ただ穏やかに食卓を囲む
執事さんに連れられてきたのは、書斎だった。
この邸宅は武家屋敷な割に洋風趣味なのは風水的に大丈夫なんだろうかと思ったものの、当主様はその中で狩衣に烏帽子でもなお違和感なく溶け込んでいるから多分大丈夫なんだろうと思っておくことにする。
「あのう。話ってなんでしょうか?」
「最近、どうも旦那様のことを調べて回っているようで」
「……申し訳ございません」
「いいえ。坊ちゃまや彼方さんのことを思うと、旦那様に対して思うところがあっても仕方がないかと思います」
「亡くなられた奥様のことがきっかけで遠ざけられたんじゃないかとは伺いましたが」
「ええ、そうですね。坊ちゃまは奥様によく似てらっしゃいます。年々似てくるのは、坊ちゃまが母親似だからでしょうね」
「なるほど……」
たしかに桃矢様と当主さんは全く似ていない。初めて出会ったとき、当主様は驚くほど神々しく感じたし、それに対して桃矢様からはふわっとした温かさを感じた。まとっている空気が違うんだ。今でこそ、ふたりはそれだけじゃないとは存じてはいるものの。
執事さんは続けた。
「それでどうなさるおつもりですか?」
「……すみません。ひとつだけお伺いしてよろしいでしょうか?」
「なんでしょうか」
「当主様は、奥様が亡くなる前は、食事はどうされていたんでしょうか?」
「どうされていたとは?」
「一緒に召し上がっていましたか?」
ここははっきりとさせておきたかった。もし私の余計なお世話が、本当にお世話だった場合、桃矢様や当主様の間にこれ以上ない溝が生まれるかもしれないから、それだけは避けておきたかった。
それに対して執事さんはやんわりと答える。
「そうですね、亡くなられた奥様と一緒に食事を摂られていましたよ。逢引もなさっておりました」
「よかった……」
「ただ、奥様が亡くなられてからは、いつもひとりで食事をなさっています。ただ坊ちゃまの食事風景は、幼い頃はよく見守っておられましたよ」
「……そうだったんですか?」
「ええ。直さんはそのことをご存じだったでしょうが、おそらくは幼かった坊ちゃまや彼方さんは覚えてないかと」
この間見送ってくれた直さんのことが頭に浮かんだ。本当に不器用だな、ここの親子は。私はそう思いながら、言葉を重ねた。
「今食事を一緒に摂ることは可能でしょうか? 桃矢様も人よりは食が細いですが、前よりは召し上がるようになりましたので、旦那様には気を煩わせないかと」
「そうですね……」
執事さんは考え込むように頬に手を当てると、するりと手を戻した。
「可能かと思いますよ」
「え、じゃあ……!」
「ただ、旦那様の予定がそれを許してくださるかどうか。特に梅雨から盆にかけては気の流れが滞る場所が多く、風水師の派遣が急務です。なかなかままならないかと思いますよ」
それには私も「あーうー」と答えた。
日本にはお盆がある。お盆になったらあの世からご先祖様が帰ってくる日とされているんだから、そりゃ気の乱れだって起こりうるだろう。おまけにその時期になったら長期休暇に入る子たちだっている。
気の淀みが大きくなったら駄目だから、風水師が暇になるまで待たないといけなくなる……でもそれって季節をひとつ跨がないと駄目では。
「……さすがにそこまで待つのはちょっと」
「かしこまりました。旦那様の予定を調整しますので、しばしお待ちくださいませ。あとひとつ」
執事さんは私を離れの近くまで送ってくれながら言った。
「旦那様が洋食で一番好きなのは、ビーフシチューですよ」
「……ああ!」
私が鎮目邸に来たばかりのことを思い出した。
あの頃はしょっちゅう倒れる桃矢様にかかりっきりでそれどころじゃなかったけれど、あの頃に食べたものが、既に当主様の好きな食べ物だったのか。
私は何度も何度も執事さんに「ありがとうございます、ありがとうございます」とお礼を言ってから、離れへと戻ることにした。
でもビーフシチューをつくるとなったら、瓦斯がないと難しい。あれだけ肉が箸でほぐれるくらいに煮込むとなったら、どうしてもかまどの薪じゃ火力が足りない。
「この辺りは、桃矢様とも相談しないとなあ……」
あと女中さんたちに、ビーフシチューのつくりかたを習おう。
ビーフシチューに合わせる食べ物も含めて。
私はその決意を新たにするのだった。
****
それからというもの、雨の日の桃矢様のお体を労りつつも、ビーフシチューの作り方を女中さんたちに習いに行くようになったものの。
「ですが夏場ですと、ビーフシチューはあまりおいしくないかもしれません」
「……ですよねえ」
どれだけ当主様がビーフシチューが好きだとおっしゃっていても、季節に合わないんじゃという問題に直面していた。
日本の夏はとにかく暑い上にじめじめしている。ビーフシチューは体が冷え切っているときにはあの肉の美味さととろりとしたソースが癖になるけれど、夏場に食べるとどうにもこってりとし過ぎるような気がする。
でも、夏にも肉を食べる文化はある。
「……夏にどうにかしてビーフシチューをおいしく食べる方法ってないでしょうか?」
「そうですねえ……元々ビーフシチューはソースの上に別枠で火にかけた野菜を添えるのが一般的です」
「……下のソースは、かなり野菜も肉も入れてますよね?」
「はい、デミグラスソースですね。それは全て濾してしまうので、具材としては出しません」
前々から思っていたけれど、洋食はときどき信じられないくらいに贅沢な作り方をしている。私は「うーん……」と腕を組んだ。
「でも夏場でも野菜はおいしいですし、魚や肉だって焼いて食べますし、味がしつこくありませんよね?」
「それはおそらく、脂がしつこくないからだと思いますよ」
「脂ですか……」
「はい。肉を出汁として煮出す際に、肉の脂がソースに溶け出しますから。もちろんそれが旨味でもあるんですけれど。対して炭火で野菜や魚、肉を焼いた場合、脂が溶けて炭に落ちるんですよ。だからしつこい味がしません」
「まあ、たしかにそうですよね」
炭火を使って魚を焼くと、ときどきジュッと音がする。見てみると魚からポタポタ脂が落ちているのだ。
つまりは。
「……乗せる具を炭火で焼いて、ソースを工夫したら夏場でもおいしいビーフシチューはできるのでは」
「野菜は夏野菜を使えば、そこまでしつこくならないかと思います。やってみましょうか」
「お願いします!」
こうして私は毎日毎日夏場でも食べられるビーフシチューについて考えるようになった。
さすがにあまりにも材料を使い過ぎるのもどうだろうと、奉公人さんにも賄いとして出してもらい、元々一緒に食べて欲しい桃矢様にも持って帰って試食してもらう。
最初は湿気た季節にビーフシチューは入らず、匂いを嗅いだだけで首を振ってしまった桃矢様も、調理を重ねるごとに少しずつ食べてくれるようになった。
その日は、初めて桃矢様が私の持ってきたビーフシチューを完食してくれたのに、私は驚いた。
「桃矢様……さすがにもう飽きたと思ってましたけど……」
「たしかにずっと同じ匂いだし、なにがどう違うのかと最初は思ってましたけど、不思議ですね。今回のはそこまで胃もたれしませんでした」
「それはよかったです」
普段だったらビーフシチューをつくる際、ソースをつくって、それに別枠で火を通した野菜を乗せ、ソースのほうの具材は濾した上で捨てるけれど。最初にそれをやるとどうしても出汁に肉の脂が入ってしまうから辞めた。
最初から具にする肉を煮るとき、できるだけすっきりと食べられるよう、肉を一旦表面を焼き付けたあと、一旦肉を器に取り除いて、肉を焼いた浅鍋に葡萄酒も加える。
「葡萄酒って全部紫色だと思ってたんですけど……」
「それは赤ワインと言いますね。皮と一緒に発酵させると赤い色が付くんですよ。こちらは白ワインと言いますね。皮を全部剥いて実だけを発酵させると、透明な色になるんです」
「へえ……」
そういえば清酒も発酵が進むと透明なお酒が琥珀色になるという。葡萄酒も発酵の仕方を変えたら色が変わるんだろう。
「白ワインは肉の臭みを取り除き、夏でも食べやすい香りと酸味を料理に与えますから、夏でも食べやすくなるかと思いますよ。この先程肉を焼いた浅鍋の旨味を全部ワインに移してから、他の具材も煮ていきます」
「なるほど……わかりました」
葡萄酒をしばらく火にかけて酒気を飛ばしてから、肉ににんじん、玉ねぎを加え、赤茄子の絞り汁を加えて、更にそこで塩や香辛料を加え、柔らかくなるまで煮込む。
いつものビーフシチューに比べるとかなり赤い。赤茄子のせいだろう。でもしばらく煮込んでからひと口味見をすると、たしかにいつもよりも具材がたくさん入っている訳でもないのに、すっきりとした味わいになっている。
「おいしいです」
「これならば、夏場でも旦那様も召し上がれますし、坊ちゃまにも問題ないかと思いますが」
「ありがとうございます。これを桃矢様にも召し上がっていただきますね」
私はうきうきとしながら、それをお皿に盛り付け、自分の分にサラダとご飯もいただいて、カートに載せて離れに運んでいる中。
「坊ちゃまの奥様」
廊下で執事さんに声をかけられ、私は驚いて振り返った。
夏場でも暑さを感じさせない、服装ひとつ崩れていない。暑さでずっとたすき掛けして腕を捲り上げている私とは大違いだ。
「執事さん……こんばんは。どうなさいましたか?」
「旦那様ですが、予定がようやっと落ち着きそうです」
「そうなんですか……このところずっと忙しそうになさっていましたが、当主様のお体はいかがですか?」
「ありがとうございます……いえ、多忙に継ぐ多忙で、各方面に根回しし、やっと一日休みをいただくことができました」
「それなら……そのときにご招待してもよろしいですか?」
「はい……ああ、こちらがつくられたビーフシチューですか?」
「あ。はい。夏場なため、どうしても洋食店に出すようなこってりとしたものがつくれず、暑くても食べられるような味になってしまったんですが……」
「いいえ。旦那様も少々お疲れですから、優しい味のものを好まれるかと思います。どうか。坊ちゃまと旦那様をよろしくお願いします」
執事さんにそう頭を下げられ、私は慌てた。
「私は大したことはできません……ただ、食事を囲めばなんとかなるんじゃないかと安易な考えなだけです」
貧乏でも、ただ食事をしていたら幸せだった。幸せが単純過ぎるのだ。
だからきっと、それを大きいことに取られてしまう。私はただ、自分の幸せを人にも分けているだけなのだから。
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