異母弟の心持ち

 こうして私たちの長いようで短かった花見は終わりを迎えた。ぐったりとしてしまった桃矢様は、さすがにもう歩いて離れまで戻れる余裕はなく、車を停めた彼方さんが俵抱きして連れ帰ってくれた。

 私が慌てて布団を用意したら、桃矢様の着物を脱がせ、襦袢姿で入れてくれた。きちんと呼吸していることにほっとしつつ、私は彼方さんにお礼を言った。


「今日は……なにからなにまでありがとうございます」

「いえいえ。桃矢様がわがまま言ったのは本当に久し振りだったんで、少し新鮮でしたよ」

「それ、周りの方々は皆言いますね?」


 昔は荒れていたというのを、今はちょっとしか覗かせない。今日は彼なりに羽目を外したせいか、少しだけ昔の彼が見え隠れしたけれど、基本的には私の中では、桃矢様は穏やかな人だ。

 それに彼方さんは複雑そうな顔をした。

 ……元々、彼方さんは桃矢様が早くにお母様を亡くされたせいでつくられた子だから、桃矢様に対して思うところはあるけれど、今は主従関係を強調することで、心の距離を遠ざけて己を守っているように見える。

 どう言ったものか。私は上手いこと言葉が見つからず、結局は立ち上がって「お茶の用意しますね」と言うことに留まった。

 台所に向かい、かまどでお湯を沸かしていたら、彼方さんがトンと壁にもたれかかった。少し疲れているようだ。


「長いこと運転して疲れたでしょう? 座布団出しますから、どうぞ休んでください……」

「いえね。奥様が来てくださってよかったと、少し思っていたところなんですよ。桃矢様と、普通にしゃべれるようになりましたから」

「……え」


 彼方さんはいつもの快活さが少しだけ薄らぎ、なんだか儚い雰囲気が漂う。その儚い雰囲気は、私が普段膝枕をして休ませている桃矢様を思わせた。どことなく疲れ切ったときに見せる儚さと、その儚さからくる妙な色香。

 さすがに夫の弟にそんなことを言うのは軽々しいと、私は少し首を振ってかまどのほうに視線を戻す。火をつけたばかりなのだから、当然ながらまだお湯は沸かない。

 彼方さんは私の心境を知ってか知らずか、勝手にしゃべりはじめた。


「気付いたときはここにいましたからね。親がここの女中だったんですが、俺が小さい内は当然ながら働けませんから、しばらくは桃矢様と一緒に離れで生活してたんですよ。桃矢様からしてみれば、自分の女中を取られたように思ったんでしょうね。癇癪を起こされました」

「……今の桃矢様を見ていたら、信じられません」

「でしょうね。あの人、昔はもうちょっと感情豊かだったんですけれど、風水師としての才能があり過ぎたせいで、少しずつ、また少しずつ自分を諦めはじめたんですよ」

「諦めはじめた……ですか?」

「今は、かなり穏やかとか、富豪の長男みたいな、なんの苦労も知らないような風情に見えるでしょう? あの言動になったのは、あの言動の素質があった訳ではありません。たまたま風水師として依頼を受けて出かけた先に、真性の坊ちゃまに出会ったからですよ」


 女中さんたちが言っていたことと、彼方さんが言っていたこと。そして桃矢さんの日頃の言動。最初は皆の証言が今の彼と結びつかなくってちぐはぐに思えていたけれど、だんだんそれらが重なり合っていくように思える。

 彼方さんは続ける。


「あれを見て、あの人なりに衝撃を覚えたんでしょうね。かなりの癇癪に耐えきれなくなって、辞めていく人たちも続出しましたから。ただ、出かけた先の富豪の息子は病弱ながらも、人に対して声をかけ、それで周りから心を込めて心配をされていました。あの人からしてみれば、心配されることはすなわち弱く見られること、下に見られることでしたから、それを受け入れているのに、いろいろ思うところがあったんでしょうね。そこから、あの人は我を張るのを辞めました」


 それは……いいことなんだろうか。

 私は穏やかな物言いの桃矢様しか知らないけれど。それは単純に全てを諦めて、我を張ることすら辞めた姿だったら、それは果たしていいことなのか、わからなくなった。

 わざわざ軋轢をつくる必要はなくても、彼は彼なりに意見だってあるだろう。それを言うのをどんどん辞めていくということは、だんだん自我がなくなってしまうということ。

 それが幸せとは、どうにも納得しづらかった。

 私が考え込むような顔になったせいか、彼方さんは「ははは」と笑った。


「奥様のおかげで、少しだけですけど、あの人は昔に戻りました。さすがに今はガキじゃあるまいし、子供返りするほどの我は張らないと思います。俺はそれが少しだけ嬉しいんですよ」

「……彼方さんは、桃矢様のことがお好きですか?」


 それを聞いていいのかはわからなかったけれど、聞かないといけない気がした。彼方さんは一瞬だけ目を丸くしたあと、やがて困ったような顔をしながら笑った。


「これを言うと周りは困るんですけどねえ。自分は気付けばずっとあの人と一緒にいたんで、好きとか嫌いとか、そういうのを考えたことがないんですよ。なんというか、そういうもんだと思っています」


 好きとか、嫌いとか言えない、ただそういう関係。

 たしかにそんな関係は言いづらい。

 そうこうしている間に、お湯が沸いた。私はお茶を淹れはじめる。茶葉は中村家では絶対に手に入らない緑茶だった。玉露なんかは怖くて手が出せず、ただ緑茶を気を付けながら淹れると、それを彼方さんに渡した。

 残ったシベリアをお茶請けにして差し出すと、彼方さんはそれをむしゃむしゃと食べ、私がゆっくり淹れた緑茶をあっという間に飲み干してしまった。


「ごちそうさまです。それじゃ、自分はこの辺で」

「あ、はい。お粗末様です。あの、彼方さん」

「はい?」

「……多分桃矢様は、自分を卑下することはあっても、それ以外の方を卑下することはありませんよ。あの方の物言いを、あまり気にしないでください」


 そんなこと、私よりも付き合いの長い彼方さんだったら知っていると思うけれど。そう思ったら、彼方さんはふにゃりと笑った。


「ええ、知ってます」


 そう言い残して立ち去っていった。


****


 桃矢様が眠っている間に、夕餉の用意をすべく本邸に向かった。

 本邸では既に当主様の食事の準備をすべく、女中さんたちが作業をしていた。邪魔にならないだろうかと思いながら「こんばんは」と声をかけると、ぱっと私に視線が集中した。


「奥様、お帰りなさいませ。花見はどうでしたか?」

「ええっと……車には初めて乗りましたが、面白かったです。桜も綺麗でしたし」

「あら、それはようございました。今日は花冷えですから、温かいものにしようと思っていましたけれど」


 そうやって見せてくれたのは、鮭とかぶのみぞれ煮だった。かぶを大根おろしのようにおろして、それに酒とみりん、醤油を加えて餡に見立てて鮭にかけている。見ている限り、鮭と餡を一緒に煮立てて、煮崩れする直前に火を止めたようだった。

 合わせているのは、すまし汁にかぶの葉と薄揚げのおひたし、ごま豆腐だった。この中だったら、桃矢様には鮭とかぶのみぞれ煮だったら食べてもらえるかなと思う。


「あの、桃矢様ですが、今はお疲れで眠ってらして。どれでしたら持っていってもかまわないでしょうか」

「最近は坊ちゃまも夕餉も召し上がるようになりましたからね。前はよくてお粥やお雑炊、悪いときは重湯ばかりでしたから、いいことです」


 さすがに重湯ばかり食べていたら、体はかえって動かなくなると思う……。

 私はぐったりとしつつ、「鮭とかぶのみぞれ煮でしたら、桃矢様も少しのご飯と一緒に召し上がると思います……」と言ったら、女中さんは心底嬉しそうな顔で用意してくれた。


「どれだけ用意しても、ほとんど口に付けることなくお膳が返ってきていましたから。今は空になって返ってきてくれて嬉しいんですよ」

「そうだったんですか……あの、少しだけ彼方さんと話しましたが、彼方さんって、なにか好きなものはございますか?」


 私の言葉に、女中さんたちは顔を見合わせてしまった。不貞をするつもりはないから、私は慌てて手を振る。


「い、いえ……桃矢様のことで毎度お世話になっておりますし、お愛想なしなのもどうかと思いまして。昔は一緒に離れで生活していたとも聞きますし!」


 私の言葉に、なおも女中さんたちは顔を見合わせる。やっぱり上下関係とかの問題で、これ以上このふたりの関係に口を挟んだりしたら駄目なんだろうか。そうごにょごにょとしていたら、やがてひとりの女中さんが意を決したかのように口を開いた。


「彼方さんですが、昔はよく坊ちゃまのためにお菓子を焼いていたんですよ」

「あら? そうだったんですか?」

「はい……牛乳が体にいいと聞けば、近くの旧士族邸の牧場まで走って買いに行っていましたし、ポッディングみたいな菓子もつくっていましたよ。特にあの方、ワッフルをよく焼いてましたし……」

「ワッフルですか……」


 ワッフルは最近になって流行り出したお菓子だ。喫茶店で格子柄のお菓子がよく出されるようになり、りんごの甘露煮を挟んで食べるものが特によく見つかる。

 私の奉公時代に、たまに賄いで崩れたものを食べていたけれど、そういえば型と瓦斯さえあったら焼けるんだよなと、今更になって気が付いた。


「今度つくりかたを教わってもよろしいですか?」

「そりゃかまいませんが……ただ、奥様もこのことは坊ちゃまとよくお話になったほうがいいと思いますよ」

「そりゃ話しますけど……でもどうして?」

「坊ちゃまは今でこそ落ち着いていますけれど、意外とやきもちですから。ただ兄弟仲をどうこうしたいんだと、強調したほうがよろしいかと」


 それに私は口を開けた。

 桃矢様にやきもちなんてことができたんだと、今更ながら思ってしまった。私たちは未だに口付け以上のことは一切していない清い同居人の付き合いであり、世の夫婦関係とは縁遠い。

 そう思いながらも「ご忠告ありがとうございます……」とだけ答えて、元来た道を帰っていった。


****


 ふたり分のお膳を持って、離れに向かう。

 離れに向かうと、既に桃矢様が起きていた。私は慌ててお膳を並べた。


「お待たせしました、桃矢様。夕餉を取ってきましたよ」

「いろりさん……ありがとうございます。今日は……ずいぶんと豪勢ですね?」

「それでも桃矢様はあまり召し上がりませんから、一品とご飯だけですよ。それではいただきましょう」


 手を合わせてから、私はひとまず鮭とかぶのみぞれ煮をいただいた。かぶの甘さと鮭の旨味がよく合い、体も温まる。すまし汁におひたしもおいしく、私は夢中で食べていた。

 その中、私がちらりと見ると、桃矢様も鮭をひと口分切ってよく食べていた。私はそれにほっとした。最初の頃はお粥ばかりだったのを見ていたら、一品だけでもちゃんと食べられるようになったのはよかった。

 今日は鎮目邸を少しばかり離れていたので、余計にちゃんと食べてほしかった。

 私は桃矢様の食事を食べているのを確認してから、自分の分も平らげる。


「あの、桃矢様、少しだけ相談があるのですが」

「はい?」

「彼方さんについて、桃矢様がどう思っているか教えてもらってもよろしいですか?」


 私の言葉に、桃矢様はきょとーんとした目を向けてきた。


「どうしてでしょうか?」

「今はまだ、当主様からは見逃してもらっていますが、いつかは私が桃矢様と子供をつくれって話も出てくるでしょうから。それまでに鎮目邸の人を皆、きちんと味方にしたいんです。そのほうが、私たちも安心できるでしょうから」


 中村家は兄が貧乏に嫌気が差して家出してしまったけれど、家族仲だけはずっとよかった。でも家族仲が悪いと、なにかあったときには簡単に瓦解してしまうような気がする。

 そうならないように、できる限り皆で仲良くしたいんだ。

 私の理屈ではそうだけれど、富豪だと理屈が変わるだろう。だから合わせてみたんだけれど、それでいいのかがわからない。

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