Blind

@wadadawa

第1話

 私が彼と出会ったのは、私がバナナの皮で滑って転んで足を折ったことがきっかけだ。

 そんなことがあるわけがない、バナナの皮で滑って転ぶなんていうのはコントの世界だけのものだと思うなら、ぜひ自分で試してみて欲しい。

 バナナの皮にはたくさんの脂分が含まれていて、雨でふやけていたりした日にはおそろしい凶器になる。

 特に、視覚障害を持つ人間が相手となれば。

 私は生まれつき全盲だ。

 そういうとほとんどの人は、「まあ、かわいそうに」なんていう目で見る。実際に見ているかどうかは私にはわからないけど、そういう雰囲気がありありと伝わって来る。

 目が見えないのは不便だと思う。でも不便なのと不幸なのとは違う。もともと持ってないものを、それがないから不幸だなんて、私は思わない。

 みんなだって翼があれば便利だと思うだろうけど、そんなものない状態が普通なんだから、不幸だなんて感じないはずだ。

 これをいうと、私と同じような全盲の人からは激しい反発を受ける。

「社会は視覚障害者に対して冷たい、不親切だ」という。それは私も同感だけど、社会は誰に対しても不親切なものだ。

 だから不平をいうだけの人を、私は尊敬しない。私が尊敬するのは、不平をいうことでなにかを変えていこうとしている人。不平の向こうに、ちゃんとゴールを見出している人だ。そんなことここでいっても仕方ないけど。

 私も単なる不平や不満はいわないようにしている、つもりだ。

 でも本当は、反抗期の絶頂を迎えていた中学生のとき、親に向かってひどい文句をいってしまったことがある。

「こんな身体に生みやがって」

 決していってはいけない言葉だった。

 父さんは初めて私を殴った。しかもグーで。

 母さんはなにもいわなかったけど、その夜、一晩中声を殺して泣いていた。

 目が見えない分、私はとても耳が良い。

 鼻も、指先の感覚も鋭い。

 そんなことにすら気付かず、自分勝手に投げつけた、不当な言葉だった。

 それ以来、私は不平はいわない。

 バナナの皮にだって、文句をいっても始まらない。だから悪態はついたけど、見知らぬ誰かを恨んだりはしなかった。

 だけど、痛い。痛いのと恨まないのとは別問題だ。

 私は幸運なことに、この日まで骨折とは無縁で来た。

 箪笥の角に足の小指をぶつけるなんてことはしょっちゅうあったけど、骨を折ったことはなかった。

 骨を折ったことのある人はわかると思うけど、文字通り、息が詰まる。「ひっ」と息を吸い込んだまま、吐き出すこともままならない。食いしばった歯の隙間から、ゆっくりと空気が漏れていく。

 骨を折ったことのない人は、弁慶の泣き所、すなわちすねを強打したところを思い出して欲しい。これなら誰にでも経験があると思う。痛かったでしょう?

 私が折ったのはそこだ。想像した?痛いでしょう?

 お見舞いに来てくれた同僚の弥栄子は特に痛いのに弱くて、こうやって話をしたら人のベッドの上で悶えていた。

 あの雨の日、仕事帰りにいつものカフェに寄ったら、誰が捨てたのかそこにバナナの皮があった。

 私は杖——白杖とかケーンというものだ——をスライドとタッチの両テクニックを織り交ぜて使う。

 スライドというのは、白杖を地面に触れさせたまま左右に振って、手の感覚で地面を探る方法だ。もう一方のタッチは、地面をとんとんと叩きながら歩く。こちらは音で、地面を探る。

 なにをどうやったのか、あのバナナの皮は私の杖捌きをかいくぐって、踏まれることに成功した。

 バランスを崩したところに、おそらくバナナと手を組んでいた敷石の脱落があった。傘を持っていた私はとっさに受け身をとることが出来ず、右足におかしな角度で体重を乗せてしまい、あっけなく骨折した。

 頭蓋骨陥没骨折とか、持っていた傘で腹部を貫通とか、車道に倒れ込んで車に轢かれたとかじゃなくてよかったと、おそろしい言葉を並べ立てて友達はなぐさめてくれて、私もそう思ったけど、これはまた弥栄子に甚大なダメージを与えた。

 それでも、私の足が痛いことに変わりはなかったし、入院中というのは暇で仕方がない。私は一刻も早く退院したかったけれど、大先生だいせんせいが許してくれなかった。

 大先生というのはこの病院の医院長で、私は小さい頃からたびたびお世話になっている。本当の名前は原野稲吉はらのとうきちというんだけど、息子の健吾先生も医者をやっているから大先生と呼ばれるようになった。小なりとはいえ、入院も出来る病院の医院長先生だ。

 私が何度、「バナナで滑った」と説明しても、大先生は信じてくれない。

「おまえは前科があり過ぎる」と大先生はいった。

 ブランコから飛び降りて顔面擦過傷、鉄棒から落下して打撲および左手首捻挫、両親に連れて行ってもらった軽井沢で勝手に乗馬して落馬して気絶。

 その他様々な華々しい経歴のおかげで、私はなかなか信じてもらえない。

 したがって入院三週間の刑に処すということだった。

 本当は十日間ほどの入院で済むらしいけど、私は釈放すると安静にしないだろうと。さすがは大先生としかいいようがない。

 量刑に不服なら、私が骨折した場所にあるカフェを告訴するといって私を脅す。

 全盲の私が通るのを知っていながら危険物(バナナのことだ)を放置したという、言い掛かりも甚だしい内容だけど、そんなことされたら二度とあの店に行けなくなるのでおとなしくしたがうことにした。

 それでも、三週間は長い。

 入院四日目にして、私は完全に飽きてしまった。

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