第4話 独り暮らしの闖入者

 一人暮らしをしたい。

 そう思い始めたのは、社会に出て半年目の事だった。

 学生のバイトではなく、一日を労働に捧げる本格的な「労働者」となってから、家に同居している親の存在が煩くなってきたのだ。


 私はある文房具メーカーに勤めている。

 現在日本の女性社員の立場は、過去とは全く違う。

「仕事はコピーとお茶汲み、存在理由は男性社員のお嫁さん候補」という甘いものではない。私の職場も例外ではなく、『社員は資本主義に立ち向かう戦士たれ。戦士であれば、例え愛くるしい子猫でも容赦しない」という熱い職場だった。


 そして私の仕事場も例に漏れず、入ったその日から雑用から仕事の仕込みと、独楽鼠のようにクルクル回る日々が始まった。

 それでも、いい大学を卒業したわけでもなく、美人でもなく、コネもなかった私をこのご時世に入れてくれた会社である。


 ネットのエントリー作業で目は疲れ、くたびれていくリクルートスーツに、ボロボロになっていく面接のハウツー本、毎日のように届く不採用通知。

『ご縁がなかった』そのメールを目にするたびに、このままもしかしたら就職できず、フリーターとかハケンとか、「企業に搾取されるだけの、未来への希望が無い若者」の象徴のような身分になってしまうのではないかと怯えた。


 ニュースで就職活動の話題が出るたびに、胃がジクジク疼いたものだ。

 あの日々を思えば、この残業や重労働も、先輩スパルタ指導も、就職できた故だ。有難い話だった。

 しかし、そんな私と職場の前に立ち塞がったのは、疲労でも労働局でもない。

 私の両親である。 


「嫁入り前の娘を遅くまで引き止めていいのか」

「まだ二十歳なのに、何をそこまで働かせるの」

「何故そんなに働く。体を壊したら誰が責任とってくれるんだ」


 娘が仕事で体を壊すと、社の人事部に苦情電話までしようとしたくせに、帰宅すればまず小言で仕事疲れの頭を滅入らせる。

 働きすぎとは言うくせに、休日は年寄りの都合に合わせたスケジュールで、車を出せだの買物に付き合えだの草むしりをしろだの、規律正しい孝行生活を押しつけてくる、そんな親と住んでいては、休息の空間はない。


 ……家を出よう。

 日曜朝6:30、布団を剥がされた私は決意した。


 相談したのは、4つ年上の職場の先輩、キヨコだった。

 一人暮らし歴が3年になる彼女は、居酒屋のカウンターでのどかに言った。


「まあ、家を出るのは初体験みたいなもんさね。決意する瞬間が、一番ハードル高い。それ越えたらあとはどうとでもなる。食生活だの、家事だのお金だのって、適当にやっていても、大人であれば何とか辻褄を合わせられるね。健康は、あんた頑丈だし。あれだけしごいても胃の穴ミクロも開けてやしないだろ」


「あとは防犯ですか……」


「私は一人暮らし生活3年、オートロックでもない安マンションの3階に住んでいるけど、今のところ下着泥も強盗もストーカーもない」


 オカメでも醜女でもないキヨコの言葉に、私は安心した。

 一人暮らしに大反対の両親は、そこをまず突いてきたのである。

 一人暮らしの若い女性が変質者によって犠牲になった過去の事件例を、日本国外古今東西のケース、新聞の切り抜きまで揃えて。


 思っていた以上に、私でも一人暮らしは出来そうだった。安堵とチューハイのアルコールもあって、私は気安く聞いてみた。


「じゃあ先輩は、一人暮らしで怖い目に合ったこと、無いんですね」


 ……妙な間があいた。


 やがてキヨコは言った


 「あるよ」


 そのまま口を閉じて、キヨコは表情を消した。

 記憶に沈む何かを、引っぱり出すかそのまま沈めておくか、しばし懊悩の後。


 そして、話し始めた。


 キヨコが一人暮らしを始めて半年目だったという。

 学生時代からの友人が、夜遅くに転がり込んできた。

 夏の終わりの頃、真夜中の3時前だった。

 それより一番驚いたのは、その友人のなりだった。


 顔は真っ青で素足にスリッパ、着ている物はパジャマだけだった。

 もう夜は冷える時期だというのに、パジャマの上には羽織るものすらなかった。

 友人が住んでいる場所は、キヨコのマンションから一つ駅の向こう。

 歩いて30分はかかる。


 そんな格好で、真夜中にパジャマ1枚で、自分の家に飛び込んできたのだ。

 キヨコは驚愕し、慌てて部屋に入れた。

 その友人も、キヨコと同じ一人暮らしの娘だった。

 だから彼女が家で変質者か何かに襲われたのだ、反射的にそう思ったという。


「……と、思ったら違った」


 キヨコはグラスをあおり、一息ついた。


「夜中に知らない女の顔が、寝ている自分の横に出たんだって」


 理解不能な理由で眠気も吹っ飛んだキヨコの前で彼女……Yとする…は泣きじゃくった。

 夜中に厭なものを感じて目が覚めた。

 暗がりの中で目を凝らし、横を見ると女の顔が真横にあった。

 目は、じっと自分を見ていた。

 ひどく厭な目だった。


 口元には、黒子があった。


 Yは震えながら続けた。

 それ以前から、家の中でおかしな事が度々あったと。

 仕事から帰ると、部屋の小物の位置が動いていたり、ソファの上にあったはずのクッションが床に落ちていたり。


 オートロックのマンションで、施錠もされている部屋だから、泥棒や侵入者は考えられなかったから、気のせいだと思っていた。でももしかしたら、あれは……


 その女に心当たりはない、という。


 Yの部屋は新築のマンションで、オートロックである。

 Yの父親は不動産屋に勤めており、一人暮らしをする我が娘のために選び抜いた物件だった。交通、立地、設備に家賃はもちろん、日当たりまで。防犯は特に女一人暮らしの最優先事項だ。我が子の事なのだ。


 当然オカルト面もカバーしているに違いなかった。


 しかし、錯覚、気のせい、例えそうであっても、目の前にいるYの怯えようは本物だった。

 そして、気がつけば午前4時を過ぎている。キヨコはYに言った。


「じゃあ、とりあえずここにいなさいよ」


 Yは怯え泣きながら喜んだ。

 歪んだ顔を涙と鼻水で濡らしながら、何度も礼を述べた。


 Yとキヨコは、短大時代からの付き合いで、女同士の友達グループの仲間だった。

 同じグループの友達にも友情の濃淡があり、当時の彼女とは濃い方ではなかったが、社会に出て皆バラバラになってからは、キヨコと彼女は一番近くに住んでいるということもあって、たまに会って買物やお茶をするという付き合いで続いていたという。


「ははぁ、彼女とは消去法で残った友情って奴ですか」

「……さて、問題はそこから始まった」


キヨコは続けた。


「ご存知のように、私のマンションはワンルームでユニットバス……その夜から、そのままそこに住み着いちゃったんだよ、彼女」


 私は目を丸くした。

 キヨコの部屋は知っている。

 広さは14・5平米ほどで、台所もリビングも全て兼ねている一室にベッドにちゃぶ台、そして小さな棚が二つ。

 人が4人以上入れば酸欠になりそうな狭さなのだ。


 以前その部屋で会社の人3人で鍋を囲んだのだが、部屋の中を移動するときは背中に壁を張りつけて動いたものだ。

なので、キヨコがYへむけて言った言葉の「とりあえず」とは、1日2日のつもりの親切だった。


「部屋に戻れない」


 そう言って途方に暮れるYに、キヨコは服を貸し、3万円の金を貸した。

 部屋を逃げ出したYは、全く着の身着のままで財布も無かったそうだ。

 3万円はホテル代や実家までの交通費とか、その諸費用のつもりで貸したのだ。


 だがYはそのキヨコの金で、自分の下着や洗面道具を外で買い揃え、キヨコの家に持ち込み、合鍵を作った。

 そしてキヨコの服を着て仕事に出て、キヨコの部屋に帰って来た。

 それでもYがここにいるのは長くても2日位だろうと、キヨコはそう思っていた。


6畳一間の箱の中に、キッチンも詰め込まれているワンルームで、寝る場所はベッドが一つ、客用の布団を一枚敷けば床のスペースは無くなるのだ。

 バスタブもユニットバスで、トイレや生活音も野放し。

 隠れる所もありはしない。そんな狭い空間に友人とはいえ他人と暮らすなんて、逃亡生活でもない限りゴメンである。


 だから、キヨコはすぐにYは実家に帰るものと思っていた。

 …一緒にテレビを見て、笑って食事していたのは最初の3日間だった。


「仕事からマンションに帰ると、居るのよ。こっちは会社に行っている間に、Yは荷物まとめて部屋に帰るなり実家に戻るなりしているだろうと思っていたら、まだいる。ドアを開けて部屋が目に飛び込んでくる度に「え?」となったものだわ」


 しかし、キヨコはYを問いただそうとはしなかった。

 疲れていたからである。

 在庫調整だの伝票チェックだ、顧客の注文と商品管理だの、数字と残業に戦っていたキヨコは、部屋に戻ってからまで、また人間とややこしい話をする気力はなかったらしい。


 しかし、気力はなくとも苛立ちはつのる。


「出勤時刻はね、私の方が家を出るのが早くて、Yがその後だった」


 2人の出勤時間と帰宅時間にはずれがあった。

 キヨコは、Yよりも早く家を出て、帰宅は遅かった。

 Yは残業がなく、帰宅は早かった。

 キヨコは、家にYを残して出勤し、そしてYがいる部屋に戻る。


 家を出るたび、入るたびに「異分子」が目に飛び込んだ。

 Yはキヨコが帰宅する頃にはすでに一人の食事を終え、先にシャワーを浴びてくつろいでいた。キヨコはその後だ。

 自分の部屋なのに、自分が追い出されている。

 

 不条理だ。

 Yが部屋に根を伸ばしていた。

 Yに貸した服も、食器も布団も、貸したままだった。

 客用の食器で食事をしたマグカップや箸、「とりあえず」で貸したものは全てYのものだった。


 ワンルームのスペースで余った床面積は、客用布団が敷かれるYのスペースになっていた。

 キヨコは徐々に部屋が「Y」によって侵食されていくような気になった。


 部屋は住人の空気や趣味をうつす鏡であり、人格がそのまま部屋に表れている。1人暮らしの部屋は人格が1つだけである分、その色は濃い。

 その色が濃いほど、住人にとっては居心地の良い空間となる。

 そのなかで、Yは部屋の風景を狂わせる異分子だった。


 ごめんねキヨちゃん、とYは度々謝った。


 涙をこぼすこともあり、声を詰まらせることもあった。

 そして、キヨちゃんしか頼る人がいないとうなだれて言う。

 前の部屋にはもう戻れないと哀願した。

 そうなると、キヨコは弱かった。


 泣いている相手に、その存在が邪魔だといえない。

 部屋が狭いから出て行って欲しいという本音を封じ込められた。

 そして、その弱々しいYに対する自分の本音に、罪悪感まで抱いてしまう。


 一週間経った頃。

 自分の部屋に帰れないことを実家や彼に相談したのか、とキヨコはYに聞いた。


「出来ないよ」


 Yは小刻みに体を震わせ、キヨコのマグカップを握り締めて言った。

 夜中の部屋に、知らない女の幽霊が出たなんて、親はこんな話をしても、絶対信用してくれないだろう。

 頭がおかしくなったと思われるかもしれない。


 しかも、両親は元々Yの一人暮らしには反対だった。

 そんな話をすれば、実家に戻される口実になってしまう。そもそも彼女は親の干渉を嫌って家出したのだ。

 Yには恋人もいたが、証券会社に勤める彼は、完全な現実主義者でそういったオカルト話を嫌っていた。


 彼とは付き合い始めたばかりだった。

 彼にそんな変な話はしたくはないという。

 キヨコは嫌な気分になった。


 そうなると、いつまでもずるずると部屋に居座られている自分は、両親ほど強制力はなく、そして彼ほどまでに気を使う存在でない、格が下の存在じゃないか。

 Yは顔をうつむけて、弱々しい声で訴えた。

 でも、部屋に怖くて帰れない。



 キヨちゃんしか頼れないの。

 だから私、部屋が狭いのとか、気にしないから…… 

 Yの態度は気弱だった。

 そして、気弱な目と下手な態度で、徐々に部屋は浸食されていった。


 キヨコは、その頃更に仕事が忙しくなり始めた。

 扱う商品の新開発や、パッケージのデザインの変更時期が重なって、毎日が打ち合わせと企画書起こしで終業時間が真夜中になり、タクシーで帰宅の日々に突入した。

 

 ある日、深夜0時に帰り着いた家に、大勢の来客の痕跡が残されていた。

 宴会の跡だった。


「家に置いてあるコップがありったけ、大皿も小皿も全部使われていたわ。Yが流し台に立って、鼻歌歌いながら食器洗っていた。部屋にタバコの臭いが残っていた」


 Yは立ちすくむキヨコの顔色を、さすがに読み取ったらしかった。

 ごめんなさい、とまず謝罪し、弁解した。

 会社の人達と、飲みに行こうって話になったんだけど、お店がどこも一杯で……そしたら、誰かの家で呑もうって誰かが言い出して……私が1人暮らしって誰かが言いだして…


 キヨコは怒る力もなかった。


「夜中に帰ってきたら、Yの彼氏が部屋にいたこともあったっけ。流石に他人の部屋でヤッてはいないと思いたいけど、そいつが私のクッションの上でくつろいでいて、タバコ吸っていて…そのタバコの灰皿が、なんと私のコレクションの皿で……確かにそれはタバコの灰皿ではあるんだけど、飾り皿にして使っていたんだわ。ウエッジウッドのジャスパー」


「うわわ」


 私は思わず声を上げた。

 ジャスパーウェアといえば、イギリスの名窯、ウエッジウッドの代表的シリーズの拓器である。

 釉薬のかかっていない拓器に、ギリシャ神話などモチーフにした美しい柄が白いカメオのように浮彫に装飾されている。


 あれにタバコの灰を押しつけるなど、情緒的に何かが欠けている。

 それにキヨコは喫煙しない。タバコの匂いを嫌っている。


「Yを彼氏に押しつけることは出来なかったんですか」

「どうやらね、Yは私に「頼まれて」ここにいると彼氏に話していたらしい。私が「ストーカーに狙われているらしく、私が、怖いからって彼女に頼みこんだんだとさ。彼氏に同情と文句言われちゃったよ。ボクの知り合いが遭った事あって、話を聞いた事あるから、その怖さ分かります。でもYにきてもらう前に、警察には言ったんですか? なんてさ」

「……嫌な奴だな……」


 思わず呻いてしまった。


「彼氏とは合コンで知り合ったんだってさ。顔は良いし、証券会社勤務。条件が良いから、Yと付き合う前から女にモテていたらしい。実際Yと付き合うことになっても、他の女からアプローチされている。中には毎日メールを寄越してくるようなしつこいのが居る。だから彼氏に自分の欠点を見せたくなくて、頑張って背伸びしているんだって」


 キヨコは吐きだした。


「だから、ごめんなさい、彼には変な話をしないでって、変なところを見せたくないのって泣き顔で謝られちゃあね……強くは言えないでしょ」


 その後、Yは実家にも同じことを話しているのが分かった。

 キヨコは嫌悪感以上に、恐ろしくなった。

 Yがそこまでこの部屋に滞在したがる理由、それが自分の家の怪異のせいだとしても……あまりにも無茶苦茶だ。


 狭い箱の中で窮屈な思いをしているのは、向こうも同じはずだ。

 ……なのに、居座る気だ。


 これからどうなるのだと、キヨコは悩んだ。

 一度出て行って欲しいと遠まわしに言った事はある。

 しかし、Yは涙ぐみ、キヨコを気弱な目でじっと見た。

 その目を見ると、狭い空間の息苦しさに湿ったものが混ざり、相乗効果となって更に嫌な空気となる。


 キヨコは口を封じられた。

 Yは滞在を続けた。

 ふた月を超えていた。

 しかし、深刻なのは空間の問題だけではなかった。


 空間がてっぺんなら、すそ野は更に広がる。

 金銭である。

 それを言い出せば、きりが無いのだ。


 キヨコが家に帰るまで、Yはテレビを見ていた。

 そのテレビの電気代に受信料、蛍光灯代に水道代、ガス代。

 当り前だが、部屋に「居るだけ」で諸経費が発生する。

 冷蔵庫の中身に食物の所有権、歯磨き粉、洗顔料に石鹸、シャンプーやリンス。

 当り前だが、補充するのはキヨコだった。


「全然帰らなかったんですか?」


 私は首を傾げた。

 例え何が部屋に出ようとも、郵便受けとか新聞とか、日常生活レベルでは少しは留守宅が気になりそうなものだった。

 しかも、衣服ばかりか財布や携帯電話まで、部屋にそのままではなかったのか。

 カウンター前に並ぶ酒の瓶を眺めたままで、キヨコは言った。


「それに関しては、私もおかしいと思い始めた」


 同居生活が48日間、そして3ヶ月目に差し掛かった頃、キヨコはYが部屋に帰れないとする言い訳の「怪異」をいぶかしく思い始めた。

 そういう「幽霊を見た恐怖」は、時が経つに連れて薄れていき、やがては幻覚だとか見間違いだとか、そういう形で自分自身に決着をつけそうなものでないか。


 何か因縁のありそうな相手ならとにかく、見たのは知らない女なのだ。

 家の中でもひとりでに物の位置が変わっていたりする怪異はあったというが、最初Yは「気のせい」で済ませていたのである。

 しかし、怪異そのものを嘘だと決めつけるには、キヨコにはためらいがあった。


「嘘つくような子じゃないとかそれ以前に、見た女の描写が妙にリアルだったのね。これが白い服着て髪が長い女とか言っていたら、嘘っぽいと思ったかもだけど。厭な眼で、口元に黒子なんてなんかこう、迫力と真実味があってさ」


 Yは帰らなかった。

 部屋に対して必要以上に怯えているようにも見えた。

 最初に貸した服をいつまでも着て、キヨコの家の食器を使い、布団を使い、ずっと部屋にいた。


 折に触れて、Yはキヨコに謝った。ごめんね、キヨちゃんと、涙を浮かべた顔には作為的なものは感じられなかったという。

 そのYの命乞いのような目で見られると、人情としては、友人としては、キヨコは本音を形だけ隠してでも言うしかない。まあ、友達だしね……と。


 そして一緒に過ごした学生時代の楽しかった思い出を、傷の上の絆創膏のように苛立ちの上に貼りつけた。

 そうやって、自分をなだめた。

 しかし譲歩が重なるにつれて、苛立ちは薄い恐怖に変わっていく。

 どこまで、寄りかかってくるのか。


 Yは譲歩すれば譲歩するだけ踏み込んでくる。しかし、それは命が絡む問題ではなく、金銭的に云々といっても破産する程のものでもない。

 それでも、うっすらとした厭なもの。

 薄い毒を心に流されているような不快感があった。


「Yの仕事は何ですか?」


 私は聞いた。

 やむない理由ではなく、親の干渉から逃れたいという理由で一人暮らしを始め、嫌々ながらも親もそれを認めた訳だから、収入的にも生活費の目処がついていたのだろう。


 それが友人の家に転がり込んだ挙句、生活費まで寄生生活とは。

 しかし、彼女は普通のOLだった。

 キヨコは大きなため息を漏らした。

 店の中の空気を全て自分の二酸化炭素にしてしまうほどの、大きなため息だった。


「帰るのが楽しみというのは、人の幸せの基本だと思わない?」


 キヨコの言葉に、私は同意した。

 仕事が終わって家に着いたあの瞬間。

 自分の巣の中に潜り込む安心感。

 帰る場所が居心地良ければ、おとーさんも酒と綺麗なおねえちゃんの為に寄り道しないし、子供は学校帰りゲーセンへ行く事も無い。


 平和の基礎なのだ。


「本当に、実家にすら帰ろうとしなかったのよ。しかも、何だか徐々に様子がおかしくなっていってね。本当に部屋から出ようとしなくなったの。休日すら部屋にいて、耐えきれずに部屋から出るのは私だった。後半あたりは、仕事にも出て行かなかったみたいで…」


 Yが何かに怯えるようになったという。


「あの「女」が夢に出てくるようになったんだって」


 部屋に出た『幽霊』のことだ。見覚えのないあの女が、口元に黒子がある女が、厭な目でじっと自分を見つめている、恨みと殺意に浸された目で、ずっとYを見つめているという。

 やがて、Yはしょっちゅう夜中にうなされるようになった。


 しかし、キヨコは疲れていた。

 その頃仕事がピークに達しており、残業の平日と出勤する休日の日々だったのだ。

 その頃、Yが彼氏とは連絡も取り合わず、会いさえしていない事に気がついたが、二人の交際など心配するゆとりは擦り切れ、思いやりの心はぼろぼろで、雑巾にする部分すら残っていなかった。


 「もしここで、私が心配の片鱗を見せたら、Yが更に寄りかかってくる。そう思ったのよ」


 思えば、最初の親切心がこの生活の発端なのだ。

 これ以上同情なりすれば、Yはこの部屋から出て行かなくなるかもしれないと、強迫観念すらあった。


 帰宅すれば、平日だというのに1日パジャマのままでいたらしい姿のYがいる。仕事に出ていないらしいその姿に、危機感を感じなかった訳ではないが、それ以上に狭い箱の中の空気を二人で吸う、その閉塞感だけで一杯だった。


 かといって自分が部屋から出て行くわけにはいかない。

 むしろ、Yがおかしくなってくれたほうが、この部屋から出て行ってくれるかもしれない。そんなことを考えたりしたという。

 キヨコも追い詰められていたのだ。


「3ケ月たって、私はもう、たまらなくなった」


 立場的にはどこまでも彼女は弱者で、キヨコは強者である。

 しかも精神的におかしくなっている節があるYはどこまでも弱者だった。

 弱者にとって「憐み」は最大の武器だ。

 「憐み」と見捨てる事の「罪悪感」がセットになれば、強者は弱者に勝てない。


 家路につく暗い道、自分のマンションが見えてくる。

 自分の部屋の窓に灯る光は、今日も「邪魔者」が居座っている証だった。

 他人が自分の住処に居ついている倦怠感。

 うなされるYが気になって、眠りが浅い。


 こうやって自分が遅くまで働いている間も、Yは被害者面してのうのうと部屋に居座っているのだ。

 自分の作り上げた狭いくつろぎの空間が奪われた怒りと、追いだせない自分への情けなさ、鬱陶しさ。その不満が「友情」によって丸めこまれる鬱屈と閉塞感。


 ある日、久しぶりに仕事が早く終わった。

 しかし、キヨコは途中帰宅することが出来なくなり、きびすを返した。

 足が向いたその先は、どうしてか彼女のマンションだった。


「そんなに遅くもない、居酒屋も開いている時間だったから、そこで酒でも飲んでいればいいようなものだったけどね。何故か足は勝手に彼女が放置しているマンションの方向へ……本当に幽霊が出るのか、外から見ただけじゃ分からないけど、見てやろうって思った」


 閑静な住宅街の一角にある、四階建ての洒落たマンションだった。

 古びた灰色の箱のような自分のマンションとは違って、築浅でオートロック、タイル張りの外観も新しい。

 エントランスの植え込みも、三色スミレとグリーンで整えられていた。

 ここは女性の一人暮らしが多いと聞いたが、それも頷けるマンションだった。


 エントランスまでキヨコは入った。

 そこから住人の部屋に入るには、オートロックシステムの解除が必要なのだ。

 Yの部屋の郵便ポストは、ダイレクトメールの封書や、葉書がはみ出していた。

 溜まっているポストに驚いていたキヨコに、後ろから声をかける女がいた。


「きっちりとスーツを着た、30代くらいの女の人だった。営業職って感じだったね。で、私がY本人ではなく、知り合いだと聞くや、Yの行方を知らないかと聞いてきた。捜しているっていうんだね」

「……探偵さん?」


 ゆっくりとキヨコは頭を振った。


「……信販会社」

 

 キヨコは激怒した。

 マンションに戻れず、実家に帰れないはずだ。

 携帯電話だっていらないはずだ。

 借金はサラリーローンで100万以上、返済は延滞していた。


「Yの彼氏が証券会社なのは言ったね」

「……その彼氏が薦める株を、Yは購入して失敗した、とか」

「いや、株じゃない。FX、しかもレバレッジ効かしたらしい」


 私の飲んでいるカルバドスの味が変わった。


「……レバレッジってアレですか、金を証拠金として預けて、その倍の金額の取引を行えるけど、その分利益も損失も大きいという奴。我が家じゃそんな博打は、家訓で禁じられていますよ」


 身の丈以上の資金を、不確かで見えない金融動向とやらに放り入れるのだ。

 自分の目に見えないものに手を出すな。

 これは我が家の先祖代々からの教えである。

 事実、周囲で株や金融取引で得した人間などバブル時代以降、聞いた事が無い。


 私たちの会社の上司はバブル時に株で儲けたらしいが、その後にバブルがはじけ、儲けた以上の損を出して自家用車のベンツを手放したそうだ。

 上司は今、自転車に乗っている。

 

「マネーゲームを禁ずと、ウチは家の墓碑に刻まれているよ。FXは外国為替の証拠金取引だっけか。確か業者に証拠金を委託して、差金決済で通貨の売買を行うものだね。市場は世界だから24時間動いているし、パソコンで手軽に出来るからね」


 Yは背伸びして「モテる」彼氏と付き合っていた。

 自分の欠点や悩みを隠して良い娘として完璧に見せ、証券マンの彼と話を共有したいがために、金融取引に手を出した。

 FXは手軽で、やり方や情報もネットや書籍で豊富だ。


 そして何といっても、Yの父親も片手間で株を動かしていたらしい。

 しかもYの父は私の上司のように大きく損をする事が無かったらしいのだ。

 そのせいでマネーゲームは身近でありながら、通常ならあるはずの失敗の恐れは無かった。


「損が預けた証拠金の金額を超えたら、追徴金出さなきゃいけないからね。でないと取引自体が出来なくなるし…1万円の証拠金でレバレッジ10倍として、10万円の取引したら、1割のロスで1万円、それで証拠金はおじゃんになるわね。そうやって損が膨らんで、その証拠金を工面するために、手っ取り早いサラリーローンに手を出したらしい。サラリーローンは審査が早くて、担保なしですぐに貸してくれるからね。昔よりは金利が下がったとかいうけど…怒ったよ、私。生まれて初めて人にモノを投げつけた」


 出て行け、と叫ぶキヨコへ、Yは血色のなくなった顔を更に蒼くして否定した。

 違う、違う、借金なんかじゃない、女の話は本当だと。


「Yが言うには、借金の取り立てが怖くて部屋から逃げたんじゃない、女が怖くて逃げたんだって何度も繰り返すの。で、1人でいるのは怖いから帰りたくないんだって」


 キヨコは信じなかった。100万である。業者は訪問に電話、取立てにあらゆる手段でやってくるはずだ。

 場合によっては会社まで来る。怖くないはずが無い。

 会社を辞めたのもそのせいだろう。


 しかも、親にも知られたくはないし彼氏にはもっと知られたくはないだろう。

 部屋から逃げ出し、戻れないはずだ。

 正に逃亡生活だったのだ。


「それでもYが言うには、借金の返済の事すら忘れていた、借金の取り立てが怖くて部屋から逃げたんじゃない、女が怖くて逃げたんだって何度も繰り返すの」

「ええ~100万でしょ」


 借金の事を忘れるなど、私には信じられない。100万なんて大金じゃないか。

 私なら忘れるなんて無理だ。

 当然、キヨコも信じなかった。

 しかし、Yはそれでも言い募った。


 今の自分は借金どころではないと。

 あの女に殺される、あの女がマンションからついてきた。

 私を見つけて殺しに来たと。


「信じてくれないんだ!きよちゃんはしんじてくれない!しんじてよ、しんじてよ!」


 Yの悲鳴は、狂った音程のようだったらしい。

 音波で震える夜のワンルームの中で、キヨコは耳をふさぐのを忘れるほどの危機感を感じた。

 汚れなのか、垢なのか、Yの顔は、全体的に薄黒くむくんでいた。


 自分が貸しているパジャマは、そのままYの体の一部になったかのようくたびれていた。髪の毛はザンバラで、寝癖らしきものがあちこちについて頭の形自体を歪ませている。

 今のYは、社会性や女性という性も切り離されて、自分の脳内だけが全ての閉ざされた存在だった。


 キヨコは怖くなった。


「しんじてよ! おかねなんかカンケイない! あの女がいるんだよ!」


 相手は、必死という名の狂気の色で染まっている。しかしキヨコは負けじと、声を張り上げた。これが追い出す、最後のチャンスだった。


「お金が関係ないはずないでしょ! あんた返せるの? 仕事はどうしたの! 返せるはずないじゃん、だから逃げたんでしょ! 1人が厭なら実家に帰れ! 出て行ってよ、ここはあんたの隠れ家じゃない!」


 Yの叫ぶ「あの女」という言葉に、キヨコはマンションで出会った信販会社の女性を思い出していた。

 キヨコの思考回路は1本につながった。

 そしてYの狂気を確信した。


 キヨコのその懸念を打ち破るかのように、Yが叫んだ。


「ちがう、お金なんかじゃない、だっておかねのことなんか、おとうさんにいえばいいもん! あやまればすむもん! どうでもなるもん!」


 キヨコは切れた。いや、キレタ。


「いや、あん時やホントに頭の中が沸騰した」


 キヨコは淡々と、手の中のグラスの中身を見つめていた。

 梅酒の中に記憶の映像を映し、ずっとそれを見つめたまま、隣の私を全く見ない。


「親も私も、あんたの安全の道具か、厄介事は親や私を使って、自分はブルブル震えているだけ、そのくせ体面は大事に取り繕う。みながあんたを助けたがっていると思ってんのか! もう、信じる信じない、そうじゃなくてお前の存在それ自体が邪魔だって、出て行け、そう怒鳴りつけたね。もう目の前が真っ赤よ」


「……で、あの……」


 どうなったんです、と私はそっと聞いた。

 気は強いが激昂はしないキヨコの、その場面は想像しにくく、だからこそ怖い。

 キヨコは無感情に答えた。


「Yは私につかみかかって来た」


 取っ組み合いになったという。

 Yはヒューだかヒェーなのか、笛のような音を咽喉から出してキヨコの髪の毛を掴んできた。

 Yの体から発せられる垢のじみた据えた匂いと、口臭にキヨコは吐きかけた。

 腐った生ごみ、そのものだったらしい。


 そうなってしまったYは、すでに嫌悪すべき対象だった。

 友人だった頃の思い出はもう宝ではない。

 むしろ、ずるずると女の滞在を許す羽目になった「原因」だった。

 キヨコは完全にYを捨てた


「Yは奇声を出すし、狭い部屋の中で肉弾戦やらかしたから、部屋の中滅茶苦茶になるし、当然、近所から通報されちゃった。パトカーが来て2人で署に連れていかれて、それが元でやっとYと縁が切れた」


 警察からの連絡で、Yを迎えに来た両親は、娘のなりに絶句した。

 信販会社から借金延滞の連絡があったらしい。

 娘の借金を知った両親は、娘に連絡をとろうとしたが、携帯が繋がらない。

 しかもとうに会社を辞めてしまっているのを知り、仰天して行方を捜していたというのだ。警察にも捜索願いが出ていた。


「私がYの監禁容疑かけられるとこだったよ」

「……良かったですね。絶交出来て」

「そのYが、去年死んだ。自殺なのか事故なのか、分かんないけどね」


 間が空いた。


「その後、Yは実家に戻っていたらしいのね。人づてだけど、あれから仕事も何もせずに部屋に閉じこもって暮らしていたんだって。それである日突然、ベランダから転落して死んだ。遺書は無いけど、精神的におかしかったから多分発作的自殺だろうって、周囲は判断したらしいけど」


 キヨコは顔を伏せた。


「かといって、それは先輩が気に病む事じゃないと思いますが」


 私は声に力を込めた。

 むしろキヨコは被害者ではないか。

 借金のせいで気がおかしくなり、気が狂って自殺というなら本人の責任だ。

 キヨコが死体を背負う事は無い。


 しかし


「先日、繁華街でYの元恋人を見かけてね」


 女連れだった、とキヨコは嘆いた。


 新しい彼女だろう。キヨコはそう思いながら素知らぬ顔で二人とすれ違った。

 Yを思いだし、苦い味を記憶に広げながら。

 男は、過去一度会っただけのキヨコに気がつかない。

 新しい彼女は当然、キヨコの顔を知る由もない。


 キヨコも……そのはずだった。

 しかし


「その彼女、口元に、黒子があったんだよ」


 ……キヨコは嘆いた。


             ―了

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