花見の季節

 その日、私は久々に着物を眺めていた。

 春先の着物の準備なんて久々だ。そもそも着道楽というほど着物も持ってないし、私が実家で着ていた着物の半分以上は傷み過ぎた古着だったから、その手の着物は嫁ぐ際に捨てないといけなかった。今ある着物は、ほとんど鎮目邸で用意してもらったものだ。

 着物の柄は、常に季節より半歩先のものを選ばないといけないけれど、例外もある。その内のひとつに、蝶が飛んでいるものがある。蝶が飛んでいる柄は、どの季節に着ても場違いにはならない。

 普段から着物の柄を季節ごとになんて言われても「そんなに季節の柄ごとに変えるほど着物を持ってない」と尻込みしていた私は、嫁いでからも「奥様はどのような着物がお好きですか?」と女中さんたちに尋ねられても、「蝶が飛んでいるもの」とばかり答えていた。

 だから桜の柄に蝶が飛んでいても、春先の着物なんだよなと、ずっと見ながら悩んでいた。

 さんざん悩んでから、結局はその柄の着物を選び、帯留めも蝶の形のものをあしらった。髪型は普段通りひとつ結んで簪を突き刺して束ねる簡単なものだったけれど、着物が立派なのだからなんとかなるだろう。

 今日さんざん着物を選ぶのに迷っていたのは他でもない。

 初めて夫婦で鎮目邸の外に出かけるからだ。彼方さんがついてくる以上、逢引という形にはならないものの、桜を楽しめるというのはいいものだった。私の奉公先では、くじ引きで勝ったときにしか桜を愛でることはなかったものの、今日みたいに穏やかな日だったら底冷えもしないだろうし、いい一日になるんじゃないのか。

 もっとも。外出するのはあくまでお勤めの一環なのだから、桃矢様のためにお菓子も忘れずに持っていかないといけない。

 今日持っていくのはカステラに薄く羊羹を挟んだシベリアで、これならば桃矢様が食べても問題ないだろうという算段だ。

 私がうきうきと言う用意をしていると「楽しそうですね」と桃矢様が笑った。

 桃矢様は桃矢様で、普段は無地な着流しを着ているけれど、今日は金貼りの模様がうっすらと入っている着流しを着て、羽織を羽織っている。普段は薄着でうろうろしている人だから、足もきちんと足袋を履いてくれると安心感がある。


「桃矢様、お似合いです」

「ええ。なにぶん夫婦で初めての逢引ですから」


 そう茶目っ気たっぷりに言うのに、私は思わず赤面する。


「……彼方さんだっていらっしゃいますよ?」

「そうなんですけどね、もちろん。彼方にもついてきてもらわないことには、咲夜さんも納得しなかったでしょうし」


 桃矢様は心底楽しげに笑った。

 思えば。私はここに嫁いでからというもの、一緒の離れで寝起きをし、一緒に食事を共にするようになったといえど、彼のことを本当になにも知らない。

 桃矢様が存外子供っぽいことも、外に出たがっていたものの体が原因で外に出られなかったことも、外に出られるとわかった途端にはしゃぐ人だということも、今日初めて知ったばかりだ。

 ただ穏やかで、落ち着いていて、お勤めに熱心なだけの人ではないってことだ。


「いろりさん?」

「いえ……なんでもありません。今日のお勤め用に、シベリアを用意してきました。一緒にいただきましょう」

「シベリアですか……楽しみですね」


 ふたりでそうしゃべって離れを出たら、既に彼方さんが待っていた。

 今日はお付きだからだろうか。いつもは作務衣姿だというのに、シャツにスーツ、スラックスに帽子を被って待っていた。女学生に流行っている探偵小説の探偵さんみたいな出で立ちだ。


「ああ、お待ちしておりましたよ。車も用意しております」

「ありがとうございます」

「車……」


 鎮目邸の中庭を通って正門に出たところで、鋼の自動車があることに、私は「ひゃっ」と声を上げた。

 自動車の値段は奉公人の生涯年収よりも高いと聞いている。そんなものが簡単に用意できてしまうなんて、本当に風水師ってすごいんだなとまじまじと見てしまった。私がおっかなびっくり自動車を眺めているのを、桃矢様はにこやかに眺めていた。


「そういえば、いろりさんは車は初めてですか?」

「はい……見たことはあるんですけれど、乗ったことはありません」

「なるほど。彼方、なるべく静かに運転してあげてください」

「はいはい、かしこまりましたよっと」


 そう言いながら、彼方さんは運転席に座り、私たちは座席に座る。

 エンジンを噴かせて走りはじめると、その速さはすごく、私が同じ時間歩いても鎮目邸はまだ見えているだろうに、あっという間に見えなくなってしまった。

 私は車を運転している彼方さんに尋ねる。


「あのう、どちらに向かいますか?」

「ええ……咲夜さんと少し話をしましたけどね、花見をする場所をぐるっと走る予定ですよ」

「ええっと……?」


 私がわからないまま彼方さんを眺めていると、隣に座っている桃矢様はにこにこしながら言う。


「車を走らせて、そのまま気の淀みを鎮めようと思います」


 それに私はポカンとした。

 いつものように舞を踊らなくっても鎮められたのか。そう思ったのが半分。でも車を走らせながら花見は味気なくないだろうかというが半分。

 それに彼方さんは苦笑する。


「奥様が心配する気持ちもわかりますが、花見とお勤めを両立して、なおかつ桃矢様のお体を考慮しつつも、休める場所を確保となったら、自動車で走りながらの花見となりました」

「そうなんですか……」

「まあ、あまり桃矢様と奥様が大っぴらに仲睦まじくしていても、見ている人々からは人命救助だとわかりませんしね」


 そう彼方さんに言われて、どっと頬に熱を持たせる。

 ……桃矢様を助けるためとはいえど、公衆の面前で口付けをするのも、膝枕で休ませるのも、たしかに気が引ける。その点、走らせている車の中でだったら、これくらい仲睦まじくても問題にはならないか。


「それでは……お願いします」

「はいはい。かしこまりましたっと」


 彼方さんの運転は存外に快適で、ガタガタと大きな音もしないし、荒れてもいない。その中で窓の外を桃矢様がにこにこと眺めている。

 車の中だけでも、外に出られて浮かれているのがわかる。


「あのう、彼方さん」

「はい?」

「帰りだけでもいいですから、せめてお土産を買って帰ってもよろしいですか?」

「まあ、それは桃矢様の体調次第ですかねえ」

「……わかりました」


 少し触れ合う桃矢様の肩。鼻歌を歌っている彼が好ましく思え、私はその横顔をずっと盗み見ていた。思えば、しばらく寝食を共にしていたというのに、いつも正面から眺めてばかりで、存外に横顔を見たことがなかった。


****


 彼方さんがしばらく車を走らせた先。


「わ、わあ……!」


 車を走らせると、川に沿って溢れんばかりに薄紅の花が溢れていた。川辺は花見の人で溢れ、たしかにこれは車で走ったほうがよかったかもしれない。これだと少し歩いただけで人酔いしてしまう。


「盛況ですね。これだけ人が集まって」

「はい……ですけど」


 私にはわからないけれど、風水的にこれだけ人が集まっているのはどうなんだろう。私がちらりと桃矢様を見たら、意外なことに顔色もよく、いつものお勤めのときみたいに青白い顔になってぐったりと倒れてしまいそうな儚さはない。


「すごいですね。近くで見るのは初めてですけれど、あの花の気はすごい」

「え? 桜の気……ですか?」

「はい。あの花の近くの気は活性化していて、見ている方々の気を勝手に整えています。たしかに乱れてはいるんですけれど、これは鎮めるほど大きな荒れ方はしてませんね。歌舞伎や演劇を見て、感情が高ぶることがあります。あれと同じで、無理に鎮める必要はありません」

「そうなんですか?」


 私は思わず彼方さんに尋ねると、彼方さんは運転しながら頷いた。


「ええ。感情が高ぶり過ぎて暴れるとかだったら、速攻で鎮める必要はありますが。これくらいだったら普通ですね」

「ええ……? ですけど、咲夜さんはどこか鎮めに行くようにおっしゃってましたよね? それは大丈夫なんでしょうか」

「もちろん、全部があの川辺のように和やかな花見場所だけじゃないんですけどね」


 その言葉に、私は頷いた。

 帝都の大規模工事と一緒で、大きな人通りは欲望を孕む。きっと桃矢様はそれらで淀む気も鎮めているのだろう。やがて、桃矢様はするりと懐から扇子を取り出すと、それを手で弄びはじめた。


「桃矢様……?」

「いえ。せっかくの花見日和ですから、気の淀みのせいで台無しになってしまっては駄目ですよね?」


 そう微笑んだ。

 思えば。本来は風水師は各地に現場に出かけて定期的に気の淀みを鎮めている。そういう仕事なんだと思っていて、特に不思議には思っていなかったけれど、車の向こうから眺めていたら、酒気を帯びて暴れている人がちらちら見えてくる。

 途端に桜が色あせたように思えた。それはそういう気分だからそう見えるのか、本当に気が淀み過ぎて色が急激に消えてしまったのかがわからない。

 桜は潔く散るから、みじめな色で木にしがみつくことなんてないはずなのに。

 桃矢様はそんな場所に扇子を向けると、ひらりひらりと舞いはじめる。足の動きはない。腕しか動かしていない。それでも、その動きははらりはらりと散る桜のように雅で、思わず見とれてしまうけれど。

 私は慌てて持ってきていた包みを解くと、シベリアを用意した。

 桃矢様はしばらく手を動かしたあと、私の肩にもたれかかってきた。私は慌ててそれを受け止めると、彼方さんに伝える。


「すみません、少しだけ運転をゆっくりにできませんか?」

「いいですよ。まあ、今日の淀みはきちんと鎮められましたから大丈夫でしょう」

「そうなんですか……あのう。私はよく知らないんですけれど、神社とか寺とかだったら、悪いものを祓うっていうじゃないですか。悪い気を祓ったら、ここまで桃矢様が苦労することはないんじゃ……」

「……それはできないんですよ」


 桃矢様は少し息を乱しているのに、私は慌てて彼に口付けをする。少しだけ彼の呼吸が整ったのを確認してから、シベリアを差し出した。

 桃矢様はそれをもぐもぐと食べると、少しだけ息を吐き出した。


「人の気持ちで無くしていいものはありませんから。神社や寺では煩悩を消すとか災いを祓うということを行いますが、風水は少しだけ違います。その場を整えることはできても、気の乱れを防ぐことはできても、なかったことにはしないんです。喜怒哀楽からひとつを無理矢理引っこ抜いたら、大変なことになるでしょう? 気も同じことです」

「……そんな」

「あまり気になさらないでください、いろりさん」


 桃矢様は本当に上機嫌で、私の頬に擦りついた。シベリアに使ったカステラの甘い匂いをまとわせて。


「花見なんてできないって思ってましたから。車に乗りながらでも、多分いろりさんがいなかったら許可は下りなかったでしょうね」

「そんな……車に乗ったまま桜を眺めるだけでも、無理なんですか?」

「ええ。気を鎮めるのに、あなたの力が必要ですから。自分はあなたがいてくれて、本当によかったと思ってます。なにより」


 桃矢様はにこにこしながら、私の髪を撫でた。油を付けてなくてよかったとほっとする。髪を結うときに使う油を付けていたら、きっと今頃桃矢様の手はベタベタだ。


「人に心配されるのは、ただ鬱陶しいだけだと思っていました。自分の代わりになってくれる訳でもないのにと。でも、あなたに心配されるのは気持ちいいのです。不思議ですね?」


 その言葉に、今まで女中さんたちや彼方さんがさんざん言っていた、昔の桃矢様とやっと今の桃矢様が結びつく。

 人はただ熱を出しただけでも、心が乱れる。心が乱れると、ただ心配されるだけでも鬱陶しくなるんだ。

 私は貧乏神の家系のせいか、病気ひとつ知らないままだったが、奉公先で熱を出した途端に人が変わったようになってしまう人にはいくらでも出会った。

 この人はそんな自分を持て余していたのだろう。


「……そうですよ。私は、ずっとあなたのこと、心配していますから」


 本当はもっと他にかけられる言葉があるだろうけれど、今の私にはこんなちっぽけな言葉しかかける言葉が見つからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る