第3話  たんたん

 大学の夏休み、実家に帰省すると今年四歳になる甥がいた。

 別居している兄夫婦……義理の姉が足首を骨折して入院してしまったという。

 駅の階段から転がり落ちたらしい。幸いきれいな折れ方で、後遺症は出ないとの事だったが、手術やリハビリなどで、一か月近くの入院になってしまった。


 私の兄はサラリーマンで、日中は会社である。

 義理の姉は専業主婦なので子どもを保育園に預けておらず、甥の春樹を日中預かってくれる先を緊急で探したらしいが、保育園は現在どこも満員だった。

 そういう訳で、私の両親がしばらく孫の春樹の面倒を見る事になったという。


 しかし、4才児と言うのはエネルギーの塊である。

  孫可愛さだけでは保てない、子供相手に夫婦で体力の限界を感じていた時に、帰ってきたのが大学生の私だ。

 当然のように帰省中、私が春樹の面倒を見る事になってしまった。


 朝が忙しいジジババら引きはがすついでに、春樹と毎朝の散歩が日課になった。

 実家のすぐそばにある川沿いの堤防の上にある道を、二人で三〇分ほど歩く。

 堤防の上から見下ろす緩やかな流れの中には、数羽のカモが泳ぎ、時に魚が水面を跳ねる。 都会の高層マンションに住んでいる春樹は、いちいちエレベーターに乗らずに、すぐ外に出られるのが嬉しいらしい。

 朝になると、子犬のように家から飛び出す。 


 その日も春樹は、はしゃいで道を走っていた。

 突然、急停止した。何か見つけたのかと、私は後ろから声をかけた。


「どうしたの、ハル」


 春樹は道路脇に生える雑草群に近づいた。

 そして突然その中に顔を突っ込んだ。

 そのまま自分よりも背の高い雑草をかき分けて、茂みへ入っていこうとする。

 私は慌てて春樹の首元を引っ掴んだ。


「こら、危ない!」


 その先の茂みは傾斜になっていて、下はコンクリートである。

 落ちたら大変だ。


「たんたんっ」


 春樹が茂みの奥を指差した。

 緑の奥に私は目を凝らした。

 カエルか蛇でも見つけたのかと思ったのだが、何もない。


「たんたんがあったんだよ、ぴゅーっていっちゃった」


 そのたんたんとやらを追いかけたいのか、春樹は私の手を引っぱって茂みへ行こうとする。私は春樹を力いっぱい道へ引きずり出した。


「ダメっ、下の川に落ちたらどうする!」

「……」


 春樹は口をとがらせ、未練がましい目を茂みの奥に向けた。

 ……次の日から毎日のように、春樹は「たんたん」を口にした。


「たんたんて、なあに?」

「たんたんはたんたんだよ」


 4才児の答えは、単純明快に分からなかった。

 しかし、川沿いの道はカモ以外に動物が生息している。

 雑草の生い茂る脇道にはへびやカエルが住んでいて、以前亀を見た事もあった。


「たんたんだっ」


 いつもそう叫んで春樹は突然走りだす。

 転ぶだけならいいが、間違って堤防の斜面から転がり落ちでもされたら大変だ。

 その度に私は春樹を捕まえ、道に引き戻す。

 逃げ足が速いのか、私のせいなのか、一度も春樹は「たんたん」を捕まえた事は無い。


 妻の入院中、我が子と実家で寝泊まりしている春樹の父親、私の実の兄に「たんたん」は何かと聞いてみた。


「子どもは勝手に言葉をつくるからな。お前もガキの頃、スヌーピーを『くんたん』って呼んでたぞ」


 やっぱり分からなかった。


 その日の朝も、いつもと同じ散歩だった。

 しかし、川沿いの道の先が、やけに騒がしい。

 春樹と手をつないでいた私は足を止めた。

 道を横切るように、何人もの人がたむろしている。


 紺色の警官の姿が、不穏な空気を発していた。

 紺色のつなぎを着た人たちが、それぞれの手に黒いビニール袋を提げて私たちの前を横切っていく。

 ビニールシートをかけられた担架が横切った。


 シートの下にある細長いもの、正体の生々しさに寒気がした。

 その瞬間だった。


「あー、たんたんっ」


 春樹が私を振り切って駆けだした。

 警察官に駆け寄よって手を伸ばす。


「こらっ春樹!」


 私の悲鳴に、ビニール袋を持った警察官がぎょっと春樹を見た。

 手にしたビニール袋を、はじかれたように子どもから遠ざけようと上に掲げた。

 私は警官に触ろうとする春樹を、まるで人さらいのように捕まえ持ち上げた。


「あーっ」


 春樹が抗議の泣き声を上げた。


「どうもすいませんっ」


 私は警官たちに絶叫し、そのまま家へ逃げ帰った。


 夕方のニュースで、女のバラバラ死体があの川沿いで発見された事を知った。

 あの川沿いで警官たちが集まっていたのは、そのせいだった。

 ニュースによると、あの脇道の茂みのあちこちに、両手、両足、胴体と死体が埋められていたらしいのだ。


 次の日の朝も、春樹は散歩へ行きたいと言い出したが、当然行く気になれずに拒絶した。

 だが、春樹は聞かなかった。


 「いやーっ、いきたいのっつれてってっ」


 朝っぱらからつんざく子供特有の甲高い泣き声に、先に撃沈したのは両親である。


「連れて行ってあげなさい、もう死体は無いんでしょ、それに夜じゃなくて、朝なんだから怖くないでしょ」


 いつもの川沿いの道を止めようとしたのだが、春樹は川沿いでなくては嫌だという。 

 それなら、堤防の下を降りることにした。

 コンクリートの上に、干からびたミミズが散乱している事が多いのが嫌で避けていたのだが、死体発見の茂みの側道よりはマシだ。


 ワガママが通って、春樹はご機嫌だった。

 コンクリートの上をスキップして歩く。

 突然、春樹は川面を指差した。


「見て! たんたん!」

「え?」

「ほら、ぴゅーってとんでるよ!」


 春樹が声を上げる。

 ……何も無い川面に、私は目を凝らした。

 水鳥一匹いない川面を指して、春樹はたんたんだと連呼している。

 私の態度に業を煮やしたのか、春樹は突然駆けだし、川辺に飛び降りた。

 そのまま浅い川にざばざばと入っていく。


「春樹!」


 たんたんって何なの、何も無いじゃないの、そう叫びかけた時だった。

 私の記憶に警察の手に握られた、黒いビニール袋の映像がよみがえった。

「たんたん」そう言って春樹が駆け寄り手を伸ばした、あの黒いビニール袋。

 私は悲鳴を上げて水に飛び込んだ。


 思考よりも先に、本能が恐怖に襲われていた。

 膝まである流れの中で、私は必死で春樹を追った。

 そして腰まで水に浸かりながらも、まだ何かを追って前に進む春樹を捕まえた。


「たんたんっほら、たんたんあそこあるのに!」

「ないっそんなの見えないっ」


 小脇に抱える春樹が、泣き喚きながら川面を指している。

 その方向へ私は目を背けながら必死で岸へと向かった。


 春樹のいう「たんたん」の意味を知ったのは、義姉が退院してからの事だった。

 義姉は教えてくれた。


「ボールの事よ。弾むから「たんたん」」


 私はその日以来、川沿いに近づくのを止めた。

 あの川べりで見つかった女のバラバラ死体は、首がまだ見つかっていない。

                                ―了

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