第7話 肉食のうさぎ

 彼女と初めて会った時、奥野信二は思った。

 これは、運命の神様が自分に与えてくれた『出会い』であると。


 異性に対する人の好みは様々で、年下から年上に同い年、可愛い系から美人、それから更に枝分かれして性格の強弱から口数の多少、声のトーンにまで、それを組み合わせていけばタイプは無限、しかもその好みがぴったりと当てはまる相手との出会いなど、奇跡に等しい。


 その奇跡が、信二の目の前に現れた。

信二がバイトしているレンタルDVD店の、会員申込用紙を手にして。


「新規の申込み、お願いします」


 栗茶色の髪を揺らし、彼女は微笑んだ。

 桃色の頬と唇、愛らしい垂れ気味の瞳、ワンピースとカーディガンを、目に優しいナチュラルカラーでまとめている。

 春の野原が似合いそうな娘だった。


その微笑みは片隅にそっと咲く草花の様で、目立たない美しさと可憐さが、そして楚々とした清らかさがあった。


『葵優奈』

『○○町6丁目5の4―302』

 運転免許証と申込書を受け取り、名前、住所を確認、そして携帯電話番号に年齢、信二彼女の個人情報全てをパソコンに、そして頭に叩き込んだ。


『葵優奈』は、その日から週に1回、金曜か土曜日の夕方に来店し、DVDを1本2本借りていく。

 信二好みの大人しげで愛らしい容姿は、他の従業員の目も引いているらしく、店で客が引けたレジや、従業員の飲み会などの雑談にたまに出る。


「土曜の夕方に来るあの子、可愛いですよねぇ」


 店が閉店した後の、休憩室で軽い飲み会だった。

 小部屋のテーブルにはスナックや乾きものが広げられて、ビールも数本ある。

 レンタル店の閉店は午前1時なので、どこの居酒屋もこの時間はどこも閉店している。帰りに寄る場所が無いので、たまに遅番の従業員同士がここで小宴会しているのだ。今夜は信二を入れて3人だった。


 タバコの煙で燻製になりそうな小部屋で、更に煙を吐き散らしながら、信二の仕事の後輩の田中が言った。


「なんていうか、絶対に人を傷つけません、てな感じで、名前からして「ゆな」なんてホンワカしてますよねぇ。癒し系って奴ですか。付き合ってみたいなあ」


 癒し系、なんて俗な言葉で彼女を評するなと、信二は思わず醒めた目を田中に向けた。

 付き合ってみたいなあ、なんておこがましい。

 大衆向けに商品化されたアイドルに対してならまだしも、相手は現実にいる個人であり、しかも俺の理想なのだ。


「男って、つくづく外見で騙されるよねぇ」


 フリーターで一番年長の尚美が、呆れ果てた顔で田中を眺め、鼻からタバコの煙をため息がわりに出した。


「確かに虫も殺しませんって顔しているけどさ、私の知り合いでああいう子いたよ。見た目は完全お嬢で、中身はヤリマンで貢がせ女王で、不倫オヤジと金持ちのボンボン両方を手玉にとる凄腕だったけどね、その辺りの事情何も知らない田中くんみたいな男は、合コンでヒャクパーがあの子にコロリ」


「えええ、そうかなぁ、じゃあ何故尚美さんは、「虫も殺さない」風を装えば男もコロリなのにそうしないんですか?」

「あたしはね、飾らないあたしを好きになってくれる男しかイヤなの!」


 尚美は芋虫のような指で、タバコを惨殺するようにねじり潰した。

 信二は内心、吐いた。

「飾らない自分」なんて、素朴な響きに騙されてはならない。


 そのセリフは、飾らないじゃなくて、飾るほどの素材が無い奴らほど使いたがる。

 てめえみたいな金色のホウキかぶった手足のついたゴミ箱、そのものが良いのだという男がいれば、それはスナッフビデオの撮影監督か、己を罰したがっているマゾだ。


 しかも、自分の知り合いを出して、間接的に彼女を愚弄するとは。

 尚美と、目があってしまった。


「どおなの、奥野くんも、ああいう子が好き?」


 こんな奴の為に、声を出したくない。


 曖昧に流してやろうと思った信二の横から、田中が口を挟んだ。


「奥野さん、カノジョいたでしょ」

「別れたよ」


 えええと田中が驚愕の声を上げた。

 えええと嬉しげに尚美が叫んだ。


「カノジョ、美人でしたよね。勿体ない!」

「どうだっていいだろ」

「あーでも」


 田中が慰め顔で言った。


「奥野さん顔いいし、大学も賢いし、就職もいいトコ決まったし、すぐ次のいい子見つかりますよ」

「ねーね、何で別れたの?」


 尚美の目が、らんらんと光る。


「まあ、色々と」

「その色々が知りたいんだってば」


 うるせぇな、と怒りが咽喉元どころか、前歯の裏にまで押し寄せた。

 それでも言った。


「カノジョ、タバコは吸わないって言っておきながら、実は喫煙者だったんですよ」


 不愉快になった……タバコを吸うような女はロクなものじゃない。

全てヤンキーか売女、普通一般の女の価値の八割減である。

 見事に騙されるところだった。

 タバコも持ち歩かず、匂いも無かったので気がつかなかったが、遊びに行った彼女の部屋で、灰皿を見つけてしまった。


 俗に言うお嬢様大学の学生で、顔は可愛いが気が強くて我儘だった。

 この辺りも幻滅対象だったが、タバコが最後のひと押しとなった。君がそんな女だったなんてと怒ったら、ウルサイ悪いかこのドリーマーと口汚く罵られ、怒鳴られて愛想が尽きた。


 そしてそのまま破局だ。

 今まで騙されていた腹いせと、彼女の剣幕に押されて最後までぶつけ切れなかった怒りもあって、その後数日間は、腹立ち紛れに数十回無言電話を彼女の家にかけた。


 ピザに寿司の宅配を彼女の家にそれぞれ10人前注文した。

 そして出会い系サイトに彼女の名前とプロフィール、メアドを登録し「変態プレイ大好き」「恥ずかしいけど、●×▲願望がありまーす。同じ趣味のヒト、お・ね・が・い」と自己紹介欄に入れてやって、ようやく心が落ち着いたところである。


 ヘビースモーカーの尚美の顔が、たちまちのうちに不機嫌となった。

 尚美はバイトの中では一番年長の古株であり、5才年下の自分にどうも気があるらしいとは気がついていた。機嫌を損ねたら、色々厄介だ。

 しかし就職は決まったのだから、もうどうでもいい。


 どうせ2か月後、春前にはここも辞める。


「……女に対して、妙に夢持ってなあい?」

「そうですか?」

「男の理想の基準って、ママらしいわね。ねー、お母さん、タバコ吸う?」

「吸いませんよ」

「あのさあ、ママとカノジョ候補は別に考えなきゃダメよ」

「……」

「もしかして、本当に女の子を好きになったこと無いんじゃない? 信二くん、現実教えてあげようか?」


 尚美のからかう目に、下品な光を見た。

 うるせえ、ブタヤロウ、貴様が現実の女代表だとしたら、この世の男は全員ホモになるか、地球人口の半分が虐殺されるか、どっちかだ。

 ついでにいえば、俺のファーストネームは、てめえみたいな女から呼ばれるためにつけられたのではない。


 尚美が胸を突きつけた。


「タバコくらいで別れるだの言う、心の狭い男なんか駄目よ。そんなおキレイな理想ばかり追いかけていたら、理想を装う女に騙されるわよ」


 目撃者がいなかったら、多分殺していたに違いない。


 店を出たのは午前2時近かった。

 店の前で二人と別れ、信二は真っ暗な道を歩き始めた。

 街灯の灯りも足元にまで届かないほど、闇は濃い。

 このまま真っすぐ歩けば、自宅に帰りつく道を信二は曲がった。


 この先に彼女「葵優奈」の住むワンルームマンションがある。 

 灰色のタイル張りで、五階までしかない低層階のワンルームマンションだったが、丑三つ時に見ると巨大な墓標のようだった。

 部屋の位置は、以前に確かめてある。


 信二は優奈の住む4階の窓を見上げ、灯りが漏れていないか確かめたが、もう寝ているのか窓は暗い。

 ……落胆しつつ、信二は安堵した。

 優奈は平日に夜更かしするような、だらしない子じゃない。朝に起き、夜にはきちんと眠る、規則正しい生活のOLだ。


 信二は携帯を取り出し、初めて会ったその日に登録した優奈の携帯番号を押した。

 多分、寝ている。それでも声が聞きたかった。

 優奈の携帯と自分の携帯を通じて、世界で二人だけのような、この真夜中の静かな世界を共有したかった。


 ……呼び出し音が4回、5回鳴る。やっぱり駄目かと落胆したその瞬間、通話が通じた。信二の心臓はスキップした。


『……もひもし……』


 寝ぼけている声。昼間のレジでは決して聞けない彼女の声のトーンだ。

 だが、不機嫌そのものの声に信二は落胆した。

 彼女はこんな声を出すべきじゃない。

 通話を切った。今度はもっと早い時間にかけようと、信二は反省した。


 今現在、優奈にとって信二は「行きつけのレンタルDVD屋」の店員に過ぎない。

 お互いに、ちゃんと知っているのは顔くらいのものだ。

 しかし、自分の事をもっとよく知ってもらえれば、優奈は自分に好意を持つ確信が、信二にある。


 実を言えば、今まで自分に対する彼女の態度にも、甘い不自然さを感じた時があったのだ。

 返却されたビデオを棚に戻す時、彼女が傍に立っていた時が何度かあった。

 それも恋愛モノやファミリー向けではない、スプラッターやバイオレンスなど、女性はまず観賞しないDVDの場所なのに。


 それに彼女は、レジの店員が女性の時は、必ず自分の所に来る。

 まるで女の店員と自分の間に割入るかのように。

 うぬぼれではなく、客観的に見ても、信二は自分の容姿は並以上だと知っている。

 どんなに自分自身が卑下しようとも、今までの経験や信二に対するあの尚美の態度を見たら、自覚せざるを得ない。


 自覚しない方がかえってイヤらしい。

 優奈の方から自分にアプローチしてくれれば一番近道なのだが、彼女はそんな積極的な娘じゃないと信二は見ている。

 恋に臆病とはいわないが、恥じらいが勝つのだろう。


  かといって、信二の方からどうやって出ればいいのか、それも難しかった。

 一番接点のある場所はバイト先のレジだが、人目があり過ぎた。

 話しかけようにも他の店員がいるし、客もいる。

 密かに彼女に手紙を握らせようにも、レジの中は狭いのだ。


 すぐ見咎められる。

 ……仕方がない。

 信二は毎日、彼女の携帯に電話をかけた。


『……どなた?』


 いぶかしげな、彼女の声。

 最初に信二は自分の正体を明かそうと思ったが、考え直した。

 いくら淡い好意を抱いている相手でも、いきなり携帯に電話がきたら、例え自分でも警戒すること当り前だ。まずは自分の声を聞いてもらい、そしていたずらや冗談ではない事を伝えないと。


 大丈夫、きっと彼女なら分かってくれる。

 相手は信二なのだ。

 恋に恥じらいやためらいを持っているのなら、それを取り除かないといけない。


『こんにちは、今日は何をしたの?』

『帰ってくるの、遅いんだね。心配したよ、仕事なの? 大変だね』

『そろそろ寝る時間だよ、お休み、優奈ちゃん』


 小さな少女に聞かせるように、毎晩信二は優奈に語りかけた。

 優奈は黙っている。

 返事は無いが、信二の声を聞いている事は確かだった。

 信二はまるで臆病なうさぎに、心を開かせるかのように声を出した。


 或る夜、信二は驚愕した。

 大学卒業前の、最後の登校だった。

 もう就職も決まり、授業の単位も揃っていたので卒業も間違いなく、授業に出る必要も無かったのだが、就職で世話になった教授や職員に一応の挨拶と、そして友人たちと飲みに行った帰りだった。もうすぐ日付が変わる時間だった。


 駅の改札口から吐き出された人々の中に、優奈がいた。

 隣には若い男がいた。

 頭からバケツ一杯の瞬間接着剤をかけられたように、信二は動けなくなった。

 そんな信二の心もしらず、優奈は男と並び、信二から遠ざかっていく。


 信二は追いかけた。

 夜の道に、男と優奈の声が流れる。

 何を話しているのかははっきりと聞き取れないが、男の声は若い。

 もしかしたら、信二よりも年下かもしれない。

 時に笑い声が二人分。


 その屈託のなさは信二をえぐり、優奈の笑顔が自分以外の男に向けられている嫉妬は、信二をザクザクと切った。

 あり得ない、あってはならない仮定を信二は想像した。

 震えながら二人をつける。


 もしも若い男が優奈の部屋に入ったら、後ろから襲いかかる覚悟まで決めていたが、マンションの前で二人は別れた。

そして優奈は部屋に戻って行く。

 しばらくして、優奈の部屋の電気が点いた。


 信二は携帯を取りだした。

 全身が溶けて流れるような安堵と、こんな深夜に知らない男と歩いていた、優奈に対する怒りを同時におぼえながら、それでも優しく、信二は携帯に出た優奈に話しかけた。


「駄目じゃないか、こんな時間に男と一緒なんて。何かあったらどうするつもりだ、君はそんな軽はずみな事をするような女の子だったのか?」

『……』


 息をのむ音がした。

 優奈が恐怖をはっきりと抱いている事を、信二は感じた。

 優奈が信二の奥底に秘めた怒りを感じ取り、それに怯えている……今、自分は優奈の上に立っている。その事に信二は優越感を抱く。

 そして続けた。


「でも、安心したよ。やっぱり君は夜遅くに男を引っ張りこむような、そんな軽い娘じゃなかったんだね、もしも彼が部屋に行こうものなら、後ろから彼を殴り殺してやろうかと思ったよ」

『……』


 後ろで、バイクが通り過ぎた。どこかで酔っぱらいの歌が聞こえる。

 ふと、信二は思い直した。

 もしかしたら、男が優奈に勝手についてきたのかもしれない。

 送るよとか、何とか言って。


 優奈は気が弱い子だから、強引な男の誘いを断れなかったんだ、きっと。それでも最後の最後、優奈は自分の部屋に入りたがった男を拒否し、押し戻したのだ。

 きっとそうだ。

 だとすれば……怒るんじゃなくて、優奈を褒めるべきじゃないのか。


「ごめんね、優奈、もしかしたら君は、あの男と……」

『弟よ』


 固い一声が信二の耳を打った。

 そして通話が切られた。

 ……自分のしでかした、とてつもない失言に信二は愕然となった。


 次の日の朝、信二は自宅ベッドの上で頭を抱えた。

 あんな純粋で可愛らしい優奈に対して、酷い誤解をしてしまった。

 信二は悔んでいた。

 ……まさか、あの男が弟だなんて思わなかった。


「……でも、仕方がないよな。家族構成までは知らないし」


 会員証の申込書を元にして、今まで集めた優奈の情報は、重要な事だが優奈の一部にすぎない、という事に信二は今更ながら思い当る。

 申込書欄には家族構成記入欄は無いし、趣味や特技欄も無い。


 あまり朝遅くまでグズグズしていると、母が部屋にやってきてしまう。

 部屋から階段を下りて、信二はのろのろと食堂へ向かった。

 商社マンの父親はもう出勤していて、テーブルには母親一人が、食事に来る信二を待っていた。


「朝も夜も遅い子ね、早く食べちゃいなさいよ」


 息子のパンを焼き、紅茶を淹れながら母が困り顔で信二を見た。


「春から社会人でしょう。今から生活のリズムを整えておかないと、後が辛いわよ。せっかく良いところに就職決まったのに、遅刻しちゃ上の人に睨まれるでしょう」

「……」

「やけに不機嫌ね、何かあったの?」


 優奈への心配で、信二の頭には母親の小言が入る余地が無い。

 それでもバタートーストを齧り、ベーコンエッグを機械的に咀嚼し、フォトナム&メイソンのブレックファストティーを咽喉に流す。

 その間に母親の声が流れている。


 信ちゃんの事を伯母さんが褒めていただの、叔父さんが感心していただの、このご時世にあんな良い所に内定決まって、皆が吃驚しているだの。

 ……耳ざわりの良い称賛も、信二の心をすり抜けていく。


 今信二の中にあるのは、自分は思っていた以上に優奈の事を知らなかった事、それによって彼女を傷つけてしまった事に対する後悔だった。

 テーブルの上に置かれた新聞と折り込み広告を無機的に見ていた信二は、一番上に出ている一枚のチラシに思考が目覚めた。


『鍵レスキュー! 困った時はすぐにお電話、二四時間対応、すぐ駆けつけます!』


 信二はチラシを手に取った。そして隅々まで読み、折りたたんでからズボンのポケットに入れた。


 そもそも信二が優奈の事を一時でも誤解してしまったのは、信二は優奈の事を中途半端にしか知らないからだった。

 そして、まだある心配……信二だって楽観的屋ではない。

 優奈は可愛い。春の日差しに揺れる花のような娘である。


 派手な色香とは無縁であるが、それ以上に清楚で柔らかだ。それは色香以上に男を惹きつける。

 自分以外の男が、優奈を見ていても不思議ではない。

 当然だと思う。

 しかし、自分以上に優奈に相応しい相手はいない。


 平日の10時、信二は優奈のマンション前にいた。携帯を取り出し、登録しておいた「鍵レスキュー」の番号にかけた。

 宣伝通り、鍵屋は30分以内に来た。中年の男だった。


「お願いします、鍵を外で落として、どうしても見つからないんです」


 泣きそうな顔を作って、信二は優奈の部屋を指差した。

 優奈のレンタルの会員申込書には、会社員と記述があった。

 土日祝が休みであることも、店に来る曜日で見当はつく。

 これが住居不法侵入という犯罪は、百も千も承知だった。


 それでも信二は、ここに入らなければならなかった。

 優奈を余計な邪推で傷つけないために、そして優奈をもっとよく知るためにも。

 優奈のものを盗む訳ではない、部屋や物を壊す気も汚す気もない。ただ、優奈の事が知りたいという純粋な気持ちだった。


 人を好きになる、というのは、一種の狂気だと誰かが言った。

 正にその通りだと信二は思う。逆説的に言えば、狂気も愚かさも許される、それが恋である。

 理性を失わないような感情など、愛とはいわない。


 それでも、信二はドキドキしながら鍵屋を見つめた。鍵屋は鍵を開ける道具を取りだす前に、信二に向かって言った。


「身分証明書、お願いしたいのですが」

「……え?」

「鍵を開ける前に、お名前と住所がこの場所と一致しているかどうか、確かめないといけないんです」


 絶句した信二の前で、男がドアの横に掲げられた「葵」の表札を指で示す。信二は目の前が一瞬、暗くなった。

 そんな、と思う。この扉さえ開ける事が出来れば、優奈に寄り添えるのに……

 無情な声が、信二に突き刺さる「身分証明書、お願いしますよ、お客さん」


「……そんな」


 信二は嘆いた。


「無いんですか?」


 返答に追い詰められた瞬間だった。

 信二の頭に稲妻が走った。


「……あの、財布ごと……身分証明も、鍵も何もかも、落っことしちゃって」


 ええ、と男の眉間にしわが寄った。

 困ったなぁ、そう言った男の声に同情が混じったのを、信二は聞き逃さなかった。


「お願いします、財布も身分証明も、携帯も一緒に無くしたから、この部屋に入らなきゃ何もできないんです。実家に連絡も出来ないし、無くした身分証明書の再発行も出来ないんです。友達はみんな地方に帰っていないし、僕の実家も遠方で、財布に全財産入っていたからすっからかんだし……」


「……参ったなぁ」

「でも、部屋に入れば鍵代ぐらいは引き出しにあります、お願いします!」


 深々と頭を下げた。部屋に入る口実の真偽はとにかく、信二にとって、この場で切羽詰まっている深刻度は同じだ。深刻度は同等で、嘘ではない。

 ……下げた頭の先に、深いため息がかかった。がちゃり、という道具を出す音は、信二にとって天上の音楽にも聞こえた。


 正に、天国への扉だった。至福の待ち時間が数分で、男はドアノブを回した。


「開きましたよ」


 喜びの咆哮をあげて、信二は部屋に入った。


 鍵屋の清算も終えて、ドアを閉めてから信二はゆっくりと部屋を眺め回し、大きく深呼吸した。

 ラベンダーの香りがした。

 芳香剤ではない、もっと自然なエッセンシャルオイルの香りだった。


 空気の粒子の一つ一つが、信二の肺を通じて血液に取りこまれて循環し、信二の細胞を沸かせ、心臓に音楽を奏でさせる。

 優奈のイメージそのものの、思っていた通りの部屋だった。

 濃い茶のフローリングにベージュのカーテン、小花柄のファブリックを使ったクッションやテーブルクロス、まるで少女の部屋だ。


 小さなサイドボードに置かれた写真立てには、家族の写真が入っている。

 優奈の弟がいるのは本当だった。

 優奈に面ざしが似た少年の写真に、信二は再び昨夜、優奈を疑ってしまった事を思い出して反省した。


 だが、それ以外の男の写真がどこにも無い事が大きな収穫だった。

 部屋の奥にあるベッドの上、クッションの陰に隠れるように、フェルトで出来たフランスパンを抱えたクマのぬいぐるみがある。

 最近良く見るクマのキャラクターで、そのノンビリした風情が、いかにも優奈と似合っていた。


 一見完璧に片付いているようだが、木製の小さなテーブルの上に、マグカップが使いっ放しで置かれていた。

 椅子の位置も乱れている。

 もしかしたら、仕事に遅れそうになって、慌てて出ていったのかもしれないと、信二は微笑ましくなった。


 ベッドの上には、タオル地の水色のパジャマがかかっている。

 生活感はあってもだらしなさは無い部屋に、信二はひどく感動した。

 ただ、意外な事に…部屋にある本、ほとんどがハードボイルドやSF、ホラーにミステリーが多い。

 漫画のジャンルも同様、恋愛ものがほとんどない。


 しかし、巷でよくある良い男ゲット、シンデレラ願望丸出し恋愛ハウツー本や他力本願スピリチュアル本、自己甘やかし礼賛自己啓発本が並んでいるより余程良い。

 本のジャンルも、弟の影響かもしれないと信二は思い直した。


 この日から、信二は週に1回2回、優奈の部屋に入るようになった。

 このマンションは、外に出る学生か社会人ばかりらしく、平日の午前中は静まり返っている。声も聞こえない。


 最初に鍵屋を呼んだ日からすでに3週間ほど経っていたが、信二がこの部屋に入るのを、誰にも見咎められた事は無い。

 毎回のように、堂々と信二は鍵を使い、優奈の部屋に入った。

 いつ入っても、優奈の部屋は整えられていた。


 服や小物が散乱することなく、下着が放り出されている事など一度もない。

 しかし、読みかけの本や雑誌が床の上にクッション横にたまに積まれていて、綺麗好きの中に潔癖は無いようだった。

 すでに、優奈のこの部屋は信二にとって別宅に近い。


 勝手に入っている罪悪感はなかった。

 信二にとって、邪な感情や欲望は無い、純粋な優奈への気持ち故なのだから、後ろめたく思う必要は全く無い。

 いつか自分と優奈は恋人同士になるのだと、信二は信じている。


 優奈が自分の存在に気がついてくれたら、愛情に気がついてくれたら、必ず優奈は信二の気持ちに感激してくれて、自分を愛してくれるという自信があった。

 当然、自分にはそれだけの条件と外見を備えているのだ。

 学歴、外見、そして内定先も一流だ。信二ほどの条件を備えた男は、世間に滅多にいない。


 この部屋に入るのは、言い方を変えれば必要悪というものである。

 もしかしたら、優奈は少し、信二の気配に気が付いているかもしれない。

 正体までは知らないだろうから、妖精のイタズラとか思っているかもしれない。

 いつか時が来て、恋人同士になった日が来たら、この部屋に堂々と入れる日が来たら、白状しよう。


 実は前からこの部屋で、優奈の事を考えていたんだと。

 信二はそう考えていた。

 多分彼女なら笑って許してくれるはずだと、信二は思っていた……本気で。


 そして、今日も優奈の部屋は、静かに信二を迎え入れた。

 優奈は不在でも、彼女がここで生活し、眠っている気配は息苦しくなるほどに濃厚で、その中に身を置くと、例え一人でも優奈と過ごしているようだった。


 信二はそれをなぞるように、今日もまず優奈のベッドに横たわり、シャンプーと石鹸が混じり合う優奈の匂いの中で優奈を感じ、優奈の椅子でくつろいだ。

 食卓兼机らしい、木製のシンプルな丸テーブルの上に置きっ放しのマグカップに、信二は目をとめて微笑んだ。


「あーあ、マグカップ、使いっ放しで出て行っちゃって」


 優奈は、朝御飯は甘いマフィンとミルクティーと決まっているようだ。

 ゴミ箱にはマフィンの袋がよく入っている。

 そして優奈はどうも紅茶党らしい。

 紅茶の種類はアッサムにダージリン、アールグレイと取り揃えてあるが、コーヒーは見当たらない。


 入って良かった、と信二は心の底から思う。

 紅茶党であることや、小花柄を好んでモノトーンは嫌いらしい事、好きなキャラクターが一貫していて、お気に入りのクマのグッズ以外、部屋に見当たらないことなど、優奈の深淵に触れているようだった。


 信二はマグカップを手に取った。洗ってあげようと思ったのだ。

 しかし、手が滑った。


「あっっ」


 手から転がり落ちたマグカップは、テーブルの上に落ちてバウンドした。

 そして弾みをつけて椅子、そして床の上に叩きつけられた。鈍い、嫌な音がした。


「……しまった……」


 信二は手で顔を半分覆った。

 白地に一輪のピンクのバラの柄が入ったカップは、持ち手の部分が取れて、縁から縦にひび割れが入っていた。



 日本有数のメガバンク、J銀行の法人取引のセクションである「金融法人部」の部内は、今日は閑散としていた。

 地方銀行や信用金庫などの、地元金融機関を相手にした証券取引や金融取引を扱う部門なので、世の中の金融相場の動向が仕事の繁忙と直結する。


 このところ株式市場が大人しいので、あまり忙しくは無い。

 営業の人間も皆外に出て行ってしまった。

 いつもなら部屋にいる上司達も、会議や研修で不在だ。


 おかげで部屋に居残っているのは、紺色の制服姿の事務職の女性社員4人だけだった。こんな日は珍しい。

 電話一つない、静かな時間だった。

 葵優奈は書類整理の手を動かしながら、部の先輩3人に相談をもちかけてみる事にした。


「最近、部屋がおかしいんです」


 ふぅん?と3人の女史の顔が同時に上がった。


「幽霊でも出た?」

「いいえ……確かに、いっそ真夜中に全身ずぶぬれの女が枕元に立っていてくれた方が、分かりやすくていいんですが……」


 優奈は首をひねった。

 ……仕事から帰ったマンションの部屋に、違和感が漂う日があるのだ。

 何だろう、と優奈は部屋を見回し、朝に出て行った時とどう違うのか、朝の記憶と現在の部屋の間違い探しをするのだが。


 変わりは無い。

 何も壊れていないし、無くなっている物もない。

 ただ、空気に異質なものが混じっている。

 自分以外の体温に気配、息が部屋のどこかにこびりついている。

 優奈は2才上の先輩、梅野の顔を見ながら例えを出した。


「例えば、ですよ。梅野さんがいない時に、私がその椅子に座ったとしますよね。その私の後に座ったら、違和感があるでしょ。クッションのへこみ具合とか、背もたれの具合とか」


 ある日、部屋のベッドの上に寝転がった時に感じたのが、その違和感だった。


「部屋に帰ってベッドで寝ころんで、何か違うって思わず跳ね起きたんですよ。何というか、枕のへこみ具合とか、シーツのよれ具合に布団のふくらみ、なんかこう、おかしいというか、最近、あるんです」

「ご両親とか弟さんってことないの? 合い鍵渡しているんでしょ?」

「それは無いですね。今までに事前断りも無く、勝手に入ってきた事無いし」


 かといって、部屋のドアにも無理やり鍵がこじ開けられた形跡や、壊された跡も無いのだ。それにマスターキーはいつも手元にある。

 スペアキーは玄関横の壁かけにかかっているままだ。

 盗まれてはいない。


「……まさか、働き過ぎだとかノイローゼだとか言い出すんじゃないだろうね」


 一番年長者である、松坂の細い眉が上がった。


「こらアオイ、可愛い後輩を苛めたとかギャクタイしたとか、女神のような私らがそんな誤解受けたらどうすんの。疲れているんなら、帰ってホラー映画なぞ見ずに酒飲んで早く寝ろ」

「正にそのホラー見過ぎじゃないの?」


 4年先輩の竹尾が述べた。


「あんたの好きな映画って、背中から忍び寄る化け物に襲われて、血が噴水で、クライマックスは爆発炎上で、部屋にあるブルーレイの全部が、暗灰血色だからなあ」


 2年先輩の梅野が顔を横に振った。


「ですが松さんに竹さん、こいつは『ゴーストシップ』冒頭の、甲板でダンスする客達の集団胴体切断シーン見ながらミートソーススパ食べて、『28週後』でゾンビに目ん玉くりぬかれる男の死に様を鑑賞しながら、マグロの漬け丼食べる神経ですよ。こんなシリアルキラーもどきの奴がノイローゼなんて、真面目な患者に失礼です。精神科医が憤死します」


 優奈は口をへの字に曲げた。

 松竹梅3人が、そろって口を開いた。


「そうだアオイ、あんた、こないだからの変な電話はどうなったのよ?」


 優奈は思い出した。

 1か月前から変な電話が毎晩のようにかかってくると、この3人に話した事があったのだ。


「最近、ないですね」


 優奈は頭を振った。


「まあ、いざとなったら呼び出して殴り倒せばいいか、と思っていたんですが……」


 電話を思い出し、優奈の内臓は煮えくりかえった。

 どうやって携帯の番号を知られたのかは分からないが、とにかく「ムカつく」相手だった。

 やっている事は姿を隠したストーカーのくせに、ユナちゃんおかえりだのおやすみだの、ベタついた声で己の無害さをアピールしながら、人の時間を奪い、領域に踏み込んでくる猛毒な馴れ馴れしさ。


 しかも、夜道で後をつけられていたらしい。

 飲み会で遅くなった夜の帰り道、たまたま帰りの電車で会った大学生の弟と、マンションまで一緒に歩いていたのを目撃したようだ。


『君はそんな軽はずみな女の子なのか』

『こんな時間に男と一緒なんて。何かあったらどうするつもりだ』

『男を後ろから襲ってやろうと思った』


 ……その時の心境を日本語にすれば『ムカついた』

 こんな四文字にしか表せないのが残念だ。

 言葉すら出ない怒り心頭で「弟よ」それしか言えずに携帯を叩ききったが。


「うるさい何を言ってやがんだこの性犯罪者、ケツの穴から手ぇ突っ込んで、歯をガタガタ言わせたろかこのガキが」


 振り返れば、あの時あの狂人に何故そう言わなかったのか、残念でならないが、ここしばらく電話は無い。

 寝た子は放置しとけ、だった。


 最近暇なので、仕事は定時きっかりに終わる。

 帰途につきながら、優奈は頭がゆっくり重くなってきた。

 仕事仲間といちいち酒に付き合う事もなく、そのまま愛すべき我が家に直行する、至福の帰り道のはずである。


 なのに、部屋がどうなっているのか不安だ。

 本来なら何の気兼ねをする事も無い、ココロの母艦ともいえる部屋がこうでは、心と体が陰気と憂鬱に支配されてしまう。

 いないはずの、見えない相手の体温が漂う我が家など、生理的に薄気味悪い。


 まさか部屋に見えない何かが取り憑いているとは考えたくなかった。

 築年数は古く、 オートロックでもないマンションではあっても、そんなオカルト話は近所でも聞いた事は無い。

 不動産屋でも告知はなかった。


 しかしもしそうなると、生身の相手より厄介だ。

 幽霊相手では実戦が通用しない。


「こりゃ魔除けのお札でも買うかな」


 電車の車窓の向こうに目に入った鳥居のせいで、優奈はそう考えた。

 それに確か、ゲランの塩とアジシオが残っている。

 松坂先輩のパリ土産のゲランの塩と、スーパーの棚に陳列されている食卓塩、魔除け効果が高いのはどっちだろう。


「梅野さんに聞いてみるか」


『安全に』怪談を楽しむためにと、我が身をお守りと魔除けグッズで完全防衛している、怪談愛好家の顔を思い浮かべながら、優奈はマンションの階段を上がった。

 部屋は4階だがエレベーターは使わない。

 鍛えるために、階段を使うのがクセになっている。


 まず、ドアの前で様子を窺う。

 部屋がおかしくなってから、ついてしまった習慣だった。

 そして鍵を差し込み、ゆっくり回す。

 ……化け物が立っているはずもないのに、嫌な緊張感を高めながら優奈はそっと玄関に入った。


 部屋は変わらない。

 誰もいない。しかし……


「んん?」


 優奈はテーブルの上にある奇妙なものに立ちつくした。赤いリボンがかけられた、中身が透けて見える透明パッケージは、まるで贈り物みたいだ。

 中に入っているのは、白地にポップな色合いのバラを散らしたマグカップ。

 怪しすぎる。

 朝にはこんなもの無いし、見覚えも無い、心当たりもないマグカップだった。


 そして、あるはずの愛用マグカップが無い。

 朝に洗う時間がなくて、そのままテーブルの上に置いていた、バラの絵が入ったマグカップ。

 愛用マグの姿を求め、狭いワンルームを見回していた、優奈の上着のポケットが震動した。


 マナーモードの着信に、優奈は無造作に携帯をそのまま押しあてた。


「もしもし」

『……優奈ちゃん、あの、久しぶりだね……』


 優奈は絶句した。久しぶりの相手だった。

 ――縁が切れたかと油断していた相手の再着信に、優奈は頭を抱えてしまった。

 気に障る猫撫で声が続いた。


『この間はごめんね、優奈ちゃん。酷い事を君に言ってしまって……すごく、反省したんだ。家族の写真見て分かったよ。この間の人は、弟さんだって本当だったんだね、本当にごめんなさい』


 それどころじゃない、と優奈は愛用マグカップを探した。

 宝なのだ。思い出的にも、価格的にもだ……て、え?

 目の前のサイドボードにある、葵家の家族写真に優奈は硬直した。

 両親と弟、優奈。


『ええと、それから……怒らないでね、優奈ちゃん……』


 猫撫で声が、媚と怯えを含んだ、教師に弁解する劣等生のような口調に変わった。


『君のマグカップなんだけど……テーブルの上にあったから、洗ってあげようと思って……悪気は無かったんだよ……あの、言いにくいんだけど壊しちゃって……本当にゴメン!』


 優奈の時が止まる。


『だから、ほら、代わりのマグカップをプレゼントするよ、優奈ちゃんの事考えながら、1日かけて選んだんだ。最近女の子に人気上昇している、ロンドンのデザイナーのマグカップなんだって、店員さんがオススメされてさ、可愛いだろ? 雰囲気も優奈ちゃんにぴったりだと思うんだ、優奈ちゃん小花柄好きだろ、部屋のカーテンとか、クッションもそうだし……』


 小花柄の中で、優奈は動けなくなった。

 窓を見た。

 ベランダ、外から部屋の中は見えない。

 当然、家族写真だって。


 見憶えのないマグカップ。

 まさか。

 今までに感じていた部屋の違和感と、赤く禍々しいリボンの箱が結びついた瞬間、優奈の背中一面に氷の毛虫がのたくった。


 貧血を起こす優奈の思考の外で、相手の声が聞こえる……ツキアッテホシイ、ユナチャン……


『ずっと声だけだったけど、優奈ちゃんの誕生日に姿を見せたいと思うんだ。誕生日は三月三日の雛祭りだろ? 今度の木曜日だよね。誕生日の夜に、優奈ちゃんの前に現れて、本当の俺を見て欲しいと思うんだ、いや、もしかしたら君も、俺の正体気がついていたかもしれないけど……』

「……」

『俺は優奈ちゃんに相応しい男だという自信はある、俺以上に優奈ちゃんを愛している男はこれからも出てこないと思う、それを分かって欲しいと思うんだ』


 フローリングの床の上で、優奈はそのまま突っ伏していた。

 君に愛してもらえる自信はあるんだという言葉が、聞こえているような気がしたが……

 手からは、いつのまにか携帯が離れて、床に転がっていた。


 過去の映像がグルグル回る。

 ベッドの違和感、椅子の違和感。

 慌てて優奈はベッドの脇から飛びさすった。

 気のせいじゃなかった。


 ゆりかごが、知らない間に化け物の巣にされていた事を知った途端、吹き出したのは嫌悪感だった。

 ゴキブリが一面に貼りついた布団で、今まで気がつかず寝ていたようなものだ。

 クッションを抱きしめかけて、また放り出した。


 クッションも汚染されている恐れがあった。

 家具全てが信用できない。

 優奈は汚染された部屋から、そのまま逃げ出した。


 外は雨が降り出していた。

 傘を持たずに優奈は走り、駅前のインターネットカフェに飛び込んだ。

 フリードリンクに目もくれず、パソコンを叩き、不動産情報を呼び出した。もう、あの部屋にはいられない。


「冗談じゃない!」


 今まで気のせいで済ませていた、己の間抜けさ、愚かさが優奈に襲いかかる。

 いつの間に忍び込まれていた? 私生活と部屋を強姦されたようなものだ。

 何がツキアッテホシイだ、優奈ちゃんを愛しているだと? 自分以上に優奈を愛せる男はいないだと? 携帯から聞かされた告白は、愛の言葉ではない。


 変態性欲と異常性癖とウルトラナルシストからの餌食宣言だ。


「もう、どこでもいい……」


 今すぐ住めれば、ホンコンでもネパールでもどこでも良いが、インターネットの不動産情報は膨大だった。

 そうなるとかえって情報があり過ぎて、しぼり切れない。

 こうしている間にも、変質者が後ろに忍び寄って来る気がする。


 優奈はパソコンを狂ったように叩き、スクロールし続けた。


 ――気がつくと、すでに5時間以上時は過ぎ、日付はすでに代わっていた。

 雨で湿った靴に、冷房の冷気があたって足元が冷たい。

 湿気た服が肌に貼りついていた。


 雨風でブラッシングされた髪の毛も、湿った厭な匂いを放っている。

 空腹に腹が鳴る。

 優奈は我に返った。


「何で、私がこんな想いをしなきゃいけないの?」


 思い出した。

 今夜は、大好きなチゲ鍋にしようと思っていた。

 ハーシェル・G・スミスのホラー映画『2000人の狂人』の明るい殺戮っぷりを観ながら、ゆっくりと白ワインをかたむけようと。


 1人で暮らし始めて、毎週1度は必ずチゲ鍋。

 冬でも夏でも、好きな鍋ものを食べられる嬉しさ。

 血にまみれた内臓でもゾンビでも狂人でも、食事中に鑑賞したって「このど変態」「シリアルキラー予備軍」と文句言うのも制止する存在も無い。


 優奈の脳裏に、独り暮らしまでの道のりと、念願叶った日々が去来した。

 『女の子が独り暮らしなんて』反対の母と口論して泣かせ、母さんを泣かすなと怒るマザコンの弟と殴り合い、姉弟喧嘩に止めに入った父を誤ってブっとばし、ようやく防犯の実力を認めてもらえた事。


 ――独り暮らし資金を貯めるために、化粧品は全て百均でまかない、昼ごはんは手作り日の丸弁当。

 そして職場で咽喉が乾いても、コーヒーやジュースを買わず、水道水を飲んでいたら、梅野先輩が黙ってコーラを買ってくれた事。


 引っ越し当日、ついに自由と空間を手に入れた高揚感。


「冗談じゃない。何で私が逃げるの」


 勝手に目をつけられ、勝手に性格をラベリングされて勝手に部屋を漁られて。

 自分のいない間に、部屋で何が行われていたのか、考えただけでもムシズと寒気と怒りが吹き上がる。完璧なる被害者じゃないか。


 しかも、壊された愛用のマグカップ。

 マグカップは、ドイツ製の陶磁器窯、マイセンだった。

 淡い青みがかった、高貴な程冷たい白磁、その上に職人によって描かれる花々は、繊細で、静謐な程に美しい。食器という形の芸術品である。


 輸入食器の店で優奈が一目で見て愛した、ピンクのバラが描かれたマグカップは高価だった。4万円程のそれを、優奈は一人暮らしの記念と思い切って購入したのだ。


「馬鹿にしやがって」


 人目も忘れ、優奈はテーブルを手で思い切り叩きつけた。


「こんな理不尽、あってたまるか。いいや、理不尽を通して、それが形式になったらどうするのさ。優奈、あんた、そんなクソ虫みたいな根性だったわけ? 引っ越すって事は、異常変態野郎にやられっ放し、己の世界をゴミ溜めにしたまま、逃げ出すってことだぞ?」


 鍵がポケットから落ちた。

 優奈は拾い上げた。

 どんな手を使ったのかは分からない。しかし、犯人はこれと同じ鍵を持っている。

 自由の象徴が、優奈に復讐を叫ぶ。


 仇を討てと。


「この私に目をつけて、部屋に不法侵入までしたこと、自殺したくなるくらい後悔させてやる」



『今度の木曜、誕生日』


 それが犯人の予告だった。

 ひな祭り。

 優奈の23回目の誕生日である。

 あの日から数日経つ。


 犯人からの連絡は途絶えた。

 恐らく、誕生日の自分の登場をドラマティックに演出するための『溜め』だと優奈は踏んでいる。


 それにしても、自分の携帯番号、住所、しかも誕生日が3月3日という事まで、どうして知られたのか。

 仕事しつつ、優奈は頭の中で知人の男1人1人を思い浮かべたが、優奈はすぐに知人達の容疑を消した。


 少なくとも、犯人は葵優奈という人格をよく知る人間ではない。

 職場のパソコンの前で、仕事と復讐の2つに思考を引き裂かれていると、後ろから頭を手ではたかれた。

 長身の松坂が、優奈を見下ろしていた。


「部長が呼んでる。部長室へお行き」


 怒っている。

 綺麗なパールピンクの唇が思い切り曲がっていた。

 朝の始業前の部のロッカー室で、松竹梅ならぬ松坂、竹尾、梅野の3人から


「そういえばあんた、結局今、部屋はどうなっているのよ?」


 と、聞かれたので、本当の事を包み隠さず話し、警察に届けずに自分の手でストーカーにカタをつけてやる旨を宣言したら、大騒ぎになった。


「自分でなどと、何をうぬぼれているんだ、自分の強さに驕るな小娘!」

「相手が幽体で無い生身なら、警察に行けっっ」

「返り打ちにあったらどうするの!」


 寄ってたかってこづかれ、はたかれ、ハリセンで殴られ、後ろから羽交い絞めにされて、携帯を眼前に突きつけられ、今すぐここで警察にストーカーを通報しろと脅されたところを、仕事の始業を告げるチャイムで助けられたのだ。

 2人の先輩の視線も突き刺さっている中「はーい」と優奈は素直に立ち上がった。


 部屋続きの部長室をノックして入ると、部長の須藤が椅子に座って待っていた。


「座りなさい」


 ソファに優奈は座る。

 あんこ体型、銀縁眼鏡をかけた、別称『蓮の上で印を結ぶカーネルサンダース』と、その人柄を称えられる人格高尚な上司は、悲しげな顔で真っすぐに優奈を見つめた。


「大変な事になっているんだって?」


 恐らく、松竹梅3人組からストーカーの事を聞いたに違いない。

 素直に優奈は頷いた。


「君のお姉さま方は、大変心配しているよ。これは完全に犯罪なんだからね、皆が言う事も分かるだろう? 何で前から変な電話があった時点で、警察に相談しなかったんだい? ご家族にも話をしていないそうじゃないか」


 そう言って、須藤部長は声のトーンをやや落とした。


「……君は犯人を知っているのかい? もしかして、君と親しい男性なのか?」


 流石に人生経験豊かだけあって、優奈が何故通報しないのか……出来ない理由を彼なりに考えていたようだった。

 ストーカーの正体が、被害者女性の別れた恋人だとか、過去に深く関係した相手であり、その情や過去が枷となって周囲に助けを求められない。


 もしくは同じ社内の人間で、上役に相談しにくい相手……よくある話である。

 しかし、優奈は知人説を否定した。

 相手が顔見知りか、そうでないかによって、ストーカーの手口は変わる。

 ストーカーには2種類ある。


 相手の視界を侵略して、自分の存在をアピールするタイプ。

 別れた恋人にいつまでもつきまとい、あちこちに現れるのがこのタイプだ。

 もう1つは、気にいった相手の後をつけて、自分の姿を隠して相手の背後に回り「観察」するタイプ。


 優奈のケースは完全に後者だ。


「恐らく、私の事を一方的に知っているだけの他人です。私の中身を知らないから、出来るストーキングですよ。社内では絶対ないです」

「じゃあ、何故?」


 須藤部長が頭をひねった。


「それならいいじゃないか、遠慮なく通報したまえよ」

「しません」


 部長があっけにとられた。


「じゃあ、せめて実家に避難しなさい」

「それもイヤです」

「……部屋の鍵は、変えたかい?」

「そのままです」


 部長が愕然となった。


「君は……何を考えているんだね?」


 ふっと優奈は笑った。


「舐められるのは、我慢ならないんですよ。警察に通報しなかったのも、しないのも、それが理由です」

「まさか、君は今の部屋に、そのまま住むつもりかね?」


「その通りです。部屋に入ったら、銃を片手に侵入者をチェック。睡眠は用心のために護身用のライフル抱えて、ベッドの上じゃなくて『下』にひそんで寝ています」

「……銃片手? 護身用ライフル?」

「モデルガンですよ。ハンドガンはベレッタのM92FS、ライフルはレミントンM700。気分はもう映画の主人公」

「ふむ、そのベレッタは『ダイ・ハード』か。レミントンは確か『山猫は眠らない』だな」


 部長の目が遠くなったが、一瞬だった。


「通報しなさい!」


 部長室が揺れた。


「君が相手にしているのは、立派な犯罪者なんだよ! モデルガンを1000丁持とうが、バズーカ砲をぶっ放そうが、男みたいな性格だろうが、所詮男と女じゃ基本的な腕力が違う! そういうのを、無駄な意地と言うんだ。いいかい、意地も張る場所を間違えたら、単なる大馬鹿ものだ!」


「意地じゃないですよ。これは立派な必要性です」


 優奈は唇を吊り上げた。

 こうやってニヒルに笑ったつもりでも、泣き笑いに見えてしまう自分の顔立ちを呪いつつ。


 迫力というモノが外見のどこにもない自分の外見を、漫画の登場人物の役目で例えるなら、気の強いキャラクターの裾を引っ張り「ねえ、やめようよ」などとほざく、気弱で歯がゆいサブキャラクターである。


 この顔のせいで、どれだけ誤解を与えてきたか、どれだけ甘く見られてきたか。


「背は低いし、顔もこんなだし。だからこそ警察ではなくて、自分の手で相手に思い知らせる必要があるんです。だから今回も、電話の間は様子見して、姿を現したら半殺しにしようと思っていたんですが…」


 舌打ちを優奈はこらえた。


「不覚を取りました。まさか部屋の中に侵入してくるとは思わなかった」

「………フカク……それ、ふかくってもんだいじゃないでしょ……」


 世間一般的に見るストーカーの深刻度と、その被害者でもある部下の態度の温度差に、部長の頭がよろよろと沈んだ。

 そして跳ね起きた。


「しなさいっっ通報! 部屋に入られたんだよ、キミ、もしも隠しカメラとか盗聴器とか仕掛けられていたらどーすんの!」

「それは無いです。もしもそれやられていたら、相手はとっくに私に幻滅しているはずです。付き合ってくれなんて言いやしませんよ。断言できます」


 優奈は言い切った。


「…………そうなの?」

「女一人暮らしの生活音なんか、見てはならない事、丑の刻参りや悪魔召喚の儀式以上です。それが世間の殿方に広まれば、独身率上昇少子化進行、性犯罪消滅、同性愛者急増間違いなし」

「うーむ」


 頭を抱えて苦悩の川を渡ろうとする部長に、優奈は続けた。


「相手は私を舐めています。見た目だけで、気の弱そうなお人形だとでも思っているんですよ。警察に通報して例え逮捕されても、馬鹿にとって恐れる相手は警察であって、私じゃありません。両親が介入しても論理は同じですよ」


 ストーカー殺人が無くならないのは、それだと優奈は思っている。

 例え家族に守られ、警察が介入しても、狙うターゲットそのものは弱いのだ。

 邪魔は排除さえすればいい、そう思っている。


「警察は、事件があった時にしか動けないんです。そうなる前に、自分の尊厳を守るのは自分です。結果的にどうであれ、私は自分を非力と思いたくないんですよ」

「………」


「この私を弱者と思っている、その変質者の思い上がりを徹底的に叩きのめし、引き裂いて、そいつの記憶に惨たらしい傷と恐怖を植え付ける事が重要なんです。でなきゃ、変質者に勝ったとは言えません」

「いや、しかし……勝算はあるのかね?」

「相手は油断しています。そして決着をつけるのは私の部屋で、地の利もある。それ以上の勝算はありますか?」


 須藤部長の目が閉じた。

 しばしの黙考、そして目が開く。


「私には今年16才になる娘がいる」


 須藤部長は窓の外を見た。


「天の祝福を一身に受けたような、聡明で性格も素直で愛らしい、今すぐ芸能界入りしてもおかしくない程の美少女だ。父である私が言うのも何だが、真実だから仕方がない」

「……」


「言っておくが、私には似ていない。母親似だ」

「納得」

「女性は美しい。しかし、非力だ。本来男が守るべき、その女性の弱さを嗜虐的な餌として、美しさを蹂躙するケダモノはいるものだ」


 部長が立ち上がる。


「女の敵、歪んだ嗜好の害虫は駆除せねば。前言撤回だ。ヤッてしまえ、容赦してはならん。奴らは、一般世間の善良なる男の面汚しでもある」


 眼鏡が白く光った。


「徹底的に潰せ。犯人には情も憐みもかけるな。己の愚業と過ちを思い知らせ、苦痛と屈辱の業火でもって身を焼き尽くし、地獄の窯に叩きこんで罪を償わせろ。生まれてきた事を後悔させなさい」

「……」


 思わず優奈は現在地の確認をした。

 しかし、目の前にいる人物は、大魔王でも天の断罪人でもない、我が上司の須藤部長で、場所は部長室だった。

 地獄の最下層ではない。


 突如の態度豹変も、考えてみれば不思議ではない。

 性犯罪者を憎むのは、被害者たるうら若き乙女だけではない。

 娘を持つ父親だってそうだろう。


 娘のために魔王となった、元人格高潔な部長は命令を下した。


「やりなさい。私が許す」


 その日の昼、優奈は倉庫に入った。

 倉庫の中に、大掃除で使い残したバルサンがあった。

 なぜかねずみ花火がある。

 それを頂戴して、優奈は休暇の申請を直属の上司、山田課長に申し出た。


 課長の眉が曇った。


「……部長から話は聞いたぞ……本気か?」


 はい、と返事する優奈へ、課長は小声で付け足した。


「いいか、葵。これだけは言っておくぞ……正当防衛の意味を知っているな?」

「そりゃあもう」

「正当防衛は、殺しの大義名分じゃないからな。いや、犯罪者でも、人の命は平等に尊いんだとかそんなじゃなくて、化けて出られたら厭だろ」

「その時は坊主と牧師を呼びますよ。しめ縄でグルグル巻きにして、聖水の風呂に沈めてやる。再びこの世に輪廻したい気を起こさせないくらいに、生者の怖さを叩きこんでやりましょう」


 うーんと呻きながら、課長は3月3日の休暇申請書を許可した。

 会社の帰りに、釣り具屋へ寄ってリールを購入。

 復讐の女神主催の誕生日パーティの準備を始める事にした。



 ――信二は、誕生日を待ち望み、怯えていた。

 優奈は、愛の女神が地上につかわせた天使。優奈を一目見た瞬間に、信二の魂は茹で上がり、崇高な狂気に呑みこまれた。


 しかし、信二を恋の嵐で翻弄し、狂わせる魔性を持つとは言え、その彼女自身は儚げで、楚々とした可憐な娘である。

 男の強引なアプローチは、気弱な彼女を怯えさせてしまうと、遠くから見守るように、そっと注意深く、大事に恋を育んで来た。


 しかし、それは終わりを告げる。

 3月3日、明日は優奈の誕生日。

 目には映らぬ騎士の役目を終え、現実の恋人として彼女の前に姿を現せる。

 信二は思う。


 彼女に告げよう。

 いつから君を愛していたか、これからどれだけ君を愛していくか、万の言葉、千の誓いを優奈への贈り物としよう。

 優奈はきっと感激してくれる。


 ……しかし、誕生日の前日、信二は愕然となった。

 場所は百貨店の高級食器売り場。

 オーダーした社会人用のスーツを受取りに行き、その途中で何となく、用事もない階にふらりと寄った。

 ショーウィンドウに、マグカップが飾られている。

 

 カップに描かれたピンクのバラは、記憶にある柄だった。


「……まさか」


 いつだったか、信二が壊した優奈のマグカップだった。

 そのマグカップの信じられない値段に、信二は目を剥いた。


「ど、どうしよう……」


 血の気が引くのを感じた。

 生半可では出せない値段。きっと、只の食器以上に思い入れがあるはずだ。

 大事にしていたに違いない。

 それなのに、自分はそれを割ったばかりか、ガラクタを置いてきてしまった。


 しかも、そのガラクタを優奈のイメージで選んだなんて言ってしまったのだ。

 家に帰って、信二は思い悩んだ。

 誕生日に向けての、天に舞い上がるような、告白への高揚感、優奈の笑顔の想像が、一気に裏返っていた。


 怒っているかもしれない。

 マグカップの価値を知らなかったとはいえ、とんでもない失態だ。

 信二は、携帯を横目で見た。

 今から優奈に許しを乞うか? だが、タイミング的に間が抜けている。


 信二は思い直した。


「確かにマグカップを壊し、その価値を知らなかった俺は、褒められた事じゃない」


 つぶやいた。


「だけど彼女から見れば、大事なのは、俺がマグカップの価値を知っているかどうかじゃなくて、俺は彼女をどれだけ真剣に愛しているかだ」


 信二の心に、優奈の微笑みが灯った。

 春の日差し、柔らかな羽のような、可憐な優奈。


「大丈夫、優奈ならきっと許してくれる」


 だが、不安が無いわけじゃない。

 もしも、優奈が想像以上に怒っていたら?


「……大丈夫だよ、俺たちなら、きっと乗り越えて行ける」

 肌身離さず持っている優奈の部屋のカギを、信二はポケットから取り出して見つめた。


 雛祭りの空は、青かった。

 吹く風は冬のなごりを留めていたが、太陽の日差しは温かい。

 時刻は昼過ぎ。信二は、優奈のマンションを見上げた。

 この日に姿を現せると、予告はしている。


「持つべきものは、鍵だな」


 もし不在でも、部屋で待っていれば良いのだ。

 ……初めてだという訳でもないのに、優奈の部屋へ上がる足が少し震えた。


「大丈夫だ、彼女ならきっと、俺を受け入れてくれるはずだ」


 抱えた薔薇の花束と、ネックレスの箱をしっかりと持つ。


「毎晩、彼女に語りかけたじゃないか。俺の声や言葉を通して、彼女への真心を分かってもらえたはずだ。あれだけ部屋で優奈の存在を感じて、優奈の空気を吸ってきた俺だ。俺以上に優奈を身体と心に満たしている男なんかいない。確かに部屋に無断で入ったのは強引だけど、直に会って話せば、優奈ならきっと、俺の真実の愛を分かってくれる」


 ドアの前に立つ。

 気配を探る……不在だ。

 鍵を差し込む手が震えた。

 歓喜なのか、恋の恐怖なのか。


 だが、優奈の部屋が目の前に現れた瞬間、信二の中で時が刻み始められた。

 テーブルの上に飾られた花が、信二を待っていた。


「……優奈」


 信二は優奈を呼んだ。

 携帯の着信音が鳴った。

『優奈』ディスプレイを見た瞬間、信二の心は天上へと誘われた。


「優奈! どこにいるんだい? 俺は君の部屋だ……もしかして、俺、早く着き過ぎた? ああ、早く君の顔を見たい。これからの、二人の将来を語ろう。今どこ?」

『……警告』

「え?」

『警告、この部屋からさっさと出て行け、この変態どゲス野郎』


 冷たい声の、しかも下品な単語。信二の意識を殴り飛ばす。


「……優奈?」

『貴様の肥溜のような口から、己の名前を聞いただけでも反吐が出そうだってのに、将来だと? よくもまあ、人様を腐った変態ワールドに引き込みやがって。このクソボケが。テメエの生首、自分で持たせて走らせたろか』 


 信二の理性がこの優奈の声を否定する。世界が暗転した。目の前が白くなる。


「何を言い出すんだ……優奈」


 信二は声と手を震わせた。


「君なのか? 本当に君なのか?」


 足元から、空気が吹き出す音。

 信二はうろたえた。

 白い煙は一瞬で目の前を覆い尽くす。

 異臭が咽喉に、鼻に侵入した。


 器官が刺激される。

 信二は咳きこんだ。

 目が痛くなる。空気それ自体が信二を襲う。


「ぎあああああっ」


 足元で、何かがいくつも破裂した。

 白い煙の中で火花が散った。

 火薬の匂いが嗅覚に突き刺さった。

 熱風が足首に巻きついた。信二は飛び上がった。


「か、火事!」


 ドアへと走ろうとした時、何かに引っ掛かって転倒した。

 起き上がろうとした時、背中を蹴られて再び転倒した。


「逃がすかこのクソ虫が!」


 後頭部に硬い物が当てられた。


「……ゆっくりとこっち向け、変態野郎」


 信二は言うままになった。

 そして、呆けた。


「ゆな……?」


 オレンジ色に、黒いラインの入ったジャージ。

 そして、ガスマスク。


「何なの、その格好は……?」


 向けられたモデルガンに愕然と、信二は声を震わせた。


「僕だよ、優奈! 気が狂ったのか? ほら、誕生日プレゼントだよ、君の事を考えながら選んだんだ、このネックレス……」

「何が僕だ、ネックレスだ。貴様の顔なんか知らんわ」

「あ、ああそうか、そうだよね。電話でしか話した事ないし、いつも、君がいない時に部屋に入っていたから……ゲホッ、でもほら、憶えているだろう、ちょっと前まで、優奈に毎晩電話していたじゃないか、でも、ケホケホ、誕生日には、君の恋人として正体を現すって宣言しただろう?」

「うわあ、足の先からてっぺんまで妄想野郎だな。アクティブな分、性質が凶悪」


 ガスマスクの向こうから毒づく優奈の目と声は、出会いの時から見つめていた、春の日差しではなかった。


「優奈、そんな言い方、やめてくれ……君はそんな子じゃない!」

「私がそんな子なのは、あんた以外は周知の事実だけどね」

「君は僕の事を知っているはずだ! DVDレンタル店で、いつも君は僕を見ていた! 僕も君を見ていたんだ、2人の出会いを否定するなんて……ああ、そうか」


 涙を拭きながら、信二はようやく気がついた。


「やっぱりそうか……マグカップの事、怒っているんだね? だからこんなこと……」

「もういい、脳が腐る!」


 優奈の絶叫がコンクリートの壁をゆすった。


「人を見た目で判断した挙句、勝手なユナちゃん像作りやがって。他人に対してそんな脳内イメージ作り上げて押し付けてくるなんざ、我が身を商品にしたアイドルに対してにしか許されない行為なんだよ!」

「……」

「つうか、不法侵入が許されると思ってんのか貴様。どうやって鍵を作ったかは後で吐かせるとして、毎月6万の家賃払っているのは私だ、主の許可なく敷居をまたぐんじゃねぇよ、ここは優奈サマ王国だ、国境侵犯で銃殺にするぞ」


 心の神殿の女神が、今目の前にいる下品な女に浸食される。

 崩壊する恋に、信二は耐えきれずに悲鳴を上げた。


「逃げるな!」


 虚をつき、信二は部屋から飛び出し、階段を駆け降りた。


 ※


「ちっ」


 超音波のような絶叫に、思わず耳を塞いで隙を作った。

 優奈は舌打ちし、ガスマスクをかなぐり捨てた。


「逃がしてたまるか」


 誕生日だというのに、早朝からずっと、トイレも行かずにベッドの下で身を潜め、罠を張って待ち伏せしていたのだ。

 しかも有休まで使ったのだ。無駄にしてたまるか。

 玄関に出て、釣り竿のリールを急いで巻く。


 階段に這わせていた透明な釣り糸が、ピンと貼られた。


「ぎゃあああああっ」


 階段に張られた釣り糸が、狙い通り足を引っ掛けたらしい。

 悲鳴と大音響。

 しかし、階段の踊り場に変質者の姿は無い。

 優奈は駆け降りた。


 マンションから飛び出す。

 道の向こうに、車道を走り渡る変質者の後ろ姿。


「待て!」


 それを追う優奈を阻むように、点滅していた信号の色が赤になった。


「!」


 ダメだ、逃げられる。

 怒りで目の前が黒くなりかけた、その時だった。

 向かい側の道にいた男女グループの通行人が、突如変質者に襲いかかる。


「何するんだ! 誰だお前ら!」

「やかましい、大人しくお縄につけこの性犯罪者!」

「全世界の女を代表して粛清してやる!」

「部長! 先輩たち!」


 優奈は、車道の向かい側へ叫んだ。


 ――心配だから、皆で昼休みに抜け出して様子見に来たと、須藤部長は言った。


「やってきたら、この男が裸足でマンションを飛び出してくるのが見えてね。それから、ブルース・リーのコスプレの君が出て来たので、ピンと来た」


 背後の悲鳴へ、優奈は振り向いた。

 変質者は、松竹梅3人がかりで殴られ蹴られている。

 参戦したいが、4対1はさすがに気が引ける。


「ふむ、コイツが男の面汚しか」


 部長の目が細くなった。


「しかし、流石にそろそろ止めなきゃかな。おおい、松さん、竹さん、梅さん、君たち、そろそろやめなさい」


 幼稚園児の喧嘩の仲裁する園長先生の声で、のどかに須藤部長は声をかけた。


 ――4月の初旬。

 出社してロッカー室に入ると、松竹梅3人組が着替えをしていた。優奈は頭を下げた。


「お早うございます、先輩方」


「お早うさん」三人の女史の口が揃った。


「新居の住み心地は、如何かね?」


「生活環境は良いです。前よりも会社に近くなりましたからね……来週かさ来週の金曜あたり、皆さんおヒマでしたら家に寄って下さい。引っ越しパーティしましょう」

「パーティするってことは、あの変質者の案件もカタがついたってことだな」

「阿鼻叫喚地獄を1か月ばかり巡って、ようやく地上に戻れましたよ」


 制服のブラウスのボタンを留めながら、優奈は口を曲げた。


「子を持つ親というものは、有難く、オロカなものですよね。まあ、あの変質者も世間的には前途洋々な若者だったらしくて。生まれてから今まで親と先生の前では『良い子』『優等生』の間を行ったり来たりだったらしいんですよ。だもんで、今回の事件、あの両親最初は信じなくてねえ」


 まるで、優奈が事件をでっち上げたように思われていたのだ。

 それどころか、満身創痍の息子に対して、治療費と慰謝料を寄越せと言って来た。


「隠し撮りしていたスマホの動画があるでしょうよ」

「出すまでもありませんでした」


 優奈はため息をついた。

 ホテルの一室で弁護士を交えて、両者の家族間で行われた話し合いの第1回目。

 改めて信二と優奈は顔を合わせた。

 その信二が優奈を指差し、見事な錯乱っぷりを皆に見せつけたのだ。


「本物の優奈を出せ! コイツは悪魔だ、優奈の身体を乗っ取った悪魔なんだ! 優奈はどこかで、僕の助けをまっているんだぁぁっ」


「……流石に、息子の異常ぶりを生で見りゃ、信じざるを得ないよねえ」

「変質者の母親は泡吹いてぶっ倒れるわ、父親は錯乱するわ、可哀想なのは向こうの弁護士さんの立場です。ウチの両親も困惑」


 その後、変質者の奥野信二の母親は心療内科に通う羽目になり、話合いは難航するかに思われたのだが。


「どうやら、変質者は今年の春社会人で、良いトコに内定が取れていたらしいんですよ。それで、あっちの方が謝罪してきまして……頼むから、警察沙汰にせず、示談で済ませて欲しい、二度と息子に馬鹿な真似をさせないからと。十分にお詫びはするからって」


 マンションの引っ越しに関する諸経費、家具も布団もすべて新品に入れ替え。

 口止め料と慰謝料は、あの両親の老後に十分打撃を与える額だった。

 そのかわり、もう二度と信二に関わらない事、この事件を口外しない事。


「へーえ、つまりは、あの脳内お花畑を野放しにしろと?」


 制服を着終えた松坂が、腕組みをして鼻を鳴らした。


「金で忘れろってことか。どうせそうなるのなら、もう少し殴っておけばよかった」


 竹尾と梅野が眉を跳ね上げる。


「第二、第三の悲劇が起きたらどうするのよ」

「先輩方があそこまで殴っておけば、大丈夫かと」


 自分はほとんど殴れなかった事を思い出したら、ため息が出た。

 優奈は制服のリボンを整えて、ロッカーを閉めた。


「変質者の脳内お花畑は、きっと先輩方によって思い切り踏み荒らされてますよ」

「あんたは花畑を焼き払ったしな」


4人はロッカー室を出て、ぞろぞろと営業室へ向かった。


 営業室に入ると、すでに須藤部長以下、男性職員は集合していた。

 今日、研修を終えた新入社員が配属される日だった。

 見慣れない背広姿がある。


「あらま」


 その顔に、優奈は目を見開いた。


「おやあ」


 松坂、竹尾、梅野の3人の声が揃った。

 朝礼の鐘が鳴る。


「……ここに配属された、新入職員を紹介する」


 山田課長が青年を示した。


「奥野信二くんだ」

「よろしくおねが……」


 営業室を見回した信二の目が、女性職員たちに止まった瞬間『恐怖と驚愕』という彫像と化した。

 先輩たちは、喜色満面の笑顔で信二を見ている。

 その表情は正に『邪悪と残忍』マクベスに出る3人の魔女。


『男の面汚し』へ向かう、須藤部長の目は白い。


「あの事、私は周囲に漏らすつもりはないし、示談の条件は、2度とお互いに関わるなって事だったし」


 今後の彼の運命を予想しながら、優奈は呟いた。


「助ける気はないからね」

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