第2話 またもやダーウィン賞
その予兆は、蠅だった。
「最近、やけに蠅が飛んでませんか?」
15時過ぎの、店の閉店後のこと。
今年この尼ケ崎信用金庫に入ったばかりで、大場支店の窓口のテラー担当の柴田青年は、今日の伝票を持ち込みながら、手で顔の前を払って口を曲げた。
「カウンターのお客さんにも言われちゃいましたよ。最近、このお店蠅が飛んでいるわよ。ちゃんとお掃除しているの? だって」
「あっそ」
見ない見ない、と心の中で念仏のように唱え、呼吸も押さえながら私は伝票を仕分けした。
そして、絶対に彼の背後を見ないように、顔を上げず答えた。
「外が暖かくなったからじゃないの」
私のつれない返答に、つるりん顔の、蠅どころか虫も飛ばない温室育ち、純粋培養の柴田お坊ちゃまの声が尖った。
「それにしたっても多いですよお。もしも僕のママがこの支店に来て、ハエが飛んでいるのを見たら『キャーッ汚いっ』って悲鳴を上げますよ。ママって綺麗好きだから、不潔で僕が病気にならないように掃除しにくるかも」
あのママならやりかねん。
この柴田の支店配属当初の場面を思い出しつつ、私は言った。
「ママが来なくても、支店の中は、定期的に業者さんに掃除を頼んでいるから綺麗なはずよ。蠅は外から入って来てるんだよ、きっと」
適当に答え、話を切り上げる。
「早く窓口の現金を合わせなよ。でないといつまで経っても帰れないよ」
柴田の気配が離れた。窓口の席に戻ったようだ。私はそっと視線を上げた。
……いない。消えたか。
ふう、と息をつく。
やれやれと肩を回してたら、二階の営業室からの内線電話が鳴った。
「はい、サカイ……」
『やあサカイ、助けてくれよ』
「岸さんか。何?」
『今日の営業の数字をシートに入力していたら、エクセルがフリーズしてさ、保存も出来ないし強制終了も出来ないんだよ。こっち来て何とかしてよ』
岸は2ヵ月前にこの支店に転勤してきた、私の同期である。
同期という事で、勝手に気安く思われた挙句、元の性格の図々しさの相乗効果で、何かあれば私を呼びつける。
かといって、断ったら後がねちねち面倒臭い。
しぶしぶ私は席から立ち上がり、同じ預金事務の後輩、雨田ことアメちゃんに後を頼んで、外回り営業の部屋がある2階に上がった。
「おーサカイ」
ドアを開けると、女客殺しと名高い岸が、爽やかに手を上げた。
「はっはっは、すまないね。この俺に逆らうなんて、このパソコンの性別は男らしいな」
「ぶほっ」
岸の背後が目に入った瞬間、私はのけぞった。
おもいきりバックステップ・廊下の壁に背中を押し付けた。
「それにしたってよお、何だよこのハエども」
顔の周囲を飛び回る蠅を手で追い払いながら、岸が顔を思い切りしかめている。
「……」
「おい、サカイ。何やってんだよ、早く俺のパソコン直せよ。でないと営業会議の資料が出来ねえから大迷惑だぜ。オマエ分かってんの?」
事務職よりも、外回りの営業の方が立場は上だと思い込んでいる男、岸の無礼千万どころか億兆な態度に怒れば良いのか。
それとも、岸にべったりと張り付いて、男の頬を舌で舐めている黒い女に恐怖すればよいのか。
蠅を従えて蠢く女に近寄るのは絶対に嫌なので、岸へ向かって「治してやるから、そのパソコンこっちに投げろ」なんて言えない。
さっきまで柴田お坊ちゃまをストーカーしていたくせに、いつの間にか2階に移動していたのだ。完全に不意を突かれた。
女に顔をべろべろ舐められているのを知る由もない、岸は苛立たし気に言った。
「おい、サカイ。何やってんだよ、使えねえ奴だな」
自分で直せ、そう言って逃げようとした矢先、誰かが階段を上がってくる足音。
突然、岸の背後の女が消えた。
門倉さんが、営業回りから帰社してきたところだった。
「ただいまあ……って、壁にへばりついて何やってんのよ、サカイ。壁画ごっこ?」
「か、門倉さん」
胸を撫でおろした私の横で、岸の声がした。
「あれ? パソコンが直った」
事の起こりは、5年前の夏に掛石麻由美という女子職員が、この支店で非業の死を迎えたことから始まる。
金融機関にとって日付に五のつく繁忙日だった。
仕事をさぼって建物の屋上に上り、パラソルを立てて白いビキニの水着に着替え、日光浴しながらビールをがぶ飲みして、何かのはずみで転落。
建物と建物の間に挟まって息絶え、一週間後に蠅がたかる腐乱死体となって発見された。
享年24才。
死に様から分かるように、脳内に巨大なラフレシアの花々が乱れ咲く女だった。
自称・姫君の気品と魔女のフェロモンを合わせ持つ、ゴージャスな金髪の夜会巻き……ではなく、金色のヤドカリを乗せた、本人的にはグラマラスな肢体・推定体重100キロ以上130キロ未満。
そんな彼女が、死んだからハイこの世から離脱、なんて素直なコースに乗るはずがない。
当然ながら、この世を彷徨っているというか、この支店内を死んだ時の姿で、半裸のビキニ姿で歩き回っている。
最初に遭遇した時は仰天した。
たっぷんたっぷんと浮遊するあんこ体系のビキニ姿は、恐怖よりも力が抜け落ちる代物だったが、死んだ後に自我を失ったのか、ぼんやりと歩き回るだけで別に悪さするわけでも無いし、私の家までついてくることはなかった。
最初はお祓いすべきかどうか悩んだが、無害だし、金がかかりそうだし、これが元で心霊商法にでも引っかかったら目も当てられない。
第一、 仕事が忙しいのだ。
今の世の中、インターネットバンキングとかビジネスサイトで、来店せずともスマホかパソコンでサービスも完結できるようになった。
しかし、この支店のエリアは高齢者が多く、時代についておけない客たちが、入出金だの振込だのといってわざわざ店にやってくる。
そんな中で働いているわけだから、日々は正に身を切るリアル。
席の後ろで幽霊がゆらゆらしているくらいで、計算を間違えるわけにいかない。
私は割り切った。
歩き回るくらい勝手にしろ。
心霊スポットへ行けば幽霊なんかわんさといるし、文芸には実話怪談というジャンルもあるのだ。
この世の亡者に、麻由美一人増えたくらいどうってこともない。
問題はただ一つ、うろつく幽霊・麻由美の姿が私にしか見えていない。
それだけだった。
パソコン直ったからもういいよと、掃除後の使用済み雑巾のように岸に追い払われた私は、店の一階に戻った。
アメちゃんと柴田は、まだ今日の勘定を合わせている最中だった。
「蠅が入金機の中に落っこちたら、機械が壊れちゃうよ」
「やばーい。実はこれ、ベンツ買える値段でしょ」
後輩たちの笑い声が響く天井に、大きな蠅がぶんぶんと飛び回っている。
柴田の言うとおり、最近蠅が増えてきた。
そして、麻由美が柴田の頭上を、獲物を狙うトンビのごとく旋回している。
「やだなあ」
思わずつぶやきが漏れた。
何だか最近、麻由美の姿が、死にたての頃ように濃くなっている。
5年前に出現した麻由美だが、その後、数年の時がたつにつれて、徐々にその影は薄くなっていたのだ。
建物と建物の間で、腐乱死体を餌にして大繁殖していた蠅もすでに駆除は完了しているし、蠅もいないはずだ。
それなのに、蠅が飛び始めて麻由美の存在感が濃くなってきた。
まさか、復活するなんてことはないけど……イヤな予感がしていた。
だが、その予感は当たった。
「ぎゃあああああああああああっ」
数日後の営業終了、シャッターを閉めた後に店内に響き渡った絶叫は、上げた柴田本人より、聞かされた方の心臓が止まりそうな大きさだった。
柴田は窓口の現金を合わせている途中、床に硬貨をぶちまけて、机の下に潜って探していた最中だった。
「どうしたシバタ!」
事務の課長が声を上げた。
柴田は腰を抜かし、泡を吹きながら机の下を震える指でさしている。
「ふ、ふろ、ふろ、おおおおんな」
「は?」
「おんにゃ、おんにゃのかおおおおっ」
「何を言っとる、しっかりせんかい……うわわっ」
柴田を引き起こそうとした課長が、悲鳴を上げた。
黒い点々が、柴田の机の下から、ごうっと渦巻くように飛び出した。
点々は蠅だった。吹き荒れる嵐のように、課長の顔を次々と直撃しながら、羽音を立てながら舞い上がる。
「やだあっ殺虫剤!」
天井を埋め尽くす勢いの蠅群に、アメちゃんが悲鳴を上げた。
誰かが殺虫剤を求めて倉庫へ走り、誰かが蠅を外に追い払おうと、窓を開けようとする。
私は、柴田の机の下を見て動けなくなっていた。
机の下の暗がりに、顔があった。
掛石麻由美の溶け崩れた顔面が、蠅と共に机の下でうねうねと蠢いていて、柴田の足を掴もうとするかのように、手を伸ばしている。
「わ、あああああわわ」
泣き声を上げながら、机から遠ざかろうとする柴田の狂乱に、何が起きたのだと他の職員が駆け付け、柴田をなだめたり揺さぶったり。
その時、麻由美の声が聞こえた気がした。
蠅の羽音がそう聞こえたのかのかもしれない。
でも、確かに私の耳には聞こえた。
ぐふふふふぅんという、麻由美の笑い声が。
※
麻由美の姿は、私にしか見えていない。
なので、私も自分が見たものを皆に話そうにも話せない。
何しろ今までだって、麻由美の幽霊のことを誰にも相談しなかった。
第一、 見えているのは私1人だ。
見えない人にとっては、相談されても困る内容だろう。
当然、周囲は柴田が原因不明の発作を起こしたのだと思っていた。
そして彼のママが、怒りの炎を口から吐きながら支店に来襲してきたのは、柴田が病欠2日目、店のシャッターが開いた瞬間だった。
「ウチのキララちゃんに、一体何が起きたんです!」
応接室のドアを突き破るママの怒声。
私はドアの前で、来客用のお茶の盆を持ったまま固まっていた。
「先日何があったのか、ベッドにもぐりこんで部屋から出てこないんです! 聞けば、キララちゃんの椅子の下に、ぶくぶくに膨れ上がったハダカの女がいたというじゃありませんか! その女は一体何なのです! そんな破廉恥な女がこの店にいるなんて、ここの社員教育はどうなっているの! あれ以来、キララちゃんは、こわいこわいとか、蠅だとか、可哀そうに泣きじゃくるばかり……その女をここに引き出してきなさい!」
支店長と副支店長の狼狽と困惑と恐怖が伝わってくる。
「知らないですって? しらばっくれてもダメですよ! よくも私の宝物を……っあんたたちは悪魔だわ! 今に裁きが下されますわ!」
ママの怒りの泣き声を聞きながら、私は彼女がここに来た最初の訪問、柴田の着任初日を思い出した。
どこぞの深窓の令嬢として育ち、恋を知らぬままに親の定めた許婚と結婚したんだとか。
贅沢で豪華な檻の中で、娘として、その後は妻としての人生しか知らなかったけれど、宇宙神とコンタクトが出来る素晴らしい方と出会い、師の予言通り、玉のような男の子を出産したのだとか。
息子の名前の「希星」キララは、私の希望の星という意味である……ということを、この応接室の中、支店長の前で一時間以上にわたって語り続け、締めくくりは。
「私の大事な宝物を預けます。キララを通じて、あなた方に神のご加護がありますように」
――私は、ドアからそっと下がった。
今お茶を持って入ったら、ママに湯飲みとお盆を奪われて凶器にされそうなので、給湯室に戻ろうと、回れ右をする。
門倉さんと岸がいた。
岸田ママのあまりのうるささに、2階から降りてきたらしい。
岸は廊下にわんわんと響き渡る泣き怒鳴り声を、面白そうに聞きながら言った。
「柴田のママ、朝からすげえなあ。あれじゃ声が営業ロビーにまで響いているぞ」
「アレを止められたら、見直してやるわよ。岸」
マダムキラーと自称する岸へ言ってのける私に、門倉さんが便乗する。
「そうだな。今から応接室に押し入って『奥さん!』とかいってたらし込んで来い。アンタ、営業エリアの年増相手に、片っ端から枕営業しているらしいじゃん。客に性病うつすなよ」
私はお茶の入った湯呑を2人に差し出した。
「飲みます?」
今日はロビーの客は少ない。
柴田希星はいないので、テラー窓口は一人だが、アメちゃんもいる。
少しさぼっても大丈夫だろう。
「で、何? 柴田が何か妙な事口走っているんだって?」
「はあ」
門倉さんと私の横で、岸が首を傾げた。
「しっかし、何だって机の下で、蠅があんなに湧いていたんだ? 宝物の柴田キララちゃんの足の匂いか? そういえば、蠅というと……」
岸は私を見た。
「サカイ、昔ここにいた掛石って人が、この店で死んだんだってな? 死んでからもしばらく見つけてもらえず、蠅がたかって凄かったって?」
げ、なぜ今そんな話をする?
私の肝が瞬間凍結を起こした。
門倉さんが思い出し怒りの痙攣を始める。
無理もない。
掛石麻由美は、門倉さんにとって歩く災厄だった。
犬猿どころか親の仇以上、この2人を和解させたらノーベル平和賞を受賞できると言わしめた関係だ。
麻由美が死んだ当初も大迷惑と混乱を極めたが、そんな事態の中でも門倉さんは哀悼の意を表明するどころか、怒髪天状態で死者を墓場から引きずり出して殴り倒す勢いだった。
もしも、麻由美の幽霊がこの店の中を彷徨っていると知れば、聖水という名のガソリンを店にぶちまけ、浄化だと叫んで火を放つに違いない。
そういう理由で、門倉さんに麻由美の幽霊の事は一切話したことがない。
「さあてね」
門倉さんに放火をさせないために、私はとぼけた。
あれから時は5年経った。
店の中では転勤だの退職だの異動だと言って、随分人が入れ替わった。
今では店の顔触れはすっかり変わって、店の中で当時を知るのは、変わらぬ私と門倉さんだけだ。
門倉さんは預金事務から外回りの営業になったけれど。
「なあ、そいつ、どんな死に方したんだ? ここで職員が死んだって話は有名なんだけど、細かいとこは、俺の先輩に聞いても教えてくれねえんだよ。噂じゃ、存在そのものがヤバい奴だったらしいじゃん。そんな奴が妙な死に方して、関係者が全員口をつぐんで話そうとしない。事件そのものがアンタッチャブルで、そいつの死に様を口に出すのは、この信金全体の禁忌だっていうじゃん。なあ、祟りでもあるのか? 教えろよ」
目を下世話に輝かせ、好奇心丸出しで食い下がる岸。
一方で、門倉さんが発散する不気味な怒りを感じながら、私は天を仰いだ。
禁忌も何も、あんな死に方を人に話すこと自体が、死者の恥というか良識への冒涜というか神聖な職場への不敬というか。
他人事ながらあまりに無様で、己の口で語るのも愚かでしかも同情も出来ない、輝けるダーウィン賞受賞者なのだ。
「掛石って女のSNS見たけど、金色のウンコ乗せた超デブ女だろ? やばいオーラが……」
「もう仕事に戻りなさいよ」
空になった岸の湯飲みを奪った時。
ドアを叩きつける音が響いた。廊下の突き当りにある備品倉庫だ。
大音響と共に倉庫のドアが開いた。
その奥から飛び出して、こちらに向かって津波のように押し寄せるのは、何と蠅の大群だった。
「げええっ」
岸が声を上げた。
「うわっ」
門倉さんが頭を覆う。襲い来る蠅の大群の中で私はうずくまった。
耳元で狂暴な羽音がウンウン唸る。口を開けたら蠅が飛び込んでくる。
備品倉庫に今、人はいない。
しかも鍵がかかっているのに、どうして勝手に開いた?
岸のひしゃげた悲鳴。顔を上げた私は、目を疑った。
岸が空に浮いている。
そして蠅の大群に運ばれるようにして倉庫へ吸い込まれていく。
岸が倉庫に吸い込まれた時、音を立ててドアが閉まった。
「岸っ……っ」
門倉さんの叫びが止まった。
私も愕然となる。
蠅の群の塊が、はっきりとした意志で、何かの形を作り始めた。
黒い蠅の塊のはずなのに、私の網膜に映るそれは、半裸で白いビキニの下をつけた、鏡餅……じゃなくて女の像が結ばれている。
『ぐふふフフフふううううん』
響き渡るのは蠅の羽音ではなく、麻由美の笑い声だった。
岸の絶叫が倉庫から聞こえてくる。
「岸!」
蠅をはらいながら叫ぶ私の横で、愕然とした門倉さんが麻由美を見ていた。
「門倉さん、手伝って下さい!」
私は倉庫のドアノブを掴んで引っ張ったが、開かない。
ノブを壊れるほど回してもダメだ。岸の悲鳴が中から聞こえてくる。
そして麻由美の笑いが、私の耳元で唸っている。
麻由美の黒い像が崩れて、天井に舞い上がった。
「おい、何事だ、何が起きている!」
騒ぎに驚いて出てきたのか、応接室にいたはずの店長と副支店長、しかも柴田のママまでがいた。
そして3人は、天井に溜まる蠅の大群を見て目を剥いた。
「ひぃぃっあれは!」
柴田ママが悲鳴を上げる。
天井の蠅の大群が、麻由美の顔になった。
そして、顔は『にたあ』と黒い笑いの形に歪んだ。
「な、なんて恐ろしい……あれだわ、あのビキニの下しかつけていない、ぶくぶくに肥った淫乱な格好のど下品な女が、キララちゃんを襲ったのね! 私には見える、あの女の爛れた闇と、際限なく垂れ流される邪悪さが……」
あれ? 柴田ママってば、そこまで麻由美が見えるの?
見える仲間がいても、うれしくないのが残念だ。気の合う相手じゃないし。
蠅の大群で出来た麻由美の顔が崩れた。
蠅たちが、こぞって天井のダクト内に吸い込まれていく。
しばらくして、ロビーの方から悲鳴が起きた。
私たちはロビーへと走った。
そこで見たものは、ダクトからロビーに侵入した蠅の黒い大群、そして蠅に襲われて逃げ回る客と職員が織りなすパニック。
重なる悲鳴と泣き声、阿鼻叫喚。ぶんぶんと唸り続ける蠅の羽音。
蠅の頭は、麻由美だった。
私の背中に、氷の剣山が突き刺さった。
※
麻由美の猛襲はそこから始まった。
まるで息を吹きかえしたようだ……亡霊にこの表現を使って良いのか分からないけれど。
今、支店内は蠅に支配されている。
カウンターや客椅子の上には常に数匹の蠅が歩き、伝票台にもボールペンにも蠅が止まっている。
しかも、来店客の中に、掛石麻由美の亡霊を目撃する人まで出てきた。
「柱の陰から、パンツ一枚の信じられないほど太った痴女がこちらを覗いていた」
あの店の衛生はどうなっているのだと、大量の苦情が本部に入ったせいで、保健所の人間が検査に来た。
真っ先に疑われたのは二階の食堂で、蠅が大量に湧いた原因を疑われた食堂のおばちゃんは大激怒、やめるやめないの大騒ぎである。
当然、麻由美の事件を知っている客もいるから、あの事件の事を蒸し返されたりする訳だ。
おかげで、尼ケ崎信用金庫大場支店はオオバではなく、オバケ支店と噂され、客が寄り付かなくなってしまった。
数日後、支店の女子更衣室。
麻由美の幽霊の姿が見えていたことがバレた私は、門倉さんに胸元を掴まれていた。
「サーカーイ……あんた、知っていたなら、なーんーで―早く言わなかったあああ」
「だ、だってえ」
「あいつがここにのさばっていたと知っていれば、あいつに自家製のガソリン入り聖水ぶっかけて、浄化の炎で焼き払ってやったのに!」
「そういうと思ったからです」
ところで、見えない力によって、総務の倉庫に閉じ込められた岸は数時間後に救出されたが、発見された時の姿は悲惨の一言で、何故かワイシャツやズボンも引き裂かれた下着姿、全身にキスマークというか、赤い烙印があちこちに押されていた。
あれから熱を出して寝込んでしまい、ずっと欠勤が続いている。
「やめてくれえ」「いやあああ」とか、悪夢の中で何かに襲われているらしい。
「何にせよ、この店は今、呪われているんですよね」
アメちゃんがブルっと身震いした。
「その、5年前に変死した掛石って女性の怨念によって、私たちは……このままでは……」
霊能力者が言うには、このままでは悪霊の呪いによって、店の者全員が恐ろしい運命をたどるしい。
それ以前に、店に客が寄り付かなくなってしまい、営業成績がガタ落ちしている窮状が目の前にあるんだけど。
「生前から私たち、彼女から恐ろしい目に遭わされ続けていましたけどね」
「あー、ぶっ殺してやりたいけど、もう死んでいるしね」
ふー、とため息が2人分もれた。
あのう、とアメちゃんが嘆いた。
「その麻由美って人の霊をお祓いするのが、あの柴田ママのいう大尊師って……上手くいくんでしょうか?」
「偉大なる霊能力者にして、大宇宙神とコンタクトできる唯一の地球人、マーガレット・聖華大尊師先生ですからねえ」
思わず、遠い目になってしまう。
麻由美の姿を目撃し、5年前の事件を知った柴田ママは、恐怖した。
さまよえる悪霊がこの支店に住みつき、呪いと禍の中に取り込もうとしている、このままでは、愛する息子まで犠牲になると考えたのだ。
よって、悪霊を追い払わんと、ここに連れてきたのが件の人物、その名はマーガレット聖華大尊師である。
本名は小山たまよ67才。
この支店の預金顧客でもある。
「この世の恨みや悪意を持つ霊を光の力で浄化し、愛という豊饒な土に平和の花々を咲かせる、それがワタクシ、マーガレット聖華がこの世に生まれた使命なのです。宇宙神の使いにして、俗世の欲を捨てたワタシ、さらに聖なる剣を心に持つワタクシに、敵う悪霊などおりませぬ。ぬほーほほほほほほほほっ」
そう誇らしげに言い放ち、笑い声を響かせたマーガレット聖華大尊師だが、見た目はこの世の超越者か、異常者か、私には判断がつきかねる。
俗世の欲の象徴、脂肪と糖分で出来上がった金髪ツインテールのカバが、全身フリルひらひらの白いドレスを着て登場したのを見て、ダンプカーがぶつかって来た衝撃を受けた。
脂肪でふやけた首にも手首にも、水晶と黒水晶の大粒が数珠になったものを巻きつけて、しわの上には、白の上に赤と青のクレヨンを塗ったような化粧。
柴田ママによると、尊師のその破壊力ある衣装も、高潔だの無垢だの、一つ一つの意味があって、黒水晶は魔を払い、白水晶は空間の浄化を図るためらしいけれど、ただ怪しいことこの上ない。
しかもあの垂れ流しのナルシズムは既視感があった。
掛石麻由美と同じ人種だ。
アメちゃんが言った。
「でも確か、あの人テレビに出て一時期物凄く話題だったんですよねえ。霊能者として、テレビの取材や週刊誌にも載ったことあるし『宇宙神からラブラブきらきらメッセージ』とか『あなたもガンバレば霊が視える!』とか、本も出していましたよ。それに支店長が……」
「支店長ね」
私は呻いた。
支店長は超がつく現実主義で、大尊師が例えマスコミに登場した霊能力者であっても、やらせだインチキだと最初は全く信じていなかった。
それでも、この事態の収拾のつかなさ、そして柴田ママの説得に負けて、支店の応接でイヤイヤ大尊師と会ったのだ。
ところが、その大尊師の口から、自分のボケ気味の母親の事や、過去のアヤマチだの悪事だの、出世のための裏工作だの、家庭内の娘と息子の同時多発反抗期だのと、秘密と過去をズバズバ言い当てられ、すっかり小山たまよ……マーガレット大尊師の信者に堕ちてしまった。
『この店の危機を救って下さるのは、マーガレット聖華大尊師以外いない!』
支店長のこんな号令の元、さまよえるオランダ人ならぬ汚乱堕人、掛石麻由美の悪霊を彼女の力で祓うことが決定された。
アメちゃんが天井を見上げた。
「霊能力の持ち主だから、人格も高尚とは限らないですよね……知ってます? あの大尊師って霊能力は本物でも、性格的には超問題じゃないですか。テレビの出演料値切ったテレビのディレクターとか、インチキ扱いの記事を書いた記者を呪って事故に遭わせたっていうし、番組の中で自分を馬鹿にした学者グループは集団食中毒に遭うし、地元近所でも評判高いっていうより恐れられている人ですよ」
「知ってる」
営業回りの門倉さんは肩をすくめた。
「集金先でも色々聞くもん。あの婆さんの悪口言ったら呪われるってさ」
誰それは3才児の乗る三輪車にぶつかって、なぜか両足複雑骨折だとか、何とか家は35年ローンの新築の家を心霊スポットにされたとか。
「あの婆さんに娘がいるんだけど、超毒親らしいね。好きな相手が出来ても、結婚して出るのを許してもらえず、男も次々と事故に遭ったりで逃げ出してしまうとか」
「店の窓口に来るのは、その娘さんですよね」
私は娘らしき四〇代の女性を思い出した。
数ヶ月に一度、普通預金から定期預金の振替手続きに来店するのだが、彼女が店に入ると、店の照明が二段階暗くなる。まさに不幸を煮詰めて瓶詰めにしたかのような佇まいなのだ。
今はネットで定期預金も簡単に手続きが出来るが、わざわざ窓口に来るのは景品目当てらしい。
「それにしたって、お祓いに150万も払うのか」
しみじみと言うしかない。
アメちゃんも頭を振った。
「そうですよねえ……掛石さんの悪霊だけじゃなくて、400年前は戦場だったこの地そのものが邪悪な気に包まれ、しかも私たち職員までもが、先祖とか前世でそれぞれ罪深い合を背負っている、その汚れを祓うための対価だとは言われても」
うそくさい。
本物の霊能力者でも、口から出る言葉が真実か否かは別問題だし。
「それより、そんな大金誰が払うんですか? 経費で払うにしても、そんな大金は本部決裁です。許可が下りるかどうか……あの、そうだ」
アメちゃんが私たちを見た。
「その、死んじゃった掛石麻由美って人の、家族に代金お願い出来ないんですか? 娘の供養になるんだし、もしかしたら払ってくれるかも」
「あ、ムリムリ、今は行方知れず」
門倉さんが頭を振った。
いくつもの飲食業を経営し、羽振りが良かった掛石家だったが、店で使う食材の産地偽造と消費期限切れの使い回しと食中毒がトリプルで明るみになり、とどめに脱税が発覚して3年前に会社が倒産・夫婦で夜逃げしてしまった。
「たい焼き和尚に頼めばよかったんじゃないかなあ」
アメちゃんが言った。
「供養とかお祓いするなら、たい焼き和尚でも良かったのに。そこの商店街に行けば会えるじゃないですか」
アメちゃんの言うたい焼き和尚とは、支店の近所にある善行寺の住職である。
甘いもの好きで、袈裟と衣の姿のままで、商店街の鯛焼き屋に並んでいるのを見かけるため、近所では『たい焼き和尚』と呼ばれている。
その和尚の寺には、心霊スポットで肝試しや悪ふざけのせいで、災難や祟りに見舞われた不良少年たちが門前市を成しているのが夏の風物詩。
子供が払える範囲のお代で仕事をしてくれるようで、しかも実績もある和尚だ。
確かに適任者だと思ったのだが。
「何てこと言うのよ」
門倉さんが言った。
「あの和尚はな、お経をあげて迷える霊を成仏させるついでに、問題児たちに仏の道を説いて改心させた挙句、修行僧に仕立て上げ、総本山に送り込むことでも有名な人だぞ。そんな人に頼めるか」
「そんな人に頼めるかって、それを聞くと、徳の高さは和尚が上……」
「相手はただの悪霊じゃない。彼の身に何かあったら、未成年の更生率がガタ落ちする。どっちに頼もうが、アイツがいなくなればそれで良い。どうせ払うのは会社の金よ」
その通り、どうせ払うのは会社の金。
その点では、私も門倉さんと同感だった。
麻由美が消えてさえくれればそれでいい。
あの大尊師だろうとたい焼き和尚だろうと、結果が同じならそれで良かった……はずなんだけれど。
何と、150万円のお祓い費用が、経費で払えなくなったのだ。
同じ経費でも、交際費とか文具品とか什器類とか、数万程度のものは支店長のハンコ1つで終わるけれど、修繕費や設備の費用、ハード面に関する大きな費用はそうもいかない。
申請を回して本部にお伺いを立て、承認がいるのだ。
当然、その手続きも色々煩雑で、支払うに至った経緯だの料金が妥当かとか、支払う相手は反社会的組織が絡んでいないかとか、色々稟議しなくてはならない。
だけどこの場合、まさか150万の出費に「お祓い費用」なんて馬鹿正直に申告出来るはずがないので、建物の衛生費として「蠅の駆除費用」としたところ、「高すぎる」と却下されてしまった。
しかしその間も、店内はロビーから更衣室まで大量の蠅が渦を巻いていた。
麻由美の呪いはそれだけではない。
給湯室に保管していたお菓子が何者かに食い散らかされた。トイレの便座が目の前で突然音を立てて割れ、伝票の束がふわりと空を飛んで、まるで自殺するように次々とシュレッダーの中に飛び込んだ。
その現象と共に、必ず聞こえてくるのは『ぶふふふううううううん』という麻由美の笑い声だった。
そしてある日の深夜の支店内ロビーにて。
私たち大場支店の職員たちは全員集合していた。
そして全員がリノリウムの、冷たく硬い床に、直に正座させられている。
昼間の労働に続いて、帰宅も許されずに集団正座。
しかも、目の前には松明がごうごうと燃えている。
スプリンクラーを切って、店内ロビーで火を焚くなんて、消防法的にどうなんだと文句を言えるものは1人もいない……それ以上に、前にいる人物に逆らうことは許されなかった。
「ぬほぉほほほっ皆の衆、さて始めるぞよ」
目の前にいるのは、白い鉢巻き、白装束を着た金髪ツインテールの白いカバ……ではなくてマーガレット聖華大尊師である。
「良いか、皆のものよくお聞き! これより、そなたたちが背負う業、そしてこの呪われた地の穢れを祓い、そしてこの場で非業の死を遂げ、さまよい続ける女の悪霊を、この偉大なる霊能力者、マーガレット聖華が祓い清め、そして昇華させてみせようぞ! その勇姿、しかとそのマナコに焼き付けよ!」
「ははあっ」
マーガレット聖華の信者、支店長がひれ伏した。
「なにとぞ、なにとぞ我が店をお救い下さい!」
ふわはははと、マーガレット聖華が悪役の高笑いした。
「我に不可能はない、全ての悪と魔は、わらわの正義の光の元、地獄に送りこまれるのじゃああ!」
マーガレット聖華の助手を務めるのか、その傍らにいる白装束の娘、タマコがぼんやりと付き添っている。
支店長以外の職員は、蠅があちこちに溜まっている天井を疲れた顔で見上げた。
お祓い代金150万円捻出のために、支店総出で裏金作りに加担したのだ。
架空の接待でっち上げ、架空の文具品購入、架空の町内会寄付金、支店長決裁で出せる経費をいくつも作って150万円を作った。
本店の監査でバレたらどうする、コンプライアンス上でもマズイと猛反対し、大金がかかるマーガレット聖華ではなく、良心的価格+本堂と庭の掃除の手伝いで仕事をしてくれるたい焼き和尚に頼もうと、部下一同一丸となって訴えた。
特に門倉さんに至っては「あんな奴のために手を汚したくない」とまで抵抗したのだが、マーガレット教信者となった支店長はガンと言って聞かず『俺の命令が聞けないなら、人事評価を落とす』と恫喝されてしまった。
手足をぶんぶん振り回し、準備体操を始めるマーガレット聖華へ、わたしはおずおずと聞いた。
「あの、質問いいでしょうか?」
「なんだ」
カバが、いや、マーガレット聖華が私を睨んだ。
「あの、何で今更、掛石麻由美の霊が暴れているのでしょうか? 死んで……いえ、亡くなった当初は、大人しかったんですけど」
「そりゃ決まっておろう」
しれっとマーガレット聖華が言った。
「己の存在アピールじゃ」
「は?」「は?」私と門倉さんの異口同音である。
「この悪霊の獰猛さからするに、生前から目立ちたがりとナルシズムで出来上がっていたのじゃ。それが時がたつにつれ、皆が自分の事を忘れていく。それが耐え切れなかったようだな」
思わず、門倉さんと顔を見合わせた。
「おまけに自分好みの男がこの店に入って来た。それも引き金となって、民に己の存在を思い知らそうとしたのだ。ふほほ、オロカな奴よ。さて、始めるぞよ」
手にしているのは、神楽鈴という大量の小さな鈴をつけた棒である。
それをバットのフルスイングの勢いで鳴らし始めた。じゃらジャラじゃらジャラしゃらんじゃららんらあああんと鈴の音。
そして、祝詞が始まったのだが……
「ばーらいだーばえぎぃょめたーまえええええええっ」
祝詞というのは、私たちにとって意味は分からなくても、清らかな流れのごとき、厳かな響きの神と人間をつなぐ言葉である。
だが、いま私たちが聞かされているこれは、そんな荘厳さはない、狂った音程と暴力的な鈴が織りなす、ジャ●アンの歌に匹敵する音響兵器だった。
そっと周囲を伺うと、クラシック愛好家の山田課長は白目を向いているし、ピアノを習っていたアメちゃんは失神しかけている。
職員たちの聴覚を揺るがせ、音感を破壊しながら、マーガレット聖華がどすどすと足を踏み鳴らし、松明と床を震動させながら、祝詞を雄叫びでぶちかます。
だが、天井から蠅の死骸が、皆の頭上に雨のように降り注いだ。
肩や頭、おまけに襟もとから首筋に蠅が落ちて、ギャッと叫びかけたが、効いているようだ。
「おおおう、出たか!」
マーガレット聖華が叫んだ。
「見よ! あれが悪霊じゃあああっ」
天井の蠅の一匹一匹が点描となって像を結んでいる。
皆が絶句した……掛石麻由美。
蠅の羽が金色に反射して、金色のウン……いや、夜会巻きを作っていた。乳房というより肉山。垂れ下がった腹の肉にだぶだぶとした脚まで、忠実に再現している。
うぶぶぶぶぶぶぶぅんと麻由美の顔が歪む。
その禍々しさは、正に生者ではない。私たちはひええと正座したまま後退した。
「ついに現れおったか! 怖れるな! 皆のもの!」
マーガレット聖華が怒鳴り、ごうごうと燃える松明を示し叫んだ。
「この聖なる松明が燃えている!この炎が燃えている間は、この悪霊とて我々に手が出せまい! わらわの前に姿をさらしたが運の尽き!……タマコ!」
マーガレット聖華が、タマコ……連れてきた娘に怒鳴った。
「あれをよこせ!」
娘がバケツに入った水を捧げ持ち、マーガレット聖華に渡した。
「くらえ、聖水じゃあ!」
そのバケツを持って身構えるが、はて、聖水ってキリスト教じゃないの?
「偉大なるわらわの全身を清めた後の水! この水は魔を祓い、場を清め、悪意ある念を流すのじゃあ!」
「げっ」
職員一同の膝が、さらに後退した。
つまり、風呂の残り湯ではないか! 店の中にそんなばっちい水をぶちまけるな!
「ほおれ!」
マーガレット聖華が跳躍し、麻由美へ向けてバケツの水をぶちかました。
ぶわっと麻由美がぶれた。悲鳴が聞こえた気がした。
「うほほほほ、効いておるわ! そらそらそらあ!」
水はバケツだけではなかった。
なんと水風船まで取り出して、麻由美へ向けて投げ付ける。
「水は幾らでもある! 皆のもの、わらわに習って、この聖なる武器で悪霊を追い込めよ!」
娘・タマコが無表情に私たちの前に、バケツてんこ盛りの水風船を置いたが、正座で足がしびれて立てない。
それ以上に、店の床を風呂の残り湯で水浸しにしたくない!
ぶうぉおおおんと響き渡る音は、蠅の羽音なのか、麻由美の断絶なのか。
「もうすぐじゃ、もうすぐ終わりじゃ! ひひひひひひっ」
びしゃびしゃと音を立てて、マーガレット聖華が神楽鈴を振り回しながら店中を走り回り、後ろからタマコが風呂水をまき散らしながら走る。
「それぇっ」
じゃかじゃかと鈴を鳴らし、水風船を手に、さらに大きく振りかぶった。
その時。
「ひぃえっ」
濡れた床の上で、マーガレット聖華のバランスが大きく崩れた。
そして、よっととおと言いながら体を立て直そうとして、またバランスが崩れる。
そして。
「あぁわっ」
仰向けにひっくり返った。
後頭部を床に思い切りぶつけ、ごぅん、と鈍い音。
そして、動かない。
「あの、大尊師様?」
痺れた足で、支店長がにじり寄った。
動かない。
支店長が、口をぱくぱくと開け閉めした。
「……しんでる」
「ええええええええっ」
皆の悲鳴が店を揺るがせた。
「ちょ、ちょっと、この後どうすんのよ!」
私はタマコに怒鳴ったが、タマコもあっけに取られて放心している。
「お祓いは終わってないんでしょ!」
「やだあ! 松明が!」
アメちゃんが絶叫し、そして皆は絶句した。
松明が消えている。マーガレット聖華が振りまいた風呂水が火を消したのだ。
松明が消え、術者も死んだ。
愕然とした中、誰かが叫んだ。
「おい、あれ見ろ!」
巨大な麻由美の顔があった。
憤怒と、そして嗜虐と復讐に蠅の群が歓喜して飛び回っている。
真っ黒い竜巻が迫ってくる。
蠅の塊の中で窒息させられる、私は直感した。
その時。
「てめえ、ざけんじゃねえ!」
声の雷鳴が轟いた。
「いい気になりやがって! もう貴様は死んでいるんだ! ゆーれーのくせに人間サマに逆らう気か、このくそったれ!」
「か、かどくらさん!」
ひいいいと悲鳴が轟く中で、門倉さんは死体から神楽鈴をもぎ取り、剣豪のごとく身構えた。
「ぶった切ってやる!」
その時、私の脳裏に走馬灯が走った。
麻由美の無断欠勤で、仕事が倍になった門倉さん。契約書を書き損じた麻由美のせいで、客に頭を下げて印鑑をもらい直す門倉さん。
宴会中、高価なバックに麦焼酎をかけられ、処理した伝票を溶けたチョコでべたべたにされ、トイレの流し忘れに、買って来た来客用の高級菓子を盗み食いされ……
ぶおぉおんと、麻由美が気圧されて歪んだ。
「斬!」
疾風怒濤、正に斬撃だった。じゃりぃいいんと鈴が鳴り響く。
私たちは見た。
神楽鈴から、放射線のように光が放たれるのを。
その光が通過した時、蠅で出来た麻由美が胡散霧消し、散り散りになるのを。
――風呂水によって、びしょ濡れの床。そこにへばりつく大量の蠅の死骸。
消えた松明、転がる死体。
職員一斉に、支店長へ顔を向けた。
そして聞いた。
「……この後、どうするんです?」
その後、支店は混乱と騒動のカオスの舞台だった。
店内の監視カメラの映像が決め手になって、マーガレット聖華大尊師こと小山たまよ67才は事故死で処理されたが、その監視カメラ映像を何者かが流出させて、『封印・見たら死ぬ呪いの映像』として世間に出回った。
確かに、己のぶちまけた水に滑って頭をぶつけ、打ちどころが悪くて死ぬなんて、 呪いとしか言いようがないアホな死に方だ。
尼ケ崎信用金庫大場支店ならぬオバケ支店は心霊スポットとなった。
今では昼間の来店客より夜の肝試しのほうが人数を上回るだろう。
しかも、『マーガレット聖華大尊師・最期の地』として信者どもがロビーに押し寄せ、慰霊碑を置きたいとか抜かし……いや、店に懇願が来ている。
「……まあ、それでも、もう怪奇現象と蠅はいなくなりましたから」
アメちゃんが、カウンターに座って伝票を打ちながら朗らかに言った。
「ロビーも落ち着きましたし」
昼休憩で、窓口担当の2人がお昼に行っている代わりに、私たちが窓口にいた。
カウンター越しに見えるロビーは、定期預金を預けに来た客が1人と、もう1人いるくらいだった。
もちろん、風呂水と蠅も掃除しているし、狂ったアイドル握手会のような事態は終わり、穏やかな時間がある……と言いたいけれど。
私は、ロビーの真ん中を見ながら言った。
「支店長と柴田くんはどうしているかな」
お祓い費用150万円捻出に、部下たちに不正な伝票操作を命令したことが本部にバレて、支店長は降格の上、子会社に移動になった。
柴田くんは、看病のために休職。マーガレット聖華大尊師を失った柴田ママが、ショックのせいで寝込んでしまったせいだ。
「あれ以来、岸さんは女性恐怖症になっちゃいましたしね」
「それはハッピーエンドだわ」
背後から門倉さんの声がした。
顧客から預かって来たらしい定期積み金の申込書を3件置くと「処理よろしく」と足取り軽く去っていく。
宿敵に勝利し、結果的に店を救った彼女こそ、ハッピーエンドの人だ。
そして私だけれど。
「サカイさん、どうしました?」
「いや、別に」
やっぱり、私にしか見えていないのか。
ロビーで取っ組み合う、金髪のウンコ頭と、金髪ツインテール。
お互いの首を締め合い、殴り合い、ロビーの端から端までどこまでも床の上をごろごろ転がっている。
ため息をついた時、目の前に客が立っていた。
「すみません、預金の相続手続きをお願いしたいのですけど」
「あ、いらっしゃいま……」言いかけて、言葉を失った。
あのマーガレット聖華大尊師こと小山たまよの娘、タマコだった。
今、目の前にいるのは不幸の人間型ではなく、明るい顔色の女性だった。
同じ人間なのに、顔つきが全然違う。
小山タマコは、母親名義の預金通帳や証書一式と書類を出して私に言った。
「……見えているんでしょう?」
「え?」
「そう簡単に消滅しやしないわよ。あんな人たち」
そして、いきなり人差し指で私の額をぐい、と押した。
突然のことで面食らう私に笑いかけ、ロビーを顎でしゃくる。
「えぇ?」
ロビーで取っ組み合う、あの二人が目の前から消えている。
「見えるから、気が取られるのよ」
タマコは言った。
「見えなくしただけよ。何か起きたら、また言ってね」
そして、くすりと笑う。
「あなた方なら、本堂とお庭の掃除で引き受けます」
左手薬指の指輪、微かに香る甘いたい焼きの匂い。
ハッピーエンドがもう1つ。
私は笑いながら、相続手続きの仕事にかかった。
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