次期当主様のご容態

 桃矢様の唇は、かさかさと乾いていた。寝る間際に油をあまり塗らない関係かもしれない。

 彼方さんは私たちの口付けを呆れた顔で見ていた。桃矢様はそもそも抵抗する気力もなく、ただ茫然とこちらを受け入れていたものの、やがて唇が動いた。

 やがて私の肩に手を置くと、そっと体を離すよう促してきた。彼のかさかさとした唇と温度が離れていくのを名残惜しく思いながらも、体を離すと、桃矢様は少しだけ微笑んだ。


「少しだけ食べる気力が沸きました……カステラ、いただいてもよろしいですか?」

「は、はい……!」


 私は彼を膝枕したまま差し出すと、本当だったら起き上がりたいだろうに起きられないらしく、私は慌てて「そのままで大丈夫ですよ」と言いながら、彼の背中に腕を回して、どうにか上半身だけ起こしてみる。

 彼は庭に座り込んで、カステラを千切って食べはじめた。彼のひと口は小さく、千切ったカステラの量も私の小指ほどの大きさもなかったが、目を細めて食べる姿はおいしそうで、ほっとした。


「……おいしいですね。ときどき土産でもらうんですよ。カステラも」

「そうだったんですか……こちらも女中さんに習って焼いたんですよ」

「本邸の方々も気を遣っていろいろ食べさせようとしてくれるんですが……大概は食べる気力が損なわれて、食べる前に気を失っているんです。いけませんね。体力を付けたくても、まず食べる気力がありません。食べる気力がないと、体力を付ける気力も沸きませんから悪循環です」


 桃矢様の言葉のひとつひとつは、少し面白いものの、全体的に並べてみると切実だ。散歩なんかをして体力を付けようにも食べることができない。食べることができないと散歩する体力もない。

 外に出られないなら、せめて中庭の散策ができれば、日の光も浴びれられて体にいいのに、それすらできないなんて。

 私たちのやり取りを眺めていた彼方さんが、少し不思議そうな顔で寄ってきて、ひょいと屈んできた。


「あの、今のどうやったんですか? 桃矢様が倒れなかったこと、あまりありませんでしたのに」

「ええっと……桃矢様、私と食事するときに、私の口元拭ってくれたのをそのまんま食べてたので、もしかしたら私の唇かなんかに、桃矢様を動かしやすくするものがあるんじゃないかと思ったんです」


 言っていて自然と照れるけれど。私の言葉に彼方さんは私をまじまじと見つめた。


「なんか神とやり取りでもしたんですか?」

「私はというか……ご先祖様に貧乏神がいるんで、体だけは丈夫なんですよ。とっても貧乏でしたが、死にはしません。だから鎮目家に婚姻の打診をいただきまして」

「なるほど……つまりは神の加護的なものが、桃矢様を一時的に動かせたから、食事ができたってところですかね?」

「神って……神は神でも貧乏神ですし、そんなに力は……」

「いえ、充分あると思いますよ」


 桃矢様はおっとりと私の手を取った。朝のときは冷たくて驚いたけれど、今は少しだけ温かい。それはカステラを食べられたせいなのか、多少なりとも歩いたせいなのかは知らない。

 桃矢様はにっこりと笑う。


「先祖代々貧乏だったということは、よくも悪くも神の権能が働いている証拠です。たしかに貧乏神は、人間にはよろしくない神なのかもしれませんが、神には変わらないから、ずっといろりさんのご実家を加護してきたんでしょうね」

「そんな……大袈裟な……私は、それでよかったことなんて」

「自分と結婚できたじゃないですか」


 そうあっさりと言われ、思わず照れる。

 ……そもそも結納金支払えないほどに貧乏だったのだから、結納金も嫁入り道具もなしで結婚してもかまわない結婚ができたのは、本当に運の賜物だ。

 ……貧乏神に憑かれていなかったらもうちょっとお金もあったし、普通の結婚もできただろうけれど。多分桃矢様に会うこともなかったんだろうな。

 まだ出会って三日も経っていないのだけれど。

 私は思わず背中を丸めるのを、彼方さんは「はいはい」と手を叩いた。


「とりあえず、ふたりともさっさと離れに帰ってくださいよ。この辺り、まだ手入れ終わってませんので。新婚夫婦が仲がいい。実に結構。早く跡継ぎなんて言いませんから、夫婦らしいことするためにも、用事は終わらせて帰ってくださいね」

「あ、ああ……お仕事お邪魔してすみませんでした!」

「彼方、ありがとうございます。それでは自分たちは失礼しますね」


 彼方さんに追い出されるようにして、私たちは離れへと戻る。でも。庭師だからって、そんなにずっと庭に出てやることがあるんだろうか。

 私は何度も彼方さんの方向を見るが、いまいちわからなかった。


「彼方には苦労をかけていますからね……」

「ええっと……彼方さんは」

「うちの奉公人から話は聞きましたか?」


 桃矢様に尋ねられ、私はどう答えるべきかと一瞬考えあぐねたけれど、ここでしょうもない嘘をつく必要もないために「はい」と答えた。

 桃矢様は一瞬遠くを見る目をした。


「自分は生まれたときから、気の流れを読むのが人よりも鋭く、そのせいで体が持たずに倒れてばかりでした。風水師としては優れていても、日常生活はまず送れないだろうという見立てでしたから、父が他の跡継ぎをつくるために、母に替わる相手を探すのは急務でした。ただ、自分は体が弱いだけで、風水師としては自分で言うのも難ですけれど、帝都ひとつ賄えるくらいの人材でした。代わりになる人間も、自分より上の風水師を産めるような母体も、見つかりませんでした」

「それは……」


 風水師家系のせいなのか、桃矢様の言い方は物々しい上に、自分もお父様も彼方さんのことさえも、まるで部品のように扱う。

 私が思わずしょんぼりとしてしまうと、それに気付いたのか桃矢様はにこりと笑った。心配するなという意味の笑みか、妻にはかかわりのない話として誤魔化したのかまでは判別できなかった。


「……風が出てきましたね。帰りましょうか」

「あ、はい……!」


 桃矢様を支えるように肩を貸しながら、私たちは庭を後にした。せめて夜は軽くてもいいから、なんとか食べてもらおうと考えながら。


****


 本邸の台所で作業を行っている女中さんたちに、今日のお勤めのときは倒れなかった旨と、桃矢様の夕食をいただきたい旨を説明したら、全員顔を見合わせてしまった。


「あのう……昨日が私、初めて桃矢様のお勤めを見たのですけれど。日頃から一日一食した召し上がらなかったんですか……?」


 あとは祝言のときにお粥を食べていたのは見たけれど。一日一食しか食べずにお勤めを果たしていたら、そりゃ倒れてしまう。

 それに女中さんのひとりが口を開いた。


「ええ……坊ちゃまは朝餉を食べ終えたあと、しばらく離れで休んでから、お勤めがやってきます。そのお勤めのあと、すぐに倒れてしまいますから。最初は夕食も用意していたのですが、あまりに倒れるためにとうとう坊ちゃまのほうからも『わざわざ捨てるものを用意しなくてもいい』と言われまして……」

「……つまりは、用意していても朝まで倒れていたので、結局食べることができず、一日一食だったと、こうですか」

「はい。残念ながら」


 つまりは、祝言のときみたいにお勤めが免除されたときだったらいざ知らず、それ以外の時はお勤め以外ではずっと倒れていたから食べる暇もなかったと。

 これには困ってしまうなと考え込む。夜に軽いものとしたら、やはり汁物しかないけれど。

 本当だったらもうちょっとだけ固形物を食べて欲しいけれど、それすら難しいのかな。私が考え込んでいたら、女中さんのひとりが口を挟んできた。


「坊ちゃまは多分、奥様の手掛けたものだったら、なんでも召し上がるかとは思いますが」

「ええ……私が用意したものなんて、せいぜい今日の朝餉に、昨日のポッディング、あとは甘味くらいですよ」


 どれもこれも柔らかい上に固形物とは言い難い。せめて少しは食べて欲しいとは思っているものの、それでいいのかどうか。

 それには他の女中さんたちも言ってくる。


「いえ。坊ちゃまはあれで奥様には心を開いておりますから」

「今でこそ坊ちゃまは落ち着いてらっしゃいますが、お体が弱いせいで一時期荒れてらしたことがあるんですよ」

「どうしてこうも落ち着いて今の坊ちゃまになったのか、皆不思議に思ってらっしゃるんですから……」

「奥様の食事は喜んで召し上がるでしょう? それ自体私たちからしてみても奇跡になんですよ。どうせ倒れるからと、食事しないときのほうが多かったですから」


 皆が矢継ぎ早に教えてくる桃矢様の評価は、どうにも今私の知っている桃矢様と噛み合わない部分のほうが多い。でも。

 昼間にしゃべったときに、あまりにも桃矢様もお父様も彼方さんのことも部品のように表現していたのは、かつての桃矢様の一端なのかもしれない。

 どうして今の落ち着き払った桃矢様になったのかはあとで考えるにしても、今は桃矢様の食事のほうが大切だ。


「とりあえず……桃矢様の過去の詮索はおいおいにするとして。今は桃矢様の食事について考えたいんですが」

「そうですねえ……」


 女中さんたちは皆顔を見合わせた後、鍋を見せてくれた。

 本邸で用意されているそれは、どうも鶏ガラで出汁を取っていたようだ。


「それは?」

「西洋料理の出汁になるものですね。鶏ガラや野菜の皮などを煮詰めて濾しているものをコンソメと呼ばれる出汁にして、様々な料理に使います。特に西洋の汁物、スープには全てコンソメが使われるんですよ」

「なるほど……味噌汁には必ず出汁を使うのと一緒なんですね」


 中村家では、出汁はいちいち濾したり取り出したりせず一緒に食べるものだったけれど、出汁を取った具材は取り出したほうが食感がいいし見栄えもいい。

 もっともコンソメに使われている鶏ガラといい野菜の皮といい、見栄えがあまりにもよろしくないし、一緒に食べづらいから、この場合は濾して取り出してしまったほうがいいんだろうと思う。


「そして西洋には野菜を柔らかくなるまで煮込むスープがあるんですよ」


 女中さんが他に用意してくれた野菜は、カブ、ニンジン、ネギ。あと具材として鶏肉が用意されていた。


「コンソメスープを用意したら、あとは具材を切って野菜が透き通るまで煮込みます。ときどきアクを取りながら」

「アクですか……味噌汁をつくるときとはまた勝手が違うんですね」

「味噌汁に入れるような具材ではそこまでアクは出ないですから、取らなくっても問題ないんですけど。どうしても肉からはアクが出ますから。やってみますか?」

「やります」


 私は言われた通り、野菜をできる限り桃矢様が食べやすいように、火が通り安いようにと半月切りにして鍋に加え、鶏肉はぶつ切りにして入れた。

 瓦斯台に火を点け、少しスープを沸かしてみると、たしかにこんもりとアクが出てくる。それを取ってから、軽く塩をして煮込んでいくと、非常にいい香りが漂ってきた。


「本当でしたら、ある程度火が通ったら仕上げにソーセージを加えて、ソーセージに火が通ったところで止めると味が凝縮されるんですけど……坊ちゃまにソーセージは少々刺激が強いですからね」

「そんなに刺激が強い味なんですか、ソーセージって」


 ソーセージってなんだろうなと考えていたら、女中さんが見せてくれた。なんか肉が透明なものに詰まっている気がするけど、これなんだろう。

 私が見せられたものをきょとんとして見つめていたら「これ、豚肉と塩、ハーブを混ぜ込んだものを豚の腸に詰め込んだ保存食なんですよ」と教えられて、びっくりしてそれを見つめる。


「それ、食べれるんですか!?」

「でももつ煮込みは食べられるところでは食べられますから」

「そうなんですけど……あれ?」


 よくわからないけれど、とりあえず桃矢様だけでなく私にも刺激が強過ぎるだろうから、やめておいた。

 代わりに少し火を通しておいたジャガイモを加えて、それを離れにまで運ぶことにした。昨日と同じく、カートに鍋を乗せて運んでいく。

 柔らかくなるまで煮込んだ野菜スープ。それの名前は「ポテと申します」と教えてもらったので、ふたりで一緒に食べようと思った。

 離れに到着したところで、普段は閉め切っている戸が開いていることに気付いた。


「あれ、桃矢様?」

「ああ、お帰りなさい。いろりさん」


 普段だったらすぐに布団に入って寝込んでいる桃矢様は、着流し姿で庭を眺めていたのだ。たしかに戸を開け広げなかったら、庭なんて見られないけれど。

 私はどうにか鍋をかまどの前に置くと、かまどの火を熾してポテを温めはじめた。


「なにを眺めてらっしゃったんですか?」

「いえ。ただ今日はいつもよりも長い間起きられたので、普段家の者たちが見ているものを見たいと思っただけです」

「そうですか……」

「あなたは不思議ですね」


 突然にそう告げられ、私はどう返すべきか言葉が出なかった。


「どうなさいましたか?」

「いえ。自分はすぐ死ぬものだと思ったのが、妻まで娶ってしまったので、これはいよいよ死ぬに死ねなくなったと思っていたんですが」


 いきなりおそろしいことを言うので、私は悲鳴を上げそうになったが。どうも桃矢様の中では自分の寿命は世間話の一環らしい。いつもの穏やかな表情からなにひとつ崩れることはなかった。


「意外と生きているのも楽しいなと、思っていたところです」

「……私は、ただ嫁いだだけです。なんにも不思議なことはしてはいませんよ」

「あなたはそうかもしれまんが。自分にとっては大切なことだったんです……いい匂いですね。これは?」

「えっと……野菜の汁物で……ポテと呼ばれる料理です」


 桃矢様の分にはできる限り柔らかく煮込んだ野菜を入れ、私の分には鶏肉も添え、本邸でもらったご飯も盛った。

 ふたりで手を合わせて食べるのは、中村家では当たり前の光景だったはずなのに妙に面白く、私は何故か食べながら笑っていた。

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