父の面影
彼方さんが車を走らせてくれた道は、私が嫁入り前に暮らしていた長屋のあるごちゃごちゃとした道とも、日頃暮らしている鎮目邸周りの邸宅とも違う、牧歌的な風景が続いていた。
「彼方さんのお母様、ずいぶんと綺麗な場所で暮らしていますね?」
まだ田植えが終わったばかりの田園が続いているのを眺めながらそう伝えると、彼方さんは苦笑していた。
「元々母は、農家の三番目の娘で、奉公先を探していたところで伝手で鎮目邸で働いていたんですよ」
「でしたら今はご実家には」
「元が農家だったというだけで、今は実家とは離れていますね。旦那様も母の気性を考えた末に、この辺りに家を借り入れてくださって。ほら、あそこです」
そこは先程から見える農家の田園風景からは切り離されたような家だった。
殺風景ではないけれど、大きくもなく小さくもない。強いて言うならひとり暮らしだと掃除しにくそうだなという家だった。家の付近には畑があるけれど、体を崩されたと言っていたのに世話はできるんだろうか。
私は畑に視線を落としたものの、畑は普通にのびのびと成長しているので、私の杞憂らしい。彼方さんは車を降り、私と桃矢様を降ろすと、玄関に声をかけた。
「母さん! 桃矢様と奥様連れて参りましたー!」
彼方さんの大きな声に、裏口から「はあい」と声が聞こえた。裏口から湯気が出ているということは、食事の準備をしている最中だろうか。
私は申し訳ないと思っていたら、裏口からトタトタと小走りする足音が響いてきた。綿の着物に前掛けを付けた、ちゃきちゃきとした壮年の女性がやってきたのだ。
「あら、お久し振りです。桃矢様。ずいぶんと立派になりまして」
お母様はにこやかに笑うのに、桃矢様は頬を赤らめた。
「いえ。自分は幼少期、癇癪ばかりでさぞやあなたに迷惑をかけたでしょうに」
「いいえ、ちっとも! 彼方が全然かけてくれなかったので、逆に張り合いになりましたわ。それでこちらが……」
「はじめまして。先日鎮目邸に嫁ぎました、いろりと申します」
「あら、あなたがいろり様ね!」
「あのう、こちらお土産です。カレーライスに合うと伺いました漬物です」
「あらあらあら? まあ、ちょうどいいですわ! 最近、桃矢様は三食食事を摂れるようになったと伺いましたけど、カレーライスはいかがですか!?」
「えっ?」
それに桃矢様はとまどった。
たしかに三食食べられるようになったとはいえど、量はそこまで食べていない。でも育ててくださった方の言葉だったら断り切れるのかな。私が見守っていたら、桃矢様は「ええっと……」と頬を引っ掻いた。桃矢様は身内にしか、幼かった頃の片鱗を見せてはくれない。
「たしかに三食食べられるようになりましたが……まだそこまでたくさんは食べられません。ただ、
「まあ! わかりました。それじゃあいただきました漬物も用意しますね!」
そう言いながら嬉々として福神漬けを持って、裏口から家へ帰っていった。彼方さんのお母様の直さんは、ずいぶんと元気な人だった。たしかにあれだけ元気な人ならば、癇癪持ちの子もものともしないだろう。
「お元気ですねえ」
「桃矢様がお嫁さんを連れて会いに来てくれたって、連絡したらひどく喜んでましたからね」
「しかし家のことはひとりで? ここはおひとりで全てするには大変そうですが」
「旦那様によって、女中がふたりほど派遣されているはずなんですよ。母もはりきり過ぎてはりきったあとに三日くらい寝込むとかさんざんやらかしていますから、旦那様が『知らないところで倒れてたら後味が悪い』と送ってくださったんですよ。この辺りは本当に旦那様に感謝しています」
「なるほど……」
たしかに中に入ると、私たちに「ようこそ」と部屋履きを用意してくれた女中さんがひとり、もうひとりは台所で直さんと一緒に食事の準備をしていた。
カレーライスはレストランなどでは食べられるようになったものの、まだまだ家庭料理にするには難しいはずなのに、いったいどうやってつくったんだろう。
女中さんに通されたのは、長机に椅子が何個も並んでいる場所だった。ひとりで食べるには広々としている気がする。
「広いですね」
「奥様、私たちにも食事は一緒にと言ってここで摂らせますから」
「奥様は元々が女中だったから、私たちにもよくしてくださって」
鎮目邸から派遣されている女中さんたちも、ここでの暮らしは概ね満足しているみたいだから、奉公人と一緒に食事を摂るのがいい具合に反映されているところもあるんだろう。
やがて「お待たせしました」と直さんはお皿にたっぷりのカレーライスを福神漬けを添えて持ってきてくれた。
「桃矢様、食事はこれくらいでよろしかったですか?」
「……すごいですね。はい。これくらいならばなんとか食べられます」
「よかったです」
桃矢様が感嘆するのも無理はない。桃矢様に盛られた量は多過ぎず少な過ぎずのちょうどいい量だったのだ。これが桃矢様と全く付き合いのない女中さんならばもうちょっと多く盛るだろうし、逆に桃矢様のことを知り過ぎている方ならばもうちょっと量を減らしていただろう。
香辛料の匂いに加えて、どこかまろやかな匂いがする。
「いただきます」
そう手を合わせてから食べてみると、驚くほどおいしかった。具材の煮とけ具合といい、ご飯の硬さといい、そして福神漬けを添えたことで、その食感が合わさっていつまでも食べていられる。
おいしいおいしいと夢中になって食べている中、直さんはにこにこと笑っていた。
「それで、私にわざわざ用があると聞いて驚いてましたが、要件は?」
「……食べながらでいいでしょうか?」
「かまいません。むしろ鎮目邸から離れて時間の経った私でお手伝いできることであればよろしいんですが」
……この人は、ただ元気なだけじゃない。桃矢様のお母様が亡くなられた当主様に手を取られて彼方さんを生んだのだから、相当賢い人だ。
私は少し考えてからスプーンを置き「あの」と口を開いた。
「元々当主様……桃矢様のお父様は、奥様を亡くしてから心が崩れたとお伺いしました。そのせいか、お体の弱い桃矢様に早く跡継ぎをつくるよう迫ったり、分家の話を持ち出してきたり。なんだか不安定なのが気がかりでした」
彼方さんはおいしそうに、桃矢様は舐めるようにカレールーの味を確かめたりして、少しずつ皿の中身を減らしていた。私は既に皿の中身を半分空にしている。
「……周りの方が教えてくださいましたが、当主様が桃矢様に子作りを迫るのは、奥様の血が途絶えるのをおそれているからと……でも、無理をすれば最近になってようやく元気になった桃矢様が倒れてしまいます……それを無理に強硬するのは、どうなんだろうと私もよくわからなくなりました」
「あら、あの方まだ変わってなかったのね」
その言葉に、思わず直さんの顔を見た。直さんは困ったように笑っていた。
「あの方、亡くなられた奥様を愛してましたから。同時に自分のせいで本家と分家の問題を蒸し返してしまったのを責任感じているようで。これでも結構長いこと、本家と分家に別れてからも鎮目家は上手くやれていたはずなんですよ」
「ええ……?」
先日咲夜さんがなにかの含みを言っていたことといい、桃矢様が言っていた本家と分家の話といい。もっと後々になって考えることだと思っていたものは、案外繋がっているの?
直さんは続けた。
「元々、鎮目家は遠縁同士で血を繋いできた家系というのはお聞きしましたか?」
「あ、はい。桃矢様から伺いました」
「はい。風水の術や血縁を守るために、外部のものをできる限り入れない考えだったのですが、血が濃くなり過ぎた結果、生まれる子が病弱になることが続き、それらを撤廃する方向に話が進みました。結果。鎮目家は代々当主として外部のよい血を入れる家系を本家、それ以外を分家とし、基本的に本家と分家は鎮目家として仕事はしても、互いの家には干渉しないという不文律ができていたのですが……よりによって奥様は、分家の方だったのです」
……だんだん話の輪郭が見えてきた。
桃矢様が稀代の風水師と言われるほどに才能があるのは、彼の才覚がすごいというよりも、元々生まれ持っていた血の濃さのせいで、鎮目家の風水術が色濃く受け継がれた。でもその代わりに驚くほど体が弱く育ち、つい最近まで一日一食お粥いっぱいで生活できるくらいに体が弱くなってしまったんだ。
鎮目家にまたしても体の弱い子が生まれてしまった以上、本家は分家に喧嘩を売ったも同じだから、波風が立つ。
わざわざ貧乏神の末裔のせいで健康以外取り柄のない私を連れてきたのは、濃くなり過ぎた鎮目家の血を薄めてほしいだけじゃなく、鎮目家のあまりにも弱い体をなんとかしたかったんだろう。
「そういうことだったんですね……当主様が桃矢様の子に固執したのも」
「おそらくはそういうことでしょうね。本家と分家の問題を蒸し返してしまった以上は、本家と分家の架け橋になる子が欲しかった。でも奥様は桃矢様を残して亡くなってしまい、自分のことを未だに呪っているのでしょうね、旦那様は」
「……あの人は、いつもそうですから」
ポツン、と桃矢様が漏らした言葉は、あまりに寂しい。
桃矢様はポツンポツンと漏らす。
「あの人が見ているのは、母と鎮目邸の行く末だけです。自分が体が弱いばかりに……親と子という関係にはなれませんでした。自分もあの人のことは当主とは見られますが、親とはあまり見られませんから……直がいてくれなかったら、自分はもっと悲惨でした」
……前々からずっと不思議だった、桃矢様がどうして離れに住んでいるのかも、やっとわかったような気がする。
病弱だから離れに隔離されていただけでなく、桃矢様は当主様から遠ざけられていた。それが奥様の面影を思い出すからなのか、自分の至らなさを見せつけられるのかは、私にはわからないけれど。
たしかにこれじゃあ、桃矢様は当主様を許すことはできない。覚えていない奥様のことを後生大事に言われてしまっても、きっと桃矢様だってどうすることもできないから。
重たい沈黙の中、彼方さんは「んー……」と間延びした声を上げた。どうもこの人は久し振りのお母様の食事がおいしかったらしく、女中さんに「すみませんお替わりありますか? あと福神漬けもください」と頼んでいる。
「むしろ、自分には旦那様、逆なように思えましたけど。たしかに自分も旦那様のことを実の父親って感覚はあまりありませんけれど」
「彼方?」
桃矢様は困惑して、さっきまでカレーライスに夢中になっていた彼方さんを見る。彼方さんはちらちらと台所のほうを気にしながら言った。
「自分だとあげられないものを、あげたかっただけでは?」
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