親子の食卓
彼方さんの言葉に、桃矢様は本当に珍しく「彼方?」と機嫌の悪い声を上げた。最近でこそ、この人の大人げなさを理解できるようになったと思っていたのに、ここまであからさまに機嫌の悪い声は本当に聞かない。
当主様について、本当に桃矢様は思うところがあるんだろうと思い知る。
しかし彼方さんは慣れている様子で流してしまった。
このふたりの間には、普通に兄弟としての関係が築けている上、彼の不機嫌に当たり散らされているのに慣れてしまったせいだろう。それがいいことか悪いことかはさておいて。
「いえ。別に俺も思い付きで言っている訳じゃありませんよ。俺と母、桃矢様で一緒に住ませていたのは、旦那様では一家団欒を与えられないからでは? 桃矢様を見ていてどうしても奥様のことを思い出してしまうんだったら遠ざけるにしても、この人はこの人なりに思うところがあったのでは」
「……自分は」
「そうですね。たしかに旦那様が桃矢様にしたことは、許されることではありませんし、桃矢様が許す必要もないと思います」
そこは直さんもきっぱりと言った。
「愛しているからなにをしてもいいなんてこと、ありませんから」
その辺りは、私だけでは到底理解ができない話だった。
私がわざわざ聞きに行かなかったら、この家の捻じれていた関係を知ることなんてできなかった。
我が家は貧乏で、兄が家出して数年単位で顔も見ていない以外、悪いことなんてなかった。家族仲は貧乏でもずっと良好だったのだ。
でも。当主様は桃矢様や彼方さんにも気を遣っていたことだけは理解できた。
私は直さんに尋ねた。
「あのう……もし当主様と食事をする場合って、なにかしたほうがよろしいでしょうか?」
「そうですねえ……台所を見ればわかるかと思いますが、あの方基本的に和食よりも洋食のほうが好みです」
風水師としてあちこち行っているし、離れは完全に和風なのに、本邸は一転して洋風だし、普通に最新機器も入れて台所を使う人たちが快適に台所を回せるように工夫している。
ただ気の流れを読んで鎮めるだけじゃなく、世間一般の流行や情勢も読んでいる人なんだろうと推察できる。
「カレーライスとかは……」
「うーん、そうですねえ。カレーライスは匂いの関係であまり好まれないかもしれませんね」
「……匂いですか?」
「カレーライスに使うのは、漢方薬にも使われる香辛料なんですけれど、匂いが残りやすいんです。桃矢様ほど肌で気の流れを読み取れるほどの才覚がない限りは、五感のひとつが言うことを聞かなくなるカレーライスはやめておいたほうが無難です」
「なるほど……」
私は日頃から鎮目邸の庭から気の淀みを鎮めている桃矢様を見ているけれど、当主様は常に現場に出かけているから、現場に行くことなく気の淀みに対処ができる桃矢様のほうが異端なのだろう。
でも他に洋食として出されるもの。
私が首を傾げていると、直さんは「そうですねえ」と首を傾げた。
「元々が、たしか亡くなられた奥様が洋食が好きだったのもあり、まだ当主の座を就いてない頃に一緒に食べに出かけていましたから、そういう洋食ですね」
「カレーライス以外の洋食ですか……」
洋食屋さんの料理というのは、さすがに私もよくわからない。それにそもそも食べに行くにしても、桃矢様があまり食事が入らないし、彼方さんをこれ以上巻き込むのもなと思っていたが。
桃矢様はふいに「いろりさん」と尋ねてきた。
「はい、桃矢様」
「……父と本気で話ができるとお思いですか? あの方は頑なで、なかなか話が通りません。自分とのことに、二十数年ずっと逃げ続けた人ですよ」
普段あまり聞かない固い口調に、とうとう私は笑いを堪えることができずに、クスクスと笑ってしまった。それに桃矢様はむくれた。
既に話を聞く体勢になってしまっている彼方さんは、女中さんから届いたカレーライスのおかわりをおいしそうにいただいていた。
「いえ……当主様と少しだけお話ししましたけれど、やっぱり桃矢様のお父様だと思い至っただけです」
「……そりゃ、親子ではありますが」
「ふたりとも不器用です。不器用なまま、二十数年も時を刻んでしまったんだったら、それをすぐ歩み寄るのは難しいかもしれませんが。一緒に住んでいるんだから、近所に住む隣人くらいの距離感にはなれないかと思いました……私は残念ながら親子仲悪くなかったので、本当に余計なおせっかいだとは思いますが。ふたりの仲がある程度納まらなかったら、次の揉め事が来るかと思いますので、余計なおせっかいとは思いますがそれだけは許してくださいね」
そう言って桃矢様に頭を下げた。
直さんは私の言葉ににっこりと笑った。
「桃矢様、いいお嫁さんが来てくれたじゃありませんか」
「……自分にはもったいない妻ですよ。自分に足りないものばかり与えてくれますから」
「それ、ちゃんとお嫁さんにもおっしゃってくださいな」
直さんにお土産として、小瓶をもらった。中身を見たら崩れた果実が入っているように思える。
「これは?」
「ジャムですよ。うちの畑で育ててた木の実でつくりました。パンに付けて食べるんです。おいしいんですよ」
「……ありがとうございます」
直さんに何度も何度もお礼を言ってから、やっと帰ることになった。
彼方さんの車に乗ることしばし。
久々に遠出をしたせいなのか、車の振動が心地よかったのか、桃矢様は私の肩にもたれると、そのまんまぐっすりと眠りこけてしまった。
「桃矢様、お疲れ様です」
桃矢様の重みを感じながら、私はそのままにしておく。
それに彼方さんは苦笑していた。
「疲れたんでしょうね。母はいつもあれだけ元気で明るいですから。多分幼少期の桃矢様はその明るさに救われたんでしょうが……あの人と付き合っているとかなり体力持って行かれますからね」
「素敵な方でした」
「ははは、今度連絡入れる時、母に伝えておきますよ。きっと喜びます」
牧歌的だった風景も、少しずつ都会に戻っていく。だんだんひらけていた視界にも建物が少しずつ入って行って、とうとう住宅街へと入っていく。
その景色を眺めながら、私は彼方さんに尋ねた。
「彼方さんは旦那様についてどう思われますか? 桃矢様からはお伺いしましたが」
私は私の肩にもたれて眠っている桃矢様を撫でながら尋ねる。呼吸が薄いから、苦しくないかと確認しないと心配になる。
私の言葉に、彼方さんは「難しいですね」と答えた。
「母の家でも言いましたけど、旦那様は旦那様で、実の親だという実感が沸きません。小さい頃は桃矢様に八つ当たりされても庇わないし、なんて奴だと思って一度だけ家出したことがありますが。あの人普通に捜しに来たんですよ。普段は放置していたのに、こういうときだけ親面かと腹立った記憶があります」
「それは……」
「ただ、あのとき一回限りでしたね。『誰に心配かけてると思っているんだ!?』と声を荒げて怒られたのは。母が女中を辞めてあの家で暮らすようになってから、俺はすぐに庭師に預けられましたから、やっぱり旦那様を親だという自覚はやっぱりありませんが。今思うと俺が庭師の稽古を積んだり、はしごに登ったりするとき、視線を感じたら旦那様がいたんですよね。あの人はあの人なりに思うところがあったんだと思います」
やっぱり。
情が全くない訳でもないし、血筋のためって言い訳がないと深く関わることができないだけな気がする。
ここの家、とことん不器用なんだ。しかも大きな一族だから、上下関係が一度できてしまうとそこを覆すのはほぼ無理だ。そのせいで、歪な関係を歪なまんま、ずるずると引き摺ってしまったんだろう。
私ができることなんて、高が知れているけれど。その高が知れていることをしないとどうにもならないような気がする。
残念ながら私には、当主様の悲しみに寄り添うことができない。少なくとも直さんは理解していても放っておいているようだった。実の息子である桃矢様や彼方さんでも触れることができなかったことで、私が余計なことをしたら怒られるような気もするけれど。
このまま放っておくこともできない。
****
当主様は朝早くに食事を済ませ、夜の遅くまで帰ってこない。
離れを中心に生活していると、当然ながらほとんどかかわることもなく、だからこそその間にこっそりと奉公人の方々に声をかけて聞いていた。
「……旦那様と亡くなられた奥様が逢引に出かけた場所……ですか?」
私がこっそりと声をかけたのは、執事見習いの方だった。執事さんは基本的に当主様の秘書も兼ねているため、その人に問い合わせたら全部当主様に情報が流れてしまうおそれもあったから、女中さんたちに問い合わせて、できる限り当主様や執事さんから離れた人々から、話を聞いていた。
そうは言っても、幼少期からずっと働いている女中さんたちより情報を持っている方々にはなかなか出会うことができず、とうとう当主様に一番近い執事さんの管轄の方にまで話を向ける羽目になってしまった。
「自分がここでお世話になった頃には、既に奥様は亡くなられていましたので詳しくは語れませんが」
「ああ、申し訳ございません」
「ただ、よく洋食屋に出かけていたとは聞き及んでおります。鎮目邸の台所にも逢引で召し上がっておいしかったものは、献立として採用されていると」
「特に、どれがおいしかったとかはご存じですか?」
「旦那様が好んでいただいていますし、一番台所のほうに入る注文で多い物ならございますが」
「本当ですか!?」
私がガバリと執事見習いに声をかけると、執事見習いは少し腰が引けていた。
「は、はい……」
「教えてください、どの献立になりますか!?」
「ビーフシチューでございますよ」
いきなり声をかけられ、私は肩を跳ねさせる。執事見習いは顔から色を失った。
「……執事長」
当主様の秘書も仰せつかっている、鎮目邸で一番古い執事さんだった。
「坊ちゃまの奥様、お話がございますがよろしいですか?」
「は、はい……」
真っ白な髪に丸眼鏡の凜々しい執事さんに、私は観念して頷いた。
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