音楽プレーヤーにも音声読み上げ機能があって、おかげで私は一人でも音楽が聴けるし、お気に入りのポッドキャストも聴ける。
こういった視覚障害者に配慮した機能や製品を試すのが、私の主な仕事でもある。ちなみに、ICタグを利用して必要な場所で音声案内が流れるというシステムは、私がアイデアを出したものだ。
ところが、問題が起きた。
まず音楽というのは意外と飽きる。いくら好きなアーティストの曲でも、一日中は聴いていられない。そしてポッドキャストは、更新ペースが遅い。
たいていのポッドキャストは更新されるのが週一回だ。いくつも登録してあれば次々に更新されるのだろうけど、私は五つしか購読登録をしていない。一本十五分として、一週間に一時間十五分。いくらなんでもこれは少なすぎる。
しかも母さんに頼んで家で更新してもらってるから、新しいポッドキャストがすぐに聴けるというわけでもない。
最後に頼れるのはラジオだ。暇つぶしには、音楽よりもお話が多いAM放送がメインになるけど、昼間は若者向けの番組があまりない。
「裏山に積もった落ち葉の陰から、ひょっこりキノコが顔を出していました」とか、「主人と二人で行った旅行先で、温泉に浸かっていたらお猿さんが出てきてビックリ」なんていう話題を満喫するには、私はまだまだ修行が足りない。
そこで私は、院内探検に出ることにした。
車椅子に座って杖を操るのには、すぐに慣れた。
だから昼間はそれで行く。だけどどうしてもいろんなところに引っかかって、騒々しい音を立ててしまう。だから夜間は松葉杖を使うことにした。
大先生は、「そんなものいらんだろう」とにべもなかったけど、夜中にトイレに行くのにガタガタ音を立てて同室の患者さんに迷惑をかけるわけにはいかないとかなんとかいって、ようやく貸してもらえた。
松葉杖に白杖にと、夜中の私は杖だらけだ。ところが、不器用に院内を何周かすると、白杖は不要なことに気付いた。松葉杖だけでなんとかなる。
院内にはちゃんと点字ブロックや点字の案内板も設置されてるから、白杖ほど繊細に感覚が伝わらなくても、歩きまわることは出来る。
そう思ったのが悪かった。
私は普段、白杖を右手で持つ。右手でなら、とても繊細に杖を操り、情報を得られる。
ところがこのとき、私は右足をかばうために、右手の松葉杖に体重を預けていた。必然的に、白杖の代わりを左手の松葉杖ですることになる。
どこにどう当てたのか、私はナースルーム前に置いてあったストレッチャーのロックを解除してしまった。
ロックを解除されたストレッチャーというのは、素晴らしく軽やかに動く。日本の精密加工技術、恐るべし。
廊下をまっすぐに滑っていったストレッチャーは壁に激突し、夜中の病院にそれはそれは盛大な金属音が響き渡った。
「おまえはもう、部屋からの外出禁止だ」
大先生は鼻を鳴らした。
「そんなあ、不幸な事故じゃないですか」
「不幸を手招きしておいてなにをいうか」
私の主張は、まったく用をなさない。
「トイレはどうするんですか、トイレは」
「看護婦にとってもらえ」
大先生はいまでも、看護師ではなく看護婦と呼ぶ。もちろん、男の人は看護師と呼ぶけど。
「嫌です!」
そんなこといってはいけないのはわかっているけど、あれは恥ずかしい。まったく動けなかった最初の一日、私は出すに出せず、こんなことが続くならいっそのことおむつにしてもらおうかと思ったほどだ。
「じゃあ、おとなしくしてろ。夜中に出歩くな。監視つけるからな」
とんでもない病院だ、などと思ってはいけない。これは、小さいときからお世話になっている私と大先生だから出来る会話だ。大先生も、他の患者さんにはこんなことはいわない。
私は特別扱いだ、いろんな意味で。
そして入院六日目、本当に監視がやって来た。
彼の名前は、松浦さんという。
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