第6話 検分画の首
その絵を見た瞬間く私と母、絶句しました。
「何この絵!」
母の感想に、私も同調しました。
「……気持ち悪い」
妻と娘、私たち二人の反応は、父の機嫌を良くしただけでした。
恐らくこんな反応は予想済みで、しかも父が望んでいた通りのものだったのでしょうか。
「お前らなら、そう言うと思った」
父はリビングの応接テーブルの上に広げた細長い和紙と、私たち二人を交互にニヤニヤしながら見比べました。
それは、日本画でした。
いえ、「画」ではあっても、芸術品ではありません。
この絵には、書き手の筆にこもる「美」「情緒」という美的感性を全く感じませんでした。
ただ冷徹に無感情に、今でいうなら「カメラ」として、目の前にある対象物を絵に写し取っただけでした。
対象は、男の生首でした。
目を閉じた、ザンバラ髪の男でした。
薄い砂色の和紙に、細い墨の線で精密に描かれた、無表情な生首。
その切断面の黒い赤が淡々とした白黒の空間に、生々しい凄みを添えていました。
「……幾ら出したんですか?」
普段、父に従順な母の口には、微かな棘がありました。
「思ったほどじゃなかった」
気安い口調の父でした。
「これは江戸時代のもので、検分画というんだ。今でいうなら検死写真みたいなもんだ。昔は写真が無いから、斬首したら死体をこんな風に書いて、それを上に出す証拠にしていた。店の親父がどこかの旧家から仕入れて、真っ先に俺に見せてきたんだ。こんなもの、滅多に出会えるもんじゃないぞ。見ろよ、この迫力」
父の言葉に、母が肩を落としました。
私も息を吐きました。
「旦那さんに、仕入れを真っ先にお見せします」恐らく、店の親父……贔屓の骨董品屋にまた乗せられたのに違いありません。
骨董品の収集家はタイプが二種類に分かれます「綺麗なものが好き」「珍品が好き」父は完全後者のタイプでした。
そしてその収集家にとって、馴染みの店から「仕入れを最初に見せられる」客となるには、只のお得意様ではない、金を持っているだけではなく、品物の値打ちを知っている「目利き」でなくてはいけません。
つまり、経済面も、審美眼も兼ね添えている、店からも一目置かれている存在である。 そう特別扱いされるのが収集家のステイタスの一つです。
毎回、そうやって店の主人に乗せられ、妙なものを買ってくる父に、家では幼い弟以外、母と私はゲンナリしていましたが、父の経営する会社は軌道に乗っており、経済的には困窮する事がなかったので黙認されていました。
家族3人で住んでいるのは5LDKのマンションで、8畳の和室がありました。
床の間もあり、父の意向で特別注文された欄間もある、最近のマンションの和室にしては、本格的なものでした。
その「検分画」は、表具屋さんによって掛け軸にされ、母と私の反対もむなしく、客間の和室に飾られてしまいました。
他のコレクションと同じように、父の書斎に飾ってくれと懇願したのですが「掛け軸は和室だ」と強引に押し切られたのです。
私と母にとっては、気味が悪いだけの画でした。
何と言っても生首です。
しかし、それこそが父にとっては自慢らしく、父は釣り仲間3人を自宅の和室に招き、酒と料理をふるまって、生首の掛け軸を見せびらかしました。
「こりゃ、ヒョウさん、とんだもの手に入れたねぇ、よくこんなもの見つけたもんだ」
「生きているようだな。あ、そうか、死んだ奴の絵か」
和室の向こうで、どっと笑いが起きました。
「コイツ死刑で殺されたんだよな。何やらかしたんだろうな」
「何にせよ、今でいう犯罪者だろう。犯罪者の死体写真、飾っているようなもんだぜ。流石は兵頭さん、金持ちの道楽は突き詰めれば悪趣味に行きつくなぁ」
「お前だって魚拓取ってるじゃないか。あれだって魚の死骸使った判子だろ」
……和室から聞こえてくる、父とその釣り仲間達の笑い声に、リビングでテレビを見ながら私と母は、顔を見合わせてため息をつきました。
何も分かっていない、10才下の小学生の弟はゲームに夢中でした。
あの絵を和室に飾ってから、父以外は和室に入らなくなりました。
9才になる弟のヒロシもです。
ヒロシは和室の押し入れや欄間が遊び場として大のお気に入りで、以前欄間にぶら下がって遊んで以来、母から立ち入り禁止を言い渡されていましたが、押し入れなどで隠れて遊んでいました。
それがぷっつり無くなりました。
「あの子もあの絵が嫌なんでしょね」
母が言いました。
「あんな絵、どっかにやってくれればいいのに……掃除していると、視線を感じるのよ。気持ち悪い」
「あの絵、目は閉じているじゃん」
母をなだめながら、私も同感でした。
マンションは高層で、全面採光を売りにしている作りなのですが、和室の雰囲気が暗くなっていました。
窓は白い障子なので、カーテンよりも光は入るはずなのですが。
しかも、和室に湿り気を感じるようになりました。
空気が重い、厭な感じです。
まるでどこかに誰かが潜んでいて、ずっと悪意を込めてこちらを見ている……気のせいか、そんな気配すらありました。
……ある日、夜中まで大学のレポートに取りかかっていました。
ようやく完成し、トイレに行ってから寝てしまおうと部屋を出て、両親の寝室の前を通りがかった時でした。
「……貴方、最近何か上手くいっていない事、あるの?」
母の声でした。
どこか思いつめた声に対し、父の声は能天気でした。
驚いたように、え、何が?と母に聞き返します。
……しばらく、間が空きました。
互いに重苦しいというより、困惑の気配でした。
間が空いた後、二人の会話は無くなりました。
漏れている寝室の明かりが消えました。
……私は、そのまま部屋に戻りました。
父の釣り仲間、吉田さんが亡くなったのは、我が家に来て3週間後の事でした。
事故死でした。乗用車とトレーラーの正面衝突で、吉田さんは乗用車の運転席ごとトレーラーの下に巻き込まれて、即死でした。
葬式から帰って来た父は、震える声で言いました。
「……頭が、何かのはずみでトレーラーの部品で切り落とされて、道路に転がっていたらしい……」
この家にやって来た時の吉田さんの笑い声を思い出し、人の寿命の闇に、私は寒気がしました。
その後、1か月の間に立て続けに2人が死にました。
二人とも、父の釣り仲間でした。
あの夜に来た3人、全て死んだ事になります。
木下さんは、朝の駅のホームから転落して、轢死。
釜井さんは、釣り船から海に落ちて、船のスクリューに巻き込まれました。
母の様子が変わりました。
父に怯え始め、言葉を交わさなくなりました。
父も友人3人を立て続けに無くして、流石にショックだったのでしょう。
口数が少なくなりました。
「最近、お母さんとお父さん、変じゃない?」
不穏な空気に、ヒロシが怯えた顔を私に向けました。
部屋の天井に、薄い闇が出来ているような、最近の家庭の雰囲気でした。
以前なら、どんな諍いがあっても、まだ小学生のヒロシの周りに必ず笑いがあったのですが。
私は曖昧に笑って、ヒロシの頭を撫でました。
周囲の残酷な死の連鎖の事を、小さな弟の前で口にしたくなかったのです。
その夫婦喧嘩のきっかけは「あの和室を掃除するのが嫌だ」と言いだした母の言葉でした。
「畳を拭いても拭いても、綺麗になった気がしないのよ。窓を開けて、空気を入れ替えても、部屋に新鮮な空気が入った瞬間から、もう酸素が濁り始めている感じで……あの部屋にいると、沼の中にいるようだわ」
「拭いても綺麗になった気がしないなら、もっと拭けばいい話だろうが。汚れているから掃除するんであって、綺麗になった気がしないから掃除をしないって、お前、馬鹿か?」
「そうじゃなくて、感覚的な事なのよ!」
「お前のいう感覚の意味が分からん!」
休日の昼間だというのに、言い争いを始めた両親に私は茫然としました。
母が父にこんな強い口調で、食ってかかるのをみたのは初めてでした。
しかも、経済的な事だとか、女性問題などの分かりやすい争いではない、たかが「掃除」なのです。
時間に気がついた私は外に出ました。
ヒロシが少年サッカークラブから帰ってくる時間でした。
家に帰って来たヒロシに、あんな親同士の喧嘩を見せないように、マンションの前で待ち伏せして、ファミレスかどこかへ連れていくつもりでした。
私はマンションのロビーを出ました。
いい天気でした。
ロビーから出ると、緑に囲まれた遊歩道があります。
外から入ってマンションに続いてくる遊歩道に、私はヒロシの姿を見つけました。
水色のサッカーユニフォームで、歩きながら数人の仲間達とボールを蹴って遊んでいました。
子犬みたいに無邪気に遊んでいる弟へ、私は歩みました。
声をかけて、そのついでに注意をするつもりでした。
遊歩道の外は交通量の多い車道で、ボールが間違って車道に転がると、事故につながるからです。マンションの規約にも、注意が入っています。
ヒロシが蹴ったサッカーボールが、コロコロと足元に転がってきました。
「こら、ヒロシ!」
ヒロシはマンションのロビーから出てきた私を見て、「やばい」そんな顔になりました。
しかし、一瞬のうちに表情を変えました。
マンションの規則破りを、笑ってごまかすつもりだったのでしょう。
「なっちゃん、ボール取ってっ」
例え不純な動機の笑顔だったとしても、可愛い弟の笑顔でした。
弟の仲間達もいるし、ヒロシの体面上、強く言えません。
私は苦笑して、サッカーボールを取り上げました。
瞬間でした。ヒロシの表情が消えた気がしました。
耳に怪鳥の鳴き声がつんざきました。それは動物ではない、弟の声だと、私はすぐに理解できませんでした。
「くぃぃぃぃぃーっ」
弟が顔を無残な程に引き歪ませている相手は、間違いなく私でした。
弟はガタガタと震えて、私を凝視し、指示していました。顔は真っ白でした。
「!?」
只事ではない、弟の形相に私は吃驚し、左右を見回しました。
何が起きているのか分からず、ただ狼狽するしかない私の手から、サッカーボールが落ちました。ヒロシの異常な声は、止みません。
ボールは私の膝にあたり、ヒロシの方へ転がって行きました。
ヒロシは子供とは思えない絶叫を放ちました。
「ぎゃあああああああっ」
何が起きたのか分からず、逃げ出すヒロシの後を私は追いました。
マンションの敷地から、車道に飛び出すヒロシの水色のユニフォームが一瞬、視界に入りました。
そして、大型バスが。
高い音、低い音が頭に突き刺さり、意識が途切れました。
私は悪夢の中にいました。
私は車道の真ん中で、潰されたカエルのように、臓物ごと地面で平らになっているヒロシを見下ろしていました。
何も考えられない、全身が凍りついた私の目の中で、潰れていないヒロシの手首だけが、ずっと痙攣を起こしていました。
ヒロシの葬儀には、学校の友だちやその親、マンションの人に、父の会社の関係者と、大勢の弔問客が訪れました。
寺の外にまで、人があふれていました。
その中、母は錯乱したままでした。
葬儀客の相手など、出来る筈ないどころか、人形のように黙りこくっているかと思えば、読経の途中に突然立ち上がって
「ヒロシ! いったいどこまで遊びに行っているの? 早く帰ってらっしゃい! 怒らないから!」
と悲鳴を上げ、突然笑い出したりして、何度も葬儀は中断されました。
父は母を制止する気力も尽きていました。
弔問客に、機械的に頭を下げるだけの動作を繰り返している、それだけでした。
私は、現実感を全て失っていました。涙すら出ません。
ヒロシの最後が、目の奥にありました。
目を閉じれば、浮かぶのは闇ではない、ヒロシの痙攣でした。
耳に残るのは、ヒロシの奇声
(くぃぃぃぃぃーっ)
あの子は、どうしてあんな声を上げたのか。
何故突然逃げ出したのか。
……私を物陰から呼ぶ人がいました。
この寺の住職でした。
「お宅、えらいモノをもってはるね」
話の前後も無い、唐突さでした。
「え?」
住職は、半眼で私を見つめました。
「思い当らないか? どこから手に入れたか知らんけど、あれは人間が持つものじゃない……ええか、それの何が気にいって家に持ち込んだかは知らんけどな」
既に老齢の住職は、ヒロシの遺影の方へ、両親へと悲しげな目を送りました。
「人間、誰も好きで死ぬ訳ちがいますやろ。悲しい、恨めしい、未練、色々あるわな。人生の途中なら、尚更。それをあんた、自分の最後の姿を、趣味道楽の道具にされて見世物にされれば、そりゃあ怨むわ……」
呆然とする私を残して「もう、あかん」住職はそそくさと消えました。
見るに見かねて仕方なく、でも、出来れば関りたくない……そんな印象でした。
その時でした。
狂った女の声が私の意識を叩きました。
振り返ると、弔問客が騒然としています。その中で畳の上で父と母が転がっていました。
いいえ、母が父にむしゃぶりつき、父が母を振り払おうともつれ合っていました。
「あんたのせいで!」
狂った女の声は、母でした。
甲高い声の刃が、父を切りつけていました。
「あんたのせいだ!ヒロシが……ヒロシは、あんたのせいで!あんたみたいな父親のせいで!」
「何を、なにを言い出す!何の事だ!」
母の狂気が、父の正気を起こしたようでした。
首を締めようとする母に抵抗しながら叫ぶ父の顔は、真っ白でした。
「だから、だからいったのよっ……アレを、アレをどこかにやれってっ……アレは、アレはダメだって、それなのに、あんたはっ……あんたは憶えて無いの?本当に自分でおぼえてないのぉォっ?」
母の狂態に、私は愕然としました。
完全に壊れた人間の顔と声で、母は叫びました。
「まいにち、まいにち……夜中に、起きだして、あの部屋で……あんた、あの、絵の前にすわって……ゆるさない、ゆるさないって、まいにち、まいにち……私が、私がこえかけても……全然……ゆるさないって……」
ぎゃああっと母は自分の声を切り裂きました。
泣き声ではない、人が狂った声でした。
父を放り出すと、母は真っ二つに割れた人の間を駆けだして行きました。
母を、私は止められませんでした。
それが、母を見た最期でした。
あれ以来、母の行方は分かりません。
……父が部屋に火を放ち、首を吊ったのは、ヒロシが死に、母が消えて四十九日目の夜の事でした。
出火元は和室でした。
父はあの絵に火を点けてから、欄間に縄をかけてそのまま縊死しました。
私は軽いやけどで済みましたけれど。
以前、何かで読んだ、霊能者の話ですが。
今の印刷用の紙など、比べ物にならないほど、和紙は強いそうですね。
印刷紙は数年で劣化しますが、和紙に描かれた絵は、数百年経っても鮮やかに残るのだとか。
和紙に描かれた肉筆画は、こめられた力がずっと残るそうです。
もう、あの「検分画」は焼けてしまいましたが。
その後、色々ありましたが、私は結婚して子供が産まれました。
公園でボールを持った我が子に、私は携帯のカメラを向けました。
娘がボールを持って笑う顔を、レンズごしに除いたその時。
私は、奇声を上げていました。
その瞬間、悟りました。
あの日、ヒロシが出した声。
あれはあり得ないものを見た、恐怖の悲鳴だったのだと。
(くぃぃぃぃぃーっ)
弟が発したのは、悲鳴ではなかった。
あれは「首」だったのです。
あの日、私がヒロシに放ったのは、ボールではなかった。
娘がこちらを見て、笑っているデジタル画像。
その手にあるザンバラ髪の男の首。
開いた目は、カメラ越しに私を見ていました。
(もう、あかん)
住職の声がよみがえりました。
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