第5話 消極的傍観者的オリエント急行の殺人

 夜20時という時刻は、一般的家庭においては夕食後に団欒が始まる時間帯、もしくは各自部屋にこもって趣味とか思案にふける、一日の総決算の作業を行う時間帯である。


 ネオン輝く歓楽街だの、資本主義の戦場であるオフィス街なら事情は違ってくるが、少なくとも善良で健全な人々の住む住宅街であるなら、静寂のベールが街を包み込み、安穏の家の灯が夜に浮かぶ…そんな時間帯なのに。


「うるせいっ」


 まき散らされる騒音の中、私は飲んでいた紅茶のカップを座卓に置いて、旅行エッセイを閉じた。

 ワンルームマンションの4階に住んでいるのだが、ベランダから見える道のはす向かいにある一軒家が飼っている犬の鳴き声が、今夜もうるさい。


 小型犬のキャンキャンと甲高い鳴き声が、窓を飛び越え鼓膜に突き刺さる。

 そして、隣室の壁から響く震動と男の怒鳴り声。

 以前なら聞こえなかった、赤ん坊の泣く声が聞こえてくる。

 女の小さな悲鳴と、何かを引っくり返す音と、壁を蹴る音。


 お隣のシングルマザーは、最近「元亭主」という迷惑な男が出入りしている。

 来ると必ず喧嘩になるらしく、言い争う声に何かを壊す音、険悪な空気がこちらまで漂ってくる。

 赤ん坊の怯えた泣き声まで入ると、更に最悪でこちらの気まで滅入る。


 男は怒鳴り声を上げながら壁を蹴っているらしい。

 どおん、どおんと壁が震動して部屋が揺れる。

 外からキャインキャインと甲高く耳障りな泣き声が窓を突き破って飛びこむ。


『うるせぇっ』


 犬と喧嘩、どちらに対する怒りなのか、マンションの住人らしき男の怒鳴り声が、ドアの外で聞こえた。

 同じ階なのか、声は近い。

 そしてそれを追いかけるように、静かにして頂戴と若い女性の声。

 

 紅茶を飲む気が失せた。

 数日後にイギリス旅行を控えている。長年憧れていた海外の一人旅。

 初めての海外で不安もあるが、覚悟と根性を決めて一人で旅する事を決めた。


 情報を集めるため、ネットはもちろんガイドブックや現地の暮らしを綴るエッセイを読み、買物の下調べ、さては現地空港の見取り図まで調べていた。

なのに、この騒音の中では思考に横やりが入り、集中出来ない。


 私は読書を諦め、ため息をついた。

 新社会人になり半年目、両親の反対を押し切って念願の1人暮らしを始めて、そろそろ1年が経つ。

 煩い親元を離れ、今までは快適な日々だった。

 

 しかし、ここ最近、マンションの周囲が騒がしい。

 窓の外、マンションの内と騒音と争いの声に挟まれている。

 この争い声と犬の鳴き声は、寝る直前まで続く。

 夜がこうだと気が休まらない。


 騒音は夜だけではなく、朝から始まる。

 このところ、早朝から近所の子供が遊んでいる。

 そのはしゃぎ声で目が覚めてしまう。

 子供の奇声が目ざまし代わり……そんな日々が続いていた。


「どうにか出来ませんか、先輩」


 勤めている文具品メーカーの会社の、先輩のキヨコに私は昼休みに訴えてみた。

 仕事に関しては適切な助言をくれる先輩であるが、私のマンションの管理人でもなく,住んでいる町の町内会会長でもないキヨコは、ただ気の毒そうな目で私を見ただけだった。


「入居前に立地や現在の住人状況はチェックしても、1年後に傍の駐車場に家が建ち、うるさい一家が引っ越してきて、隣のシングルマザーにヤバげな男が出来るなんて、予見は出来なもんね」


 会社の喫茶室で向かい合い、キヨコが腕組みして呻いた。

 午前の仕事中からコーヒーを飲み続け、昼休みのこれまで15杯目のコーヒーを飲みながら、私は文句を続けた。


「おかげで寝不足気味ですよ。眠気覚ましの為とはいえ、カフェインの摂取量が倍に増えました。仕事でも開けた事のない胃の穴が、これで開いたらどうしてくれようですわ。あまりに毎日犬がキャンキャン煩いんで虐待かと思ってもみたんですが、単にしつけが悪い犬でした。あー腹が立つ」


「そんなに煩きゃ、怒っている住民はあんただけじゃないでしょ」

「勿論ですとも」


 私は思い出し怒りに震えた。

 問題の騒音は、マンションの部屋の隣人であるシングルマザーと、マンションのはす向かいに新しく建った一軒家に集約されている。

 一か月ほど前に、駐車場をつぶして、新しいその家が経った。


 そこにやってきた一家が、夫婦と幼い男児が2人。

 そして小型犬なのだが、とにかくうるさい。

 子供2人は新しい環境に今だはしゃいでいるのか、朝の早朝から道端や自宅の庭で大声で歌い、はしゃぎ踊り、転がる。


 今朝もその大声で叩き起こされてしまった。 

「ぎいぃやあああ」

 と、子供の雄叫びが夢に乱入し、飛び起きた。

 窓を閉めて寝ているはずなのに、子供の金属的な笑い声と犬の鳴き声で、穏やかな目覚めは木端微塵である。


 仕方なしに起きて朝のニュース見ようにも、子供の金属的なはしゃぎ声は、犬の鳴き声と混じって増幅し、テレビの音声ですらかき消してしまう音量なのだ。

 その姿は、元気な子供の姿を越えて狂乱だった。

 しかも平日休日問わずこうだと、殺意すらおぼえる。


何故親は近所が気にならないのか、そして育児中に子供の声で難聴にならないのかと感心する程だ。

 先日、ついにマンションの管理人が動いた。

 マンションの生活ルールを管理する、彼の本来の守備範囲とは少々ずれている気がするが、住人たちから散々苦情を寄せられて、動かざるを得なかったらしい。


 今年65才になる穏やかな管理人のおじさんは、「騒音の苦情申し立て」ではなく、腰をひたすら低くして、騒音家に「お願い」にあがったらしいが。


「それがまあ最悪、管理人のおじさんへ、夫婦そろって逆ギレしたらしいんですよ。子供の元気な声を騒音だとは何事か、犬が鳴くのも当たり前だって。子供と犬が仲良く遊んでいる、その微笑ましい姿が不愉快だなんて、何て心の狭い人でなし共だ。どうせワンルームマンションに住んでいる人間なんか、土地の者ではない余所者なんだから、我慢できなきゃ出て行けって。こっちは高い金出して家を建てて、これからここにずっと住むんだからだと」


「ほほう」


「ちがうだろ! 人が何に対して怒るのかといえば、煩いガキと犬よりも、それを放置する馬鹿な親兼飼い主ですよ! 余所者だろうが永住だろうが、快適な暮らしを求めるのは当たり前だろう! 静かな日々を返せ! 安眠妨害しやがって!」


 激昂のあまり、喫茶室の備品であるコーヒーのスプーンを窓に投げかけて、危うく踏みとどまった私にキヨコは言った。


「町から追い出せ。手段さえ選ばなければ、方法はいくらでもある」


「それがですね、馬鹿家庭のバカ夫婦の親がこの辺の地主なんです。それもあいつらが増長している原因ですね。駐車場つぶしてわざわざ建てた家から、出ていきゃしませんよ。しかも、その家の隣にまだ一つ駐車場があったんですが、そこもつぶして親が隣に住む家を建てているんです」


 それはまだ、新築の基礎工事にかかる段階ではあったが、新しく耳に入った嫌な近所情報だった。

 土地の地主とはいえ、常識しらずの傍若無人一家の製造責任者である親など、やはり同じような人種だろう。


 次はそいつらが引っ越してくるのだ。

 そうか、とキヨコはため息をついた。


「伝授したい嫌がらせの技があったんだけどね…高い場所から、その家の屋根の上に生肉を大量に放りばらまいて、カラスを呼んでやるとか、ホウ酸抜きのゴキブリ団子を庭にばらまいて、ゴキブリやねずみを庭に集めるとか……」


 その独創性に、私は感動のため息をついた。


 嫌いな上司の椅子を見て「真面目に科学と技術の勉強しとくんだったな。そしたら、この椅子を電気椅子に改造したのに」と口走るだけはある。


「で」


 キヨコがコーヒーを飲みながら言った。


「ヒモつきシングルマザーの方は?」

「ああ、そっちは何とかなったんですよ。来週引っ越すそうで、挨拶に来ました」


 ……隣の部屋のシングルマザーは、昨夜年配の夫婦と一緒に、フロアの住人達へ菓子折を持って引越しの挨拶回りをしていた。

 年配夫婦は彼女の両親かと思ったが、彼女の勤め先、近所の駅前にある工務店の経営者夫妻だった。


 赤ん坊を抱きながら、彼女は近所迷惑になっている男の来訪を詫び、そして実家に戻る事になったから、もう皆様にご迷惑はかけませんと、後見人らしき経営者夫婦と一緒に頭を下げた。


「赤子抱えてワンルームマンション暮らしという段階で、幸薄さが漂っているわね」


「子供抱えて暴力亭主から逃げて、やっとの思いで離婚できたけど、実家に帰れずに仕事探したら、その工務店の仕事見つけることできて、それでこの土地で暮らす事にしたそうです。工務店の社長とマンションの大家が友達で、そのつてで入居してきたとか…」


 私は、自分と同い年の彼女の顔を思い浮かべた。


「それなのに、DV野郎の元亭主に、居場所を知られたそうで。それで奴は復縁を迫って毎日のようにここに来ていたんです。それでせっかくの仕事も辞めて引っ越すことにしたそうなんです……疎遠になっていた実家と和解したのが、まあ救いかな」

「やけに詳しいね」

「香川さん…あ、シングルマザーの名前です。彼女とは挨拶や立ち話はする仲なんですよ」


 DV元亭主は、以前違う職場で働いていた時に知り合ったという。

 ギャンブル好きで現在は職も家も失い、借金取りから逃げ回っていて、正に最低人生のロイヤルストレートフラッシュともいうべき人材であった。


 マンションの出入り口ですれ違った事がある。20代後半あたりか、若いくせに妙に卑屈な目をした、ひょろ長いマッチ棒を思わせる男だった。

 香川さんはなかなか可愛い顔なのに、男の趣味が悪い。


「元亭主から、無事に逃げて欲しいです」


 そう締めくくり、私たちは昼休みを終えて立ち上がった。


 その週末からあくる週にかけて、イギリス旅行目前、休暇前に私は案件を片付けるべく、全ての敵を力づくでなぎ倒す戦士の如く、会社で働かなくてはならなかった。

 仕事をする私の机の横で、同僚や先輩たちは口にする。


「旅行土産の量は、置いていった仕事の量に比例する。ふふふ」

「請求書の作成くらい置いて旅行へ行きなさいよ……ところでハロッズの№14の紅茶、好きなんだけど日本で買うと高くてね」

「会議資料のチェックなら任せていいよ。ところでタータンチェックのカシミヤのマフラーが欲しいなぁ」


 私の旅行は、諸君の為のイギリスへ買出しではない。

 少女時代には児童文学を読みふけって、日本にはない異国の生活に憧れた。

 中高生ではコナン・ドイルやクリスティに夢中になった。

 そして映画でしか見た事のない、堅牢で優雅な石造りの西洋の街並みを歩きたい。 


 蚤の市へ行きたい。

 大英帝国が世界の国々から盗掘、略奪してきたお宝満載の大英博物館に、世界最大級の美術館のナショナルギャラリー、小さいながらも有名な絵画が揃い、館の内装も美しいコートールド、装飾品やデザインを中心に集めたヴィクトリア&アルバート博物館、英国美術コレクションを多数保有するテイト・ブリテンに近代美術の宝庫のテイト・モダン。


 滞在6日間で回りきれるかどうか。

 許されるなら土産を買う時間だって、削りたいくらいなのだ。

 心おきなくロンドンを満喫するために、仕事を残して代わってもらう恩を売られないそのために、出来る事は全て自分で終わらせ、休暇で不在の間に同僚や先輩に頼む仕事は、最小限にとどめる必要があった。


 寝食忘れる事はなかったが、時間を短縮して私はフル稼働した。

 そして、ついに旅行前夜を迎えたのである。

 この日のために買ったスーツケースに最後の荷物を入れた瞬間、私の頭の中にファンファーレが響いた。


 完璧だった。

 祝杯でも上げたかったが、すでに冷蔵庫は空っぽにしていた。

 それに明日は早起きして空港に向かう。

 酒は控える事した。


 珍しく静かな夜である事に気がついた。

 旅行前のドタバタした多忙に、周囲の様子に鈍感だったのだ。

 気分良くベランダの外に出て、大きく伸びをすると、あのはす向かいの家の電気が全て消えている。


 車はあるが人気は全く無い。旅行らしい。


「あ、そうだ」


 私はつぶやいた。

 隣のシングルマザー香川さんが、明日にはこのマンションから引っ越すという事を、今思い出したのだ。

 深い付き合いではなかったが、人柄には好感を持っていた。

 それに今夜が最後と知っているし、自分も明日から不在だ。


 20時を回り、訪問するには少し遅い時間ではあったが、隣人として今の内に短く挨拶しておこうと思い立つ。

 赤ん坊がいる事だし、チャイムではなくてドアをノックすると、すぐに香川さんが顔を出した。


 私たちは最後のお別れの挨拶を通り一遍済ませた。

 玄関口から丸見えの部屋の中は、家具は無く、すでに荷造り完了の段ボール箱がいくつか積まれている。

 玄関前にはボストンバックが一つ。

 部屋の隅に赤ん坊が毛布に包まれて眠っていた。


 香川さんの服装も部屋着ではなく、外出着だ。

 今すぐでも出てしまいそうなその様子に、ちょっと目を見張る私へ、香川さんは少し言いにくそうに口を開いた。


「実は、もう今夜の内に出る手はずになっているんです。夜逃げですけど、お世話になっている人がそうしなさいって。今夜はホテルに泊って、朝一番の汽車で実家に帰ります」


 ああそうか、と私は合点がいった。そしてつい、声を落として聞いてしまった。


「……で、アレは大丈夫?」

「はい」


 香川さんはしっかりと頷いた。

 そして少し声を落とした。


「故郷にある地方競馬で、昔贔屓にしていた馬が、JRAにデビューするとか言って、それを応援しに遠方の競馬場へ行ってしまいました。今夜はいません」


 ならば、元亭主に見つかる不安はない。

 それで安心した私は、つい気安く彼女の肩を叩いてしまったが、彼女もそれを嬉しそうに受けた。

 元気でね。本心からの言葉を口にしようとしたその時だった。


 ガンガンと凶悪な足音が、階段を上ってくる。

 香川さんの体がはっきりと硬直した。

 ある予感に、私も玄関口から動けなくなった。


 香川さんが浮かべた「絶望」その表情を現実で見たのは、これが初めてだった。

 振り向いた私の目に飛び込んできたのは、廊下を走って向かって来る男だった。

 着るシャツの袖も襟も、だらしなく伸びきった服装で、どう見てもまっとうな人間には見えない、ひょろ長いマッチ棒のような男。


 しかし、浮かべている表情は黒かった。

 貧相な顔に憤怒、狼狽、焦燥に殺意、それを煮詰めて腐らせた醜悪が燃え上がっている。

 男が私の肩をわし掴み、押しのけて玄関前から引き剥がした。

 マッチ棒のような体型からは、思いもよらない男の力だった。


「嫌な予感がしたんだ!」


 男……香川さんの元亭主が吼えた。


「お前、おれから逃げるのか! 逃げるんだな! 俺がこんなにやりなおそうと言っているのに、嫌だっていうのか? 何でだよ、何でそこまで俺を嫌うんだよ!」


 元亭主が両手を伸ばし、香川さんの首を絞めようとしたが、香川さんはそれを振り払った。

 声にならない悲鳴を出して元亭主を突き飛ばそうとする。

 こいつを部屋に入れたら危険だ。


 私はとっさに元亭主の胴体に腕を巻きつけ、玄関から引き剥がそうとした。

 しかし、相手は暴れ馬の如く私を突き飛ばした。


「サヤカ!」


 尻持ちをついた私の目に、部屋に押し入る亭主の背中が入る。

 香川さんの怯えた顔が背中の隙間から見えた。

 元亭主は部屋に積んである段ボールを、敵のように蹴り、放り投げた。香川さんが部屋の隅に追いやられ、赤ちゃんを抱いて震えている。


 このままだと2人に危害が及ぶ。

 何か武器は、と廊下に座り込んだままで周囲を見回した私の目に、多分、夜逃げの手引きに来たのだろう…あの経営者夫婦の姿が目に入った。

 男の怒声、開きっぱなしのドアと床に転がる私の姿で、すぐさま事態を察したようだ。


「何している!貴様!」


 経営者夫妻が部屋に飛び込んだ。

 夫の社長が元亭主を羽がい締めして動きを封じる。

 初老ではあったが、筋肉質の体だった。

 昔大工仕事をしていたのかもしれない。


「サヤちゃん! キョウちゃん大丈夫!」


 社長が元亭主と戦っている間に、その妻が香川さんに駆け寄った。

 そのまま女2人と赤ん坊で、部屋から脱出出来ればいいのだが、玄関前で揉みあう男2人が邪魔である。

 しかし、社長が元亭主を道連れにするようにして床に転倒した。


 そのまま部屋の外の廊下に転がる。今の内だ早く、と私は叫んだが、香川さんも奥さんも硬直して動けない。


「やばい!」


 私は叫んだ。元亭主が社長の上に馬乗りになったのだ。

 首を締められる社長の姿に、私は飛び込もうとした…が、先を越された。


「何やってんだ!あんた!」


 同じ階に住む中年サラリーマンだった。 

 帰宅直後らしい背広姿の彼は、社長にまたがる元亭主の首を後ろから抱え込み、無理やり引きずり上げる。


「何の騒ぎだよ!」


 ドアから住人の顔が飛び出した。大学生のお兄ちゃんである。

 首をさすり、げえげえと息をする命拾いした社長の姿と、サラリーマンと揉みあいながら床に転がる元亭主の姿に目を見開き、裸足で駆けだしてきた。


 だらしない服装の、凶悪な空気を発散する男と、マンション住人のサラリーマン。

 どちらが悪役かを瞬時に見抜いたらしく、サラリーマンに加勢して元亭主に組みつく。

 また違う部屋のドアが開いた。


 出て来たのはスゥエットの部屋着姿の女性で、私よりも年上のOLだった。

 この争いを見た瞬間に、体全体を強張らせて硬直する。

 男3人が玉になって揉みあった。

 殴り合い、掴みあう。


 まるで獰猛なおしくらまんじゅうだった。

 奇声と怒声が混じり合い、獰猛な音を立てた。

 数では2対1で、元亭主が劣勢のはずだが、執着の狂気が力を増幅させるのか、サラリーマンと大学生が振り回されている。


「うわっ」


 大学生が大きく跳ね飛ばされ、床に転がった。

 その体の上にサラリーマンが倒れた。

 男2人が廊下に折り重なり、低い呻き声を立てる。


 男2人を振り切った元亭主は、肩を上下させながら部屋の奥を見抜いた。

 その先にいる香川さんを見る目に、私は粟だった。

 何もない。空っぽだった。空洞の目だった。


 以前、殺人者の目を「サメの目だ」と比喩した作家の文章があった。

 映画「ジョーズ」のサメを見れば、確かにそうだと納得できる。

 あの目には感情はない。

 ただ、殺す、食べるというプログラミングがあるだけだ。


 元亭主の目も、それと酷似していた。

 人の命を奪うという、人間にとって最大の禁忌に対する躊躇もない。

 道徳心も感情も全てが闇の中で溶け込んで形を失い、黒い目となって香川さんを見つめている。

 人間ではない目で。


 私は動けなくなってしまった。

 そんな私を押しのけて、元亭主を制止しようとしたのは何とOLだった。

 土足で女の部屋に入ろうとする男に、すぐさま状況を見抜いたらしい。

 ドアから飛び出し、何と靴べらで後ろから後頭部を殴る。


 長さのある木製の靴べらなので、当たったらダメージが与えられそうだったのだが……何と効かない。

 しかも振り向きざま突き飛ばされ、悲鳴を上げて床に転がった。


「逃げて!」


 香川さんへ私は叫んだが、声になったかどうか、分からない。

 元亭主が土足で部屋に入る。

 それを私は追った。

 玄関に入ってすぐに私の目に飛び込んだのは、へたり込んで動けない香川さんの首を締めあげる殺人者だった。


 香川さんの体が、無理やり立たされるように上がる。

 もがく香川さん、殺人者の腕にしがみつく社長の奥さん。

 泣きわめく赤ちゃん。

 3人が団子になって揉みあう。


 その時、香川さんはよろけながらも、元亭主を思い切り突き飛ばす。

 香川さんの動きにつられて奥さんも大きくよろけた。

 その全体重を受けとめきれなかったか、自分も何かにつまずいたか、元亭主の体のバランスが大きく崩れて、後ろに数歩後退し、仰向けに倒れる。


 女2人の体重を乗せて「ごき」とか「ぐき」とか音はしたが、元亭主の悲鳴はなかった。

 後ろから足音が響く。

 社長だった。サラリーマン、大学生にOLが続く。


 部屋から洗面所に続く、その段差を枕にして亭主は仰向けに倒れていた。

 元亭主の頭の先には洗面所と部屋の床にある、段差の角があった。

 倒れた拍子に後頭部を段差の角で打ったのだ。元亭主の目が飛び出し、口が醜いまでに絶叫の形に広がっていた。


 転倒した音も、備えつけの絨毯が吸い込んでいた。

 元亭主の体は小さな痙攣を起こしていたが、すぐに動かなくなった。

 あんなに手こずった相手の簡単な死に、その場面に皆は茫然と固まっていた。


 そして皆は死体の前にやってきて、それぞれが恐る恐る覗きこみ、全員が元亭主の死を確信する。

  元亭主の頭の形は、粘土細工のように一部が大きく陥没していた。

 目には光はなく、見開いたままの空洞だった。


 ……人の頭の形って、こんなにへこむんだなあ、と、部屋の中に転がる元亭主の頭の形に、私は妙な感慨に捕らわれていた。

 元亭主が死んだ、という事に、誰も疑問は挟まなかった。

 皆の無言の中、香川さんの声が低く流れ始めた。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 呪詛のように、お経のように、ただ繰り返す。

 香川さんを守るよう抱きしめている社長の奥さんの顔は、白くなっていたが目は奇妙に落ち着いていた。社長も同様だった。


 さやちゃんは、悪くない。そう呻く。

 ごめんなさい、と香川さんはそれでも呟いた。

 抑揚も無い、念仏のように。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい…しゃちょうに、おくさま…おおやさんも、みなさんが、たくさん、たくさんたすけてくださって、それなのに、おんがえしどころか、それどころか、ごめんなさい……」


 しん、と場は静まっていた。

 泣いていた赤ん坊も、泣きやんでいた。

 友人というものではないが、私は香川さんの日々を少しは目にしていた。

 恐らくだが、他の住人も多かれ少なかれ、彼女の事情を察し、そして見ていたと思うのだ。


 赤ん坊と買物袋を抱えて部屋に入る姿、外で歩くネコを赤ん坊に見せて「ほら、にゃんにゃんにコンニチハよ」と、笑う我が子の小さな手を振らせる姿。

 子供を抱えて生きる彼女には、転んだ人間が立ち上がり、懸命に道を歩む悲壮さと、透明さがあった。


 赤ちゃんの泣き声も聞こえず、全く迷惑をかけられた事も無く、集合住宅のマナーもきちんと守る良い住人だった……あの元亭主がやってくるまでは。

 「不条理」「残酷」人生で初めて私は苦く、やりきれなく痛感した。


 限りなく事故で、しかも香川さんは殺されかけた。

 正当防衛だ。

 それでもこれが事件になれば、元亭主は被害者、香川さんが加害者となる。

 それは一生、ついて回る。


 今この場にいながら何も分からない、この赤ん坊にもその余波はかかる。

 元亭主は死ぬ事によって、自分を捨てた元妻に見事な復讐を遂げたのだ。


 ……ふいに、OLが口を開いた。


「もしかして、この階に住んでいる人全員、ここに集合していますか?」


 大学生が答えた。前髪の長い、茶髪の若者だった。


「いや、1人だけいません。でもそいつ、今夜留守です。合宿だとか」


 ……格闘で乱れた背広姿のサラリーマンが、腕時計を確かめた。

 意外な事に、元亭主来訪から格闘、死亡まで、10分も経っていなかった。


「……静かですね」


 サラリーマンが嘆いた。


「もしかして、他の階の住人、無関心なのかな」


 パトカーの音も聞こえない事に、私は気がついた。

 あれほどまでに格闘し、騒ぎを起こしたと思ったのだが、誰も通報しなかったらしい。

 

  再び沈黙が訪れた。皆は立ち尽くしたままで、今夜には明け渡される予定だった部屋の床をじっと見ていた。

 もう死体からは目をそらし、途切れがちな言葉のやり取りの中で、お互いに何かを探り合っている。


 沈黙が破られた。社長だった。


「……みなさん、申し訳ありません」


 深々と、土下座のように頭を下げた。


「このような騒ぎを起こしてしまい、誠に申し訳ない。謝罪し足りない。それでもどうか、この娘を責めないで下さい。この子は……巡り合わせが悪かった」


 奥さんが社長に続いた。

 まるで香川さんを皆の目から守るように、赤ん坊ごと彼女を抱きしめながら。


「申し訳ありません……この娘は、わたしたちの……死んだ娘に似ているんです、どうか……許して…」


 香川さんの体が、奥さんの腕の中で震えていた。

 蒼ざめた顔で、社長と奥さんを交互に見つめている。 

 泣こうにも泣けない、瀬戸際の感情というものを私は見た。

 これは辛い。


 夫婦の純粋な愛情……実の娘に注がれる愛情に等しいものを受け取りながら、それを返す事が出来ない自己嫌悪と無力感。

 社長は顔を上げた。

 そして、言った。


「この娘は、悪くないんです」


 そして、私たち住人1人1人の目を見つめた。

 父親の目だった。

 娘と孫を守る、強い男の目。

 口にはしないが、目は雄弁に私たちへ願い、要求していた。


 そして彼がこの後、妻と共に香川さんと赤ちゃんをどうする気なのか、私でも分かった。

 香川さん親子の為に、社長は奥さんと共に、明らかに世間を敵に回す気だった。

 皆が社長の気迫に呑まれていた。

 その時だった。


「どうでもいいです。私には関係ない」


 万感の思いがこもる社長の言葉を、蝿のように叩き落したのはサラリーマンだった。

 空気が一瞬にして漂白された。

 空気読まないどころか、破り捨てたその男、あの元亭主との戦いは、いったい何だったのかと思うようなつれない態度。


 中年サラリーマンが、くたびれた姿で立ちあがった。


「申し訳ないが、私はそういったつまらないトラブルに巻き込まれるのは非常に困る。特にこういった争い事は、一番避けて通りたい……ちょっとお母さん」


 サラリーマンのごつごつした指が示したのは、毛布に包まって眠る赤ん坊だった。


「赤ちゃんの顔が、毛布で埋まっています。窒息したら危ない」


 香川さんの顔が、跳ねあがった。

 慌てて赤ん坊の毛布をかけなおし、注意したサラリーマンへ小さく頭を下げる。

 そして、再び子供を抱きしめなおした。

 じっと我が子の寝顔を見つめる。


 サラリーマンは、独り言のように嘆いた。


「……赤ちゃんは、お母さんが見ていてあげないと」


 では失礼、それだけ言い残して、サラリーマンは出て行った。

 ……サラリーマンが去る。

 彼の行動が、私を後押しした。

 OL、そして大学生が同時に立ち上がった。


「俺も、厄介事に巻き込まれるのはゴメンです。だから何も知らないし、無関係って事で勘弁して下さい」

「私、実は眼鏡ないと何も見えないし、今までも何が起きたか、何があるのかも見えてないし。それじゃ、さよなら」


 そして、OLは玄関で振り返った。


「もうお会いする事はないでしょうけど、ママと赤ちゃん、元気でね」


 大学生も一瞬だけ振り返った。そして小さく手を振る。

 やはり2人も考えは同じかと、私は読みとる。

 一致団結。

 4階の住人たちは暗黙の共闘関係を結び、社長の側に回った。


 そうなれば、迷うことはなかった。私も遅れじと勢いよく立った。

 そして、迷うことなく答えを放った。


「香川さん、田舎でもお元気で。赤ちゃんバイバイ」


 ……玄関口で一瞬振り返った私の目に映ったのは、深々と頭を垂れる香川さんと、そして社長夫妻だった。


 実を言えば、最初から通報する気になれなかった。

 自ら警察に通報し、香川さんをその手に引き渡すのは、あの元亭主の思惑に乗って、復讐に加担してしまうような気がしたのだ。

 それはあの工務店夫婦の心をも、台無しにしてしまう事だった。


 なんといっても、旅行を中止したくなかった。

 通報すれば、当然同行を求められる。

 調書に署名に現場検証「これからイギリス行くのでお話は帰国してからにして下さーい」なんて国家権力の前で言えるはずはない。


 格安航空券での搭乗なので、日付の変更は不可、当日払い戻しも出来ない。

 ホテルのキャンセル代は誰が払うのだ。

 そして休暇は?

 旅行にかけた、私の日々に情熱に労力は?


 あんな屑のために、旅行を台無しにしてたまるか。

 法治国家が何だ。

 人権とは人の権利だ。DV男にそんなモノはあるか。


 私は早朝、迷う事なく空港へ駆けつけた。

 その日ばかりは犬も子供の声も気にならなかった。

 そしてロンドン行きの飛行機が離陸した瞬間、エコノミー席で全てを忘れた


 ロンドンの数日間、日常から脱出した解放感と、異国での緊張感の中にいた。

 おかげですっかり旅行前夜のことは忘れていた。

 しかし、帰国した瞬間、スイッチが入った。


 私は部屋に入ってからスーツケースを放ってインターネットを検索し、それらしい事件を調べた。

 会社へ出てからも、保管している古新聞を全種類チェックした。

 しかし、元亭主らしき男の死亡を報じた記事は無い。


 管理人室へ土産を持って訪ねてみた。

 それでも管理人さんとの世間話に、香川さんの話題は出ない。

 マンションの雰囲気も変わりない。

 当然ながら、香川さんだけが消えていた。


 隣室は空き部屋。

 それだけだった。


 帰国後に1回2回、あの工務店の社長をマンションの前で見かけて驚いたが、どうやらあの「騒音家」の隣に建つ家は、社長の工務店が建築を請け負っているようだった。その家も基礎工事から、すでに土台が出来上がっていて、1軒の家が出来上がった頃、社長の姿を見る事は無くなった。


 完全に、事件の痕跡はなかった。

 私は胸をなでおろした。

 香川さんは赤ちゃんと逃げ切ってくれたのだ。

 全てのパーツが綺麗に収まったように物事は片付いて、事件の痕跡も残されておらず、安堵はしたが、疑問は残る。


「元亭主」の死体はどこにやったのだろう。

 しかし、当時の皆に聞いて回る訳にはいかないし、絶対誰も知らない。

 そう思っていた。

 しかし、教えてくれた人がいた。


 ……私の母だった。


「辛気臭い家ねぇ」


 あれから数カ月経った休日の昼間、母がやって来ての一言である。

 娘の1人暮らしの定期的監視兼、都心へ買物出たついでのお茶休憩に、母は1カ月に1度はマンションにやってくる。

一緒に暮らせば煩い母だが、たまになら大人の社交で応対できる。


 ちょうど3時のお茶の時間だった。

 私はイギリスで購入した茶器に紅茶を注いでから、ベランダに出て外を眺める母の元へ歩んだ。


「どこが?」

「あそこの続きの2軒」


 母が指差したのは…はす向かいの「騒音家」だった。

 そして、その隣。

 駐車場を取り壊して、隔ててあったフェンスも取り払って、敷地が一つにつながり、そこに建ったのは豪華な二世帯住宅だったのだが。


「こんなに天気がいいのに、家中のカーテンも閉めちゃって、ひっそりしているわね。庭も何だが荒れているし」


 ベランダからよく見える、二世帯住宅の庭を見下ろす母の横に私は立った。

 母の言うとおりだった。

 あの家が出来てから、子供のうるさい声も犬の鳴き声もぴたりと止んだ。

 せっかくの広い庭の花壇の花も枯れていた。


 夜に灯りは点いているので、住んでいるのは間違いない。

 だけど、いつも2軒とも窓のカーテンが全て閉まっている。まるで外から家の中を遮断するように。

 奇妙な雰囲気を発し始めたあの家を、不審に思ってはいたが、それ以上に静かになったのは喜ばしい事だった。


「……何をあの人、庭でずっとうろうろしているのかしらね」


 突然、母が言った。

 私は「え?」と無人の庭に目を凝らした。


「庭って、あそこ?」

「そう、はす向かい」


 母が示すのは、間違いなく無人の庭だった。

 どこよ、と私は聞いた。


「今、ど真ん中にいるじゃないの。ひょろっとした男の人……なんか影が薄いね」

「……」

「いやね、あんた目が悪くなったんじゃないの? ちゃんとビタミンA摂ってるでしょうね」


 ベランダから部屋に戻る母の言葉を背に受けながら、裸眼視力1・5の私は目を凝らす。


『ビタミンAは近眼じゃなくて「夜盲症」だよ』と内心で反論しつつ庭を凝視するが…いない。


――事件当時、あの家は基礎工事段階だった。

 隣の騒音家は旅行で不在。

 そして、工事を請け負っているのはあの社長の工務店。

 社長の覚悟を決めた目、奥さんの必死な目。


 社長夫妻はやってくれたのだ。

 ……そうか、あそこか。

 アレを埋めて建てたあの家で、敷地で一体何が起きているのか。

 何が徘徊しているのか。


 しかし、町に静寂が戻ったのは事実である。

 それにあそこにいるのなら、今度こそ香川さん親子は自由だ。

 私は部屋に入った。


 それならそうで構わない。

 どうせ私には見えないのだから。


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