初めての遠出の準備


 それからというもの、私と桃矢様の食事の機会が増えて行った。

 最初は本当に固形物が駄目で、女中さんから習った汁物や卵料理が中心だったものの、少しずつ。本当に亀のような歩みで食べられるものが増えて行った。

 食事がきちんとできると、桃矢様も起きていられる時間が増え、お勤めの合間に私と散歩することもできるようになった。そうは言っても、体になにかあったら危ないと、ほとんど中庭の散歩くらいだけれど。


「なんだか庭にやってくる鳥の種類も変わりましたね」


 庭の花を眺めながら、止まる小鳥を眺めていたら、気付けば鳥の鳴き声が変わっていた。

 鶯が鳴きはじめたということは、もうそろそろ春なんだろうか。桃矢様は穏やかに頷いた。


「ええ。庭木を見ているだけではなかなかわかりませんが、気付けば春になっていましたね」

「そうですね。今はまだ見頃じゃありませんけど、もうちょっとしたらお花見なんかにも行けるようになりますね」

「……お花見ですか?」


 桃矢様にきょとんとされて、私は自分の言った言葉でおかしいことはあったかと考え込む。桃矢様が首を傾げながら続ける。


「花見というものには行ったことがありませんが。それは一般的なものなんですか?」

「私は奉公先で奥様とご一緒に出掛けたことがありますが……春先になったら、桜をよく見られる場所に行って、桜を見上げながら散策するんです。中には桜の下に茣蓙を敷いて、そこでお弁当を食べながら桜を眺める方々もいらっしゃいますが、桜の季節は底冷えしますから、茣蓙に座っての花見は火鉢でもないとおすすめできません」

「なるほど……春先になったら、気の流れを鎮めるお勤めが増えるのはそういうことでしたか」


 桃矢様が合点いった顔をするのに「そうか……」となる。

 私が奥様と一緒に花見に行く際は、荷物持ちをしなければいけない代わりに、予約した店で底冷えの心配なく食事をすることができたため、奉公人がくじ引きをして荷物持ちを決めていたのだ。

 それに花見の席は酔っ払いが多く、なにかと酒で人間関係が滅茶苦茶になることが多い。そんなんだと、たしかに桃矢様や風水師のように気を鎮める仕事をしている人だって手間取るだろう。


「風水師の皆さんは困ってしまうかもしれませんね……」

「いえ。春の陽気は活力を与えますから。少々気が乱れることがありますが、よっぽどのことがない限りは淀むほどではありません。ですが……そんなに人が大勢来るほど、花見とは盛況なものなんですか?」

「ええ、そりゃもう」


 私は頷きつつ、庭木をざっと確認する。

 日頃彼方さんが面倒を見ている木々の中には、桜の木はないようだった。代わりに梅や桃があり、今はポツポツと桃が咲いている。私は桃の花を指差した。


「梅や桃によく似た花がたくさん咲いていて、大変に綺麗ですよ。梅のように芳香がある訳ではなく、桃のように実を付ける訳でもないですが、うっとりと見惚れるほどに。ただ、先程も言いましたけど、春先の地面は底冷えしますから、茣蓙を敷いての花見ではお勧めできません。散策して通り過ぎる際に眺めたり、温かくて桜を見渡せるような店で食事をしながら楽しむほうがいいと思います」

「そうなんですか……」


 私の説明を聞いていた桃矢様が考え込んだ。

 でもなあ……。私が働いていた先でも、奥様は店の予約を結構前からしていたと思う。春先の花見はひと言で言ってしまえばお金があるか、体力があるかがないと、見ている暇がないくらいに盛況なのだ。

 そもそも桃矢様はお体が悪いのに、長いこと冷える場所に置いておくのはよくないし、だからと言って店の予約もなあと考え込んでしまう。

 そうひとりでひやひやしていたら、桃矢様が顔を上げた。


「今日のお勤めのときに相談してみましょうか。春先に気を鎮めるのを、現地で行いたいと。そのときに花見もできると思いますよ」

「え……そりゃ咲夜さんに頼めばできるかとは思いますけれど……いいんですか?」

「はい。少し体が動くようになって、いろりさんと話をしていて思うようになったんですよ」


 桃矢様はにこやかに笑う。


「いろりさんの見ているものを、自分も見てみたいと」


 そのひと言に、私は頬を赤らめさせた。

 夫婦らしいことが体のせいでなにひとつできないふたりだ。もし桃矢様もそのことを気にしてくれていたんだったら、それは少し嬉しいと思ってしまったんだ。


****


「駄目です」


 普段から無駄口はあまり叩かない人ではあるけれど、こうもきっぱりと駄目出ししてきたのは、私の知っている限りでは初めてだった。

 しかし桃矢様はわかっていたようで、「駄目ですか?」と尋ねる。

 咲夜さんはまたしてもきっぱりと言う。


「あなたの御身を考えてください。花見なんてしようものなら、絶対に倒れます。奥様があなたを運んで帰れるとお思いか? 新婚だからと言って浮かれて違うことをしようとされても困ります」


 咲夜さんはニコニコとしながらズケズケと駄目出ししてくるのに、私はいたたまれなくなる。


「あのう、別に花見ができずとも、せめて桜の見られる近場で食事とかは……」


 たまりかねて、おずおずと口を挟むと、咲夜さんは「奥様」とにこやかに笑う。


「第一に花見の席の気の乱れようを甘く見積もられては困ります。鎮目邸は風水の守りにより、気の淀みや乱れに大きな影響を受けないようにできておりますが、現地はそうではありません。花見の席はどうしても人間の欲望が取り巻く場所です。それを桃矢様が直に浴びたらどうなるか、考えてもみてください」

「それは……」


 日頃から桃矢様が気を読み取る力を始終使っているのは、毎日全速力で走っているようなものと聞いている。風水的な守りを施している鎮目邸でお勤めをしていてもこれだったら、外に出たらどうなってしまうんだろう。

 私は思わずしょんぼりとしてしまった。


「申し訳ございませ……」

「咲夜さん、それはいくらなんでも言い過ぎです」


 私が思わず謝ったところで、今度は桃矢様が割り込んでくる。


「自分はいろりさんを娶ってから、ずいぶんと動けるようになりました。前よりは体力を付けたので、そこまで過保護にしなくても問題ありませんよ」

「桃矢様……それだけじゃありませんよ。気の淀みや乱れだけではなく、花見の席の問題を甘く見過ぎです。花見の席は、最低でも数か月前には用意しておかなかったら、温かい店の一室から花見をすることは不可能です。そうでない場合は、早朝から茣蓙を敷いて席を取らなければ不可能ですが……そんな寒い場所での花見を、鎮目家の次期当主にさせることはできません」


 それはそうだ。

 私自身も茣蓙での花見自体は反対なんだから。地面から底冷えするし、火鉢を用意するにしても火鉢と炭を用意しないといけないから重いし、持ち運びが不便だ。

 咲夜さんが心配するのも納得なんだ。

 その中、なおも桃矢様が言葉を重ねる。


「咲夜さんの心配ももっともなのですが。それでは自分はいつまで経っても外に出て行くことはできません。自分は自分ひとりのための体とは思っていませんが、妻までそれに縛りたくはありません」


 桃矢様の言葉を、咲夜さんはしばらく黙って聞いていた。ときどき目を細めてこちらを見つつ、桃矢様を観察するように見つめる。

 やがて、諦めたように溜息をついた。


「……わかりました。花見の場についてはなんとかしましょう。ただし条件があります」

「いいんですか?」

「条件付きですが。彼方さんを必ず連れて行ってください。次期当主が倒れては困ります……夫婦水入らずにできずに大変申し訳ございませんが」

「あ、あのう、咲夜さん」


 私は頭を下げる。


「ありがとうございます。いろいろと考えてくださって」

「別に……自分はただ、次期当主になにかあったら困ると言うだけです」

「それでも、充分です」


 私は何度も何度も頭を下げると、咲夜さんは困った顔をして去っていった。

 今日のお勤めの際に、庭で彼方さんと出会うと、一緒に花見に行って欲しいと打診をしたら、ずいぶんと驚かれてしまった。


「はあ……桃矢様と咲夜さんが。はあ……」

「あ、あのう……そこまで突飛な話でしたか、花見に行こうという誘いは?」

「いえ、違いますよ。あのふたりが諍いに合うの、ほぼ初めてですから」

「……そうだったんですか?」

「そうですよ。咲夜さんは、基本的に桃矢様を立てます……あの人、分家が本家に簡単に潰されるって思っているところがありますんで、基本的には本家に絶対に逆らいません。今回みたいに止めに入ることが珍しいんですよ」


 それは全然知らなかった。でも、咲夜さんがあんなに止めるっていうのは……。

 彼方さんは頭を引っ掻きながら続ける。


「そもそも桃矢様、物事に対して無気力ですから。奥様が来てからですよ。あれだけ優し気な言動になったのは。あの人が周りに波風を立てるような言動、ほんっとうにしませんでしたからね」

「あの……これって私が悪いんでしょうか」


 彼方さんの言葉を聞いていたら、だんだんとしょぼくれてきた。

 私が単純に桃矢様が家に閉じこもっているのも体に悪いから、外に出られるようになったらいいとか、遊びに出かけられたらいいとか、それくらいにしか思っていなかったけれど。

 分家の人と波風を立てたり、次期当主が倒れそうと思われたりするのは、なにかとよろしくないんじゃと思っていたから。

 それに彼方さんは慌てる。


「勘弁してくださいよ。自分が奥様に悪いこと教えているようじゃないですか」

「いえ……私が知らなかったことを教えてくれていると感謝しかしてませんけど」

「そうじゃなくってですね。桃矢様がなにかに執着を持ってくれたことに、感謝してるって話なんですよ」

「……そうなんですか?」


 初めて出会ったときから、桃矢様は優しかった。

 だけれど女中さんたちは「昔は癇癪持ちだった」と全然預かり知らぬ桃矢様の話を教えてくれたし、彼方さんだって「昔はもっと無気力だった」とやっぱり今の桃矢様に結び付かない話をしてくれる。

 彼方さんは大きく頷いた。


「ええ……あの人、自分は世継ぎを残したらどっちみちいつ死んでもかまわないんだって、捨て鉢になっていましたからね。奥様が来てからだいぶ落ち着いたんですよ……それこそ、自分から外に出たいなんて言い出したのは、かなりの変化ですからね。花見、自分は荷物持ちなんでしょうけど楽しみにしてますよ」

「……はい、ありがとうございます」


 そうこう言っている間に、桃矢様は気の淀みを鎮め終え、その場にへたり込んだ。前のように足元おぼつかず、そのまんま倒れるよりはだいぶましになった。

 私は慌てて駆け寄って、桃矢様にお菓子を差し出した。今日用意したのは羊羹で、それを桃矢様はむしゃむしゃと食べはじめた。


「先程から彼方とお話ししていたようですが」

「はい。花見の打診をしていましたよ」

「……そうですか」


 桃矢様は少しだけほっとしたような声を上げた。


「花見をしたいっていう気持ちは、自分はよくわかりません。ただ、いろりさんが愛でたいと言っているものを、一緒に眺めてみたいんですよ」

「そうですか……離れに帰りましょう。まだここは底冷えしますから」

「そうですね」


 私の言葉に促されて、桃矢様はどうにか起き上がると私にもたれかかりながらも、どうにか離れへと戻っていった。

 私には、彼の苦しみがわからない。

 毎日毎日気の流れを読み続けた結果、全速力で走り続けて疲れ果てて、いろんなことに無気力になる。無気力になったらなんに対しても無関心になり、心が動かなくなる。

 私はただの貧乏神の末裔で、桃矢様のなにがそこまで動かせたのかがわからないけれど、彼が捨て鉢になって自分の命を惜しんでくれなかったら、それはきっと困るなと思ってしまう。

 私はただ、この人と春夏秋冬を楽しみたいだけなのに。

 今は一緒に花見ができる。そのことを期待しよう。

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