恐怖笑短集

洞見多琴果

第1話 勝手にダーウィン賞

 その事件は、世間的には小さな扱いだった。

『若い女性の死体、建物の間で発見される』


『5日未明、三野宮市にある尼ケ崎信用金庫大場支店の建物の隙間で死亡しているのを、同支店の女性職員が発見、警察と消防に通報したが、女性は既に死亡していた。死体は行方不明届が出ていた掛石麻由美さん(24)と判明。掛石さんは何らかの形で支店の建物から転落し、そのまま死亡したと思われている。建物の隙間であったため、発見が遅れた模様で、死後1週間が経過していた』


 記事の片隅にある記事で、流し読まれてすぐに忘れられる、そんな事件である。

 私たち尼ケ崎信用金庫大場支店の職員たちも、ただの失踪だと思っていた。

 いや、「只の」と言っても語弊があるが、掛石麻由美をよく知る私たちにとっては、彼女の失踪を羽根ほど軽くは見ていないが、箸よりも重くは思っていなかったのだ。


 掛石麻由美は4年目の事務職員、私の1年上の先輩である。

 彼女が失踪したのは、ある夏の日の午後の昼間で、五のつく繁忙日だった。

 いつも通り休み時間は60分ごとの交代なのに、時間を過ぎても営業室に帰って来ない。その日は探しに行くヒマも吹き飛ぶほどに、ロビーは人ごみでごった返している状況で、探す相手もまた、彼女に何があったのかしら何か体調不良でも等という心配を抱かせるタイプではなかった。


 先輩と私は、おかしいと思うよりも、このクソ忙しい時に逃亡しやがったのかと怒り心頭で、ここは海水浴場かと疑うほどにあふれるロビーの群衆相手に戦っていた。

 しかし、掛石麻由美は次の日も出勤しなかった。 

 良心の呵責という人の弱さと善良さなど、持ち合わせていないあのキャラクターなら、繁忙期の昼間、無断で早退など空き缶のポイ捨て以下の罪悪感である。


 以前も同じような事があり、今回も

「ごめんなさぁい、お昼中に貧血起こしちゃって、みんなに心配かけたくないからそのまま帰っちゃったぁ」

 と涼しい顔で来るものと思っていた。しかし次の日も出勤せず、このまま職務規定上では厳禁とされる無断欠勤が7日間続き、このままでは解雇処分になる、いや、いっそなってしまえと先輩と噂していたのだ。


 まさか、実家が行方不明届を出していたとは思わなかった。

 携帯も通じず、上司はやむなく実家を訪問した。そうすると出てきた父親は、それどころじゃない、娘をどこにやったと詰め寄られたらしい。

 その次の日から大騒ぎである。


 行方不明者の調査に所轄の署員が訪れて、職員1人1人を営業室から別室に、事情聴取に呼びつけてくる。

 おまけに失踪した職員の事の調査だと、本部のコンプライアンス担当の人間が来襲した。10年以上前に、突然失踪した女性職員が、実は数千万の横領を行っていた事件があったのだ。


 こんなは失踪の原因に、横領や持ち逃げに直結している事が金融機関にはありふれていて、本部はまずはそこを疑いにやってくる。

 平凡な庶民生活に「謎の失踪」という異常事態の輝きを放つその噂は一気に広まった。噂を聞きつけた好奇心丸出しの野次馬が客の仮面をつけて店に押し寄せ、他の支店の職員までもが、「あの子でしょ?」とわざわざ内線電話をかけて事件の事を聞いてくる始末。


 コンプライアンス部の人間は、麻由美が預金事務担当であったことから、特に疑いを濃くしていて、2階からの電話1本で


「掛石さんの業務日誌を、配属当日から出してくれ」

「彼女の印鑑が入った伝票見たいから、ここ4年分全部出して」

「失踪前後の電話の通話記録と、金庫開閉記録、失踪当日に支店の出入りした人間の記録を全部提出して持ってきて」


 と、1階で仕事中の私たちに命令し、「3分以内に持ってこい」と無理を付け加え、支店長もまた評価をこれ以上落とさないためにとそれを強要する。

 カウンターには、事件の話をねだる客が、餌を待つ池の鯉のように口をパクパクとさせて大群で押し寄せ、電話は外線内線のベルが鳴りやまない。


 受話器をフックに戻す暇もなく、回線がパンク寸前。

 しかし、日々の業務は無情である。

 世界に終りがあろうとゴジラが出現しようと、店が開いている以上現金計算は1円でも間違えられないし、窓口の来店客もさばかなくてはならない。


 それでも本部のコンプライアンス部の人間は、電話と野次馬、業務で乱戦中の職員を、話を聞きたいと何度も呼びつける。

 それは私の人生誕生以来のカオス事態に突入した。

 

「……電話の取り過ぎで、腕がつるなんて初めてですよ……しかも今でも呼び出し音の耳鳴りがします」


 その日、たまった総務の仕事を片付けながら、私は先輩である預金事務の門倉さんに泣事を漏らした。

 シャッターが閉まった営業室は、照明があっても薄暗い。

 支店の建物は、両隣を4階建のビルに囲まれて、間と間は、人が1人やっと通れるほどの幅、約70センチ。


 肩身狭く建つ3階の建屋で、窓はあっても景色は望めないコンクリートの壁であるから、ずっと窓は閉め切っている。

 そのせいでシャッターが降りて、夜になれば一つの閉塞された箱である。

 しかし、夜の21時過ぎれば流石に内線も外線もかかって来ない。


 本部の人間も引き上げた。

最近はこの時間に、本来の事務仕事に取り掛かる。

 残業続きで疲れていた。昼食の休み時間もない。おかげでお腹も空いたが、それでも1日の仕事を片付けないと、苦行は繰り越されるだけだ。


「もう毎日が討ち死に一歩手前です。いや、分かりますよ。誰しも好奇心はあるでしょうし、なにせこんな事件だし、多分私だって、他の支店の人間なら同じことするでしょうよ。でも好奇心はそれを持った猫を殺すだけではなく、相手をも殺すのかもしれない……つか、客と同期と電話に殺意すら感じたのは、今が初めてです」


「連中に殺意持ってんのは、あんただけじゃない」


 門倉さんは、髪の毛をかき混ぜながら吐き捨てた。


「私なんかなあ、あいつと同期だって理由だけで、事情聴取が長引いたんだぞ。彼女の最近の様子はどうだとか、悩んでいた節は無いかとか何だとか……同じ年にたまたま一緒にこの金庫に入ったからどうだってんだ! あいつとは友達でも何でもない! 出来れば一生無関係でありたかったよ!」


 憤怒の火山は止まらなかった。


「おまけの本部の奴、仕事中に何度も人を呼びつけやがって。おかげで何も出来やしない。私の仕事を邪魔するならあんた達、私の代わりにオオカワさん一家の、全預金の通帳とキャッシュカードの紛失届7人分と、再発行の手続きと解約手続きと、カガワさんの口座移管のオペレーション手続きと、○×商事の代表者変更届をやれってんだ」


 そういいながらも、門倉さんは手のスピードをゆるめずに、たまった伝票に数字を書き殴りつづけた。

 怒りで最近お肌が荒れたばかりか、ストレスで顔がむくみ、目つきも口調も以前の数倍荒んだ門倉さんである。


 だが、失踪事件発生当初は、私も同様だが、口を動かして言葉を出す気力も無いほどに、騒ぎに疲弊しきって終始無言だった。

 しかし、今日はこうやって残業中に2人で弱音と無駄口を開くほどには回復した、そう言う事だ。

 

 2階では、支店長をはじめとして、男性職員全員が会議室に集まっているが、もうすでに3時間以上経っている。

 最近、事件が起きた不謹慎なお祭り状態の周囲に、支店の全員が振り回されている状態なのだ。店の営業目標どころか、預金残高に融資の数字などと、全て吹っ飛んだ状態である。おまけに連日長時間の会議が続いている。


「サカイ、あんたのところ、警察来た?」


 門倉さんが私を見た。


「来ましたよ」私はうなずいた。


 麻由美の件では、私の自宅にも刑事2人が聞き込みにやって来たのだ。


「彼女に少しでも関係ある人全員個人個人に、聞きこみしているって言ってましたけどね」


 夜遅くにやってきたのは、ドラマにでも出てくるような、美男美女の若い2人の刑事だった。聞かれた事といえば、彼女を恨んでいる人間はいるか、交友関係に金銭問題、悩みはあるようだったか、彼女にまつわる噂に社内での評判はと、まさにドラマそのものの質問だった。


 しかし、私としては、麻由美の件が職場だけではなく、帰宅後にまで追いかけてくる事にウンザリし、ハンサムな刑事に見惚れている余裕はなかった。

 ……しかし……

 刑事が引き揚げた後、我が家は大騒ぎになったのだ。


「お母さんには本当の事を言ってちょうだい!」


 麻由美の失踪に、我が家に刑事がやってきたという事をどうとらえたか、母は取り乱して泣き叫び、クリスチャンの父は何をどう想像したのか、娘の犯した罪の懺悔をすると、夜中零時に教会へ走ろうとする始末。

 家族に職場の個人名を出して罵り倒すのは、もうやめよう。


 門倉さんは口を曲げて頷いた。


「そうか、私は両親に海外逃亡をすすめられた」


 国外逃亡した犯罪者を引き渡す条約を日本と締結しているのは、韓国とアメリカだけらしいねぇと、門倉さんは情報を付け足してから、出来上がった伝票をまとめて、机の引き出しに放りこんだ。

 私も同様、たまっていた未処理の領収書の経費処理を検印箱入れた。


 後は上司のハンコをもらえばいい。

 失踪後の混乱で考える余裕すら奪われていたのだが、ここでようやく、私は掛石麻由美の姿を久しぶりに思い浮かべた。

 そしてううむと呻いた。横を見ると、門倉さんも同様、眉間にしわを寄せている。


「……どこに行ったんだ?あいつ」


 微妙なトーンの門倉さんの声だった。


「家族は、誘拐を疑っているらしいです……たって、誘拐犯からの身代金要求はないそうですが……つぅか、彼女自身が目当てっていうのはちょっと……」


 微妙に不謹慎な響きではあったが……しかし、私と門倉さんにとっては、あの掛石麻由美が他人にどうこうされるとは、まずあり得ないと踏んでいたのだ。

 2年前入社して、この支店に配属されたときに出会った、掛石麻由美を見た時の衝撃が忘れられない。


 推定100キロ以上130キロ未満、特注サイズの紺の制服の上にある顔は、ギャク漫画でデフォルメされたデブスキャラそのものだった。

 そして頭は金茶色の髪のヤドカリというか、ウ●コをのせたような「夜会巻き」


 くっきりはっきりした化粧に「ナチュラル」はなく、クレヨンで描いたようなアイラインと口紅、海苔のようなまつげ。

 世間一般的に、人材選びがお固いはずと思われている金融機関だが、実際には親のコネに七光り入社は多い。


 苦労知らずのバカボンやお嬢様の頭を補うために、それ以外はお堅い優等生を採用しているのだろう。

 事実、掛石麻由美はコネ入社だった。彼女の父親の経営する会社が、他支店の上得意なのだ。


 学生時代茶髪だった頭を黒に染めて、紺のスーツで身を包んで個性を隠し、作り笑顔と優等生的答弁を心身に叩きこみながら苦労して内定を掴んだ私にとっては、いきなり資本主義の強さを見せつけられてしまった瞬間であった。


「……事故……ですかねぇ」


 私は、何度も警察に説明した掛石麻由美の「失踪当日」の記憶を引っぱりだした。

 特段、彼女に変わったところは見受けられなかった。


 交代で先に昼休みを取りに食堂へ上がった彼女を見たのが最後だが、食堂のパートの調理師さんによると、麻由美は昼食のカレーライスを、忙しくて食堂に来れない人の分まで3杯おかわりし「辛過ぎる」と怒り「メニューがカレーならフルーツヨーグルトをつけるべきだ」と抗議しまくって部屋を出ていったそうだ。


 消えたのはその後だ。

 無断早退の前科がある麻由美なので、皆そうだろうと決めてかかっていた。


「あれはバーゲンでしたっけ。あの日は客が少なくて暇だって、脱走してそのまま行っちゃったんですよね……」


 その流れで、私は麻由美が脱走途中事故にでもあったのかと思ったのだが。

 門倉さんは腕を組み、脱いだサンダルをつま先にひっかけながら口を曲げた。


「いや、私は長期休暇の強行突破かと思っていた」


 先月、麻由美は家族とエーゲ海に行くからと休暇を申し出た。

 休暇を取る事自体は勤務規定上問題無いのだが、問題なのは日程で、何と麻由美は信用金庫職員でありながら、「月末の魔の一週間」を休み指定したのである。

 金融機関の人間なら、親の葬式なら延期しろ、死んだなら墓場から出社しろとすら言われる激働の日である。


「だってぇ、この後になったら、ママンがお稽古の発表会で忙しいっていうんだもん、ダディもスケジュール的に、そこが一番いいって言うしぃ」


 と、のたまい、門倉さんとバトルになった。

 辞書とボールペン、PCに書類にファイル、机の全てがお互いの顔面目がけて空を飛び、支店長が仲裁に入って犠牲者となった。


「……誘拐、ですかね」


 彼女自体は安月給の信用金庫職員だが、実家は会社経営のお金持ちである。


「100キロ越えのアレを誘拐するには、クレーンがいるな」


 重機を調達しないと出来ない誘拐なぞ、絶対やりたくないと門倉さんは言い切った。


「でもって、虜囚を作るならもっと獲物を選ぶね。私なら被虐的な香りが高く、すすり泣きが似合う楚々とした美少女か、病的な美少年にする。血管が透ける白肌に食い込む獰猛な荒縄に、華奢な素足を凍えさせる冷たい床……いいねえ」


 とんでもないところで、自分の加虐的性癖を暴露する門倉さんの言葉に、私は麻由美が自分自身で語った「誘拐未遂」の事を思い出した。

 彼女曰く、これまで幾度か拉致監禁の憂き目にあったらしい。


 本人いわく、自分には男性本能を狂わせる何かがあり、それは男の支配欲と野獣的衝動をかきたてるらしく、夜道でも危ない目に遭うこともちろん、過去、異国で拉致と監禁にあった事という。


「パリのブティックに入ったのねぇ、そこの試着室に入ったらぁ、床の底がパッカリ開いてぇ、落っこちちゃってぇ、誘拐されちゃったのぉ。なんていうのぉ、人身売買組織って奴ぅ?そこでセリにかけられてぇ、1000万ドルでイタリア貴族に売られちゃったのぉ」


 さて、麻由美は幽閉された姫の如く、その貴族のお城の尖塔で生活を送っていたとか。

 ハシバミ色の瞳と黒い髪の、若き美形の貴族の奴隷となってしまった麻由美は、お城の中で、天蓋つきベッドの上で桃色の辱めを受け、CIAの金髪美形捜査官によって救出され、イタリア貴族は警官隊との銃撃戦との末、死んでしまったとか。


「ふぅん、私が聞いたのは香港のビクトリアパークの展望台でぶつかった男が実は香港マフィアの若きボスで、そいつがその夜にペニンシュラで催された夜会で突然押し入ってきて、招待客の眼前でイブニングドレスのままで強奪されて、そのまま北京の紫禁城に幽閉されて、ショーメのダイヤの指輪で求婚されたって話だけどさ」


「へー、魔性の女も大変ですねぇ」


 ついでに、散々聞かされた彼女の悲壮な自慢話によると、彼女は生まれながらの「魔性」を持ち、そのせいで何十人もの男性が、妻子があろうと恋人がいようと、年齢や社会的地位に関係なく麻由美への慕情に狂い、互いに争い合い、破滅に向かっていったとか。


 男性を狂わす己の罪深さにおののいた麻由美は、ある高名な霊能者に霊視してもらったところ、自分の前世は、とある国の美しい巫女で、神に仕える禁欲的な日々を送っていたのにもかかわらず、その奇跡的美貌のせいで国の男性たちを惑わし、その罪で処刑されたんだとか。


「男性には、運命の女に出会い、例え身の破滅へと向かってでも、その女に人生を翻弄されたいという願望があるのです。前世を見ても分かるように、あなたはどうしても男たちにとって運命の女となる星をお持ちだ。それは因果律という世界の原理でもあり、貴方の逃れる事の出来ない宿命なのだから、その星を背負って生きなければならない」


 と、諭されたとか。


 ……門倉さんと私は見つめあっていた。

 やがて、門倉さんは頭を振った。


「いや、別に全部があの子の大ウソだと、言っているわけではないのよ。現に家はお金持ちで、ダディとママンと一緒に、年に2回海外へ行くし、去年パリ旅行の目的は、シャネル本店でオートクチュールのスーツのための採寸らしいし、定宿はロンドンならサヴォイでパリならドゥ・クリヨン、香港ならペニンシュラだ。貴族でもマフィアのボスでも実業家とも、ホテルか店の中ですれ違ってるくらいはあるかもな」


「……こないだ、ハリウッドの映画監督が、家族でテレビ出演した彼女の姿に感銘を受けて、今度の新作の主演女優はアン・ハサウェイに内定していたけれど、それをキャスト変更するから貴方に主演として出て欲しいって、直に懇願してきたらしいです」


「……ああ、地方局の夕方4時『突撃! 隣の社長さん』か」


「その話は断ったけど、アン・ハサウェイに恨まれたとか」


「ほほー、ハリウッドの内部事情にまで話が広がったか。警察の皆さん捜索が大変だなあ」


 はっはっはっと、閉ざされた営業室で、私たちの乾いた笑い声が響く。

 さて、と門倉さんと私は、一度笑いを引っ込めて再び向き合い、腕を組んだ。


「いや、実はさ、復讐という線も考えたのよ。どこでどう誘拐されたかはとにかく、アレに恨みを持っている人間……実は私、川端君を想い浮かべたんだけど」

「成程、ある意味人生狂いましたからね」


 見上げた灰色の天上に、私は川端君の端正な顔を思い浮かべた。

 川端君は隣町にある支店に配属された、去年の春に入社の24才のフレッシュ社員で、そのハンサムぶりは入社すぐに女性職員の間に知れ渡った。

 彼は同じ支店にいた2年先輩、美人名高い山瀬さんとすぐに付き合い始めた。


 2人が並ぶと、似合い過ぎるなんてものではない。美し過ぎて恐れ多い、すでに不可侵の存在と言おうか、この2人の間にちょっかいを出そうなどと一般人はまず思わないだろう……そのはずだった。

 その川端さんを略奪したのが、麻由美である。


 川端さんを見染めた麻由美は、猛アプローチをした。レターにメール、プレゼント攻勢、贈り物は全て食品で、何故か生肉であったと聞く。

 当然、川端君は相手にするはずも無かった。婉曲に断り、贈り物を口にするはずも無く、アプローチは春風の如くかわしていた。


 しかし麻由美は、実家の会社が川端さんの支店の営業エリアなのを利用して、父親に訴えて川端さんを営業担当に指名させ、営業お得意先としてがんじがらめにし、接待だの招待だので実家の経済力を誇示し、逆玉の輿をちらつかせたのである。


 ……美人の山瀬さんは、麻由美の侵攻に対して全く平気だった。無理もない。

 100キロ超えの金のヤドカリ頭と、女優並みの美貌を持つスレンダー巨乳、どっちを妻とするかは、隣のおじさんからエスキモーまで、男なら出す答えは同じ……のはずだった。


 しかし、川端くんは若かった。

 なんと金に目がくらんだ。

 美人妻とのつつましい信用金庫職員としての人生よりも、掛石家の車庫にあるベンツとアウディとポルシェとフェラーリとマセラッティとレグザスを、日替わりで乗る逆玉生活を選んだのだ。


 そしてついに半年前、川端さんと麻由美は結納寸前までいった。

 しかし……


「まさか「胸毛」「すね毛」があったって理由で婚約話おじゃんとは、これまでのハンサム人生の中では予測不可だったでしょうね」


 今までに男のナマ裸体というものを見たことが無かったのか。

 アイドルの排泄を許さない、夢見る少女の理不尽と残酷さ、とは正にこれに違いない。

 あの掛石麻由美の略奪により、美男美女カップルが破局、そしてこの後の怒涛の顛末に、金庫内は愕然となった。


 体毛で男女の仲が破たんする理由の破壊力でもない。

 ハンサムな川端くんが、デブス麻由美に胸毛とすね毛を見せるに至ったシチュエーション。それを想像しようと瞬間、私には強力なストッパーがかかったものだ。

 人には想像してはならない世界がある。


 山瀬さんは、完全な男性不信に陥った。

 職場を去り、彼女は転職してしまった。

 愛よりも金を選んだ不実なゲテモノ食いだと、女性職員大半を敵に回し、山瀬さんファンの男たちには罵られ、麻由美の気分一つでつながっていた上取引先、掛石家とも縁を切られ、山瀬さんとも復縁叶うはずもなく、公私ともに地に堕ちた川端くんである。 


 そのストレスで酒量が増え、頭髪が抜けてデブ禿げと化し、今やハンサムの面影はない。 

 この信金にいる限り、きっと彼は結婚出来ない。

 

「ですがね、以前の彼女なら、ハンサムな川端君に呼び出されれば、いつでもエブリタイムの支店営業中でも逢い引きに応じたかもしれませんが、デブ禿げの今じゃあ無理でしょう」


「確かに」


 というか、無理がある。

 川岸君が、わざわざ仕事の営業中に呼び出す必要性に必然性すら見当たらない……というか、あんなのと2人で歩いていれば、目立つだろう。

 目を閉じた門倉さんは、眉間に人差し指をあてて呻いた。


「思えば、殺すほどの理由は無いけど、殴る理由は沢山あるわ」


 門倉さんが思いだしていたのは、3週間前、居酒屋の2階座敷を借りきって行われた慰労会の余興である。

 麻由美が皆の前で披露したのは、ベリーダンスだった。

 肌をあらわにした衣装で踊る、中東のなまめかしい舞踏である。


 ふくらみと脂肪の区別がつかない肉を覆うビキニと、腰のラインを強調したマーメイド風のスカートには腹の肉が垂れ下がり、揺れる度にたっぷんたっぷんと蠢く。

 制止できる勇者不在の中、肉のドラム缶の踊りはおぞましかった。


 宴の曲に合わせてうねうねと動く巨怪は、目のやり場云々ではない、感性と網膜が破壊される、悪夢だった。

 その後、麻由美は反省の弁を口にした。

 あのベリーダンス私には相応しく無かったかなぁ、と。


「だってぇ、中東の人ってもう少し色黒でしょぉ? マユ、色白いからさぁ、本場のダンサーとはちょっと違うかなぁなんて。お肌焼いちゃおうかなぁ。マユ、目鼻立ちがくっきりしているから、小麦色になったらエキゾチックな感じになると思うんだぁ」


 ……奥さんがベリーダンスを習っている佐藤主任は、家にある衣装を見る度に、肉塊のフラッシュバックに悩まされているらしい。

 しかも踊りながら、麻由美は門倉さんの料理と酒をつま先で蹴り飛ばしたのである。


「踊っていると、トランス状態になるから何も分かんない状態なのぉーとか言って誤魔化しやがって。アニエスのブラウスとスカートのクリーニング代払え! ロエベのバッグに芋焼酎の匂いがついて取れないんだ! 弁償しろ!」


「いや、もうそれ多分無理ですから」


 なだめる私にも、遺恨が無い訳ではない。

 私にも色々あるのだ。職員用洋式トイレの便座が何度も割れたのは、何故か私のせいになっていた。

 棚に隠していたみんなのおやつを食い散らかし、来客用の菓子までも食べられた。


 思い切って買ったシビラのカーディガンを営業室の椅子の上にかけていたら、「カワイー」と目をつけられ、目を離したすきに勝手に「試着」された。

 おかげでカーディガンは伸び切って台無し、ちなみに謝罪は「めんご」と死語で強制終了だ。


 食べながら仕事をするせいで、クッキーだの煎餅のカスだの、ジュースのシミなどが書類や伝票に飛散。伝票の製本課から「伝票が汚なすぎる、こっちの手が汚れる」との苦情電話に出て謝るのは私。


 ……行方不明の麻由美に対して、私たちは冷淡である。

 冷血と言われても無理はない。彼女の人となりが極悪非道だった訳でもない。

 ただ、美しいエピソードが無いのだ。


「一人でエーゲ海に行ったって事は無いでしょうね」


 エーゲ海で肌を焼きたいと泣き喚き、休みを寄越せ、旅行させろと私にまで椅子を投げつけた麻由美の顔を思い浮かべつつ、私はカレンダーを眺めてつぶやいた。

 この日、麻由美の無理難題がもしも通っていれば、彼女はエーゲ海で白いビキニで砂浜に横たわっていた日程だ。


「だとすれば、エーゲ海は阿鼻叫喚地獄に変わったってロイター通信が報道しているだろうよ。何が白いビキニだ。ベリーダンスの衣装の時といい、あんな肉体用水着が市販されている世間、商業主義にも程がある」


 門倉さんの毒舌は続く。


「おとつい、地元祭りに協賛して屋台でヨーヨーすくいするから、倉庫にパラソルを探しに行ってさ、そうしたら無いのよ。どこを探しても見つからないから、長崎さんに聞いてみれば、数日前に掛石が持って行くのを見たと。もしやと屋上に出たら案の定。あのボケ勝手に倉庫からパラソル勝手に持ち出して広げっぱなし。強い風が来て飛ばされたらどうすんのよ。家からわざわざ持ってきたのか、空気入れて使うエアクッションなんか置いて、なにやっとんじゃあいつは! しかもビール缶がいくつも転がってんのよ!何を考えてんだ、ここは海水浴場じゃねーんだ! 営業時間に酒飲みやがって!」


 門倉さんの思いだし怒りに付き合いつつ、いつも鍵を閉めている擦りガラスを何となく見た私の目に、妙な影が目に入った。

 外、ビルとビルの70センチの隙間に、白っぽい何かが引っ掛かっていた。ポリ袋にしては、ヒモっぽい影がある。


 私は目を凝らした。黒いガラスの向こうが、揺らめいた気がしたのだ。その黒さが、蠢いている気がする。


「机じゃ持ち込んだジュースを何度も引っくり返して、パソコンが今までに何台おじゃんにしたんだよ! えー、マユの身体はミルクティーで出来ているのぉ、お仕事中でもダージリンの香が無いと死んじゃうなんてタワゴトを抜かしやがって! ついでに言えばてめえのミルクティーはダージリンじゃなくてアッサムブレンドだ、ペットボトルに砂糖さえ入ってりゃ満足のデブが、紅茶を語るんじゃねぇよ、イギリス人に土下座して謝れってんだ」


 その時だった。


 門倉さんの背後にある窓ガラスの闇が、ふいに濃くなった。

 照明の明度が落ちたのか、部屋全体が暗くなった気がする。私は照明を見上げて、そして視線を門倉さんに戻した。その瞬間、我が目を疑った。


 か、かどくらさん……


 動かそうとした声帯は不能になっていた。言葉で門倉さんの罵詈雑言を止める事が出来ない。私は金魚のように口を開け閉めし、せめて警告と制止のゼスチャーをするしかなかった。だが、門倉さんは毒吐きに夢中だ。私の顔色など見ていない。 

 ……麻由美が、立っていた。


 失踪から帰ってきた、そう解釈するには、存在感が不吉なほどに禍々しい。

 明瞭に、はっきりと麻由美はそこにいる。うつむき加減の顔からは、表情が見えない。無言で立っているそれよりも……。

 何故、裸なのだ!


 何もつけていない、ぶよぶよとしたヌード……しかし、下は履いていた。

 だがそこを覆っているのは白いパンツ……しかもヒモでしばる…水着だ。

 何でそんな恰好でいるのかよりも、麻由美の膝小僧から下が透けている。


 実のない肉体とは思えないほどに、明瞭に見える麻由美のシルエットだったが、それは上半身だけで、足部分が透けている。


「あのずーずーしさと鈍感さがありゃ、どんな死に方しても成仏できるわ、あいつ! つうか、デブが幽霊になる権利は無いのよ!」


 じょーぶつしてないしてないしてない。

 けんりあるある。

 麻由美の実の無い巨体の存在感はいよいよ増している。門倉さんを絞め殺すくらい可能と思える程、明瞭ではっきりとした姿だった。


 私は祟りという第二の悲劇を食い止めようと必死だったが、「あわ、あわわ」としか出ない声では、事態は音速の空回りだ。

 焦燥と恐怖と困惑が渦巻き、混乱した頭では泣く事も出来ない極限状況。


 人の心を知る由もなく、死者が背後にいる事全く気がつかない、紅蓮の怒りに身を任せている門倉さんは麻由美を糾弾する。


「倉庫にキャンペーンの景品の段ボール箱取りに行ったら、段ボールを部屋の隅に積み重ねて、布団しいて昼寝用ベッドにしてやがって! あの体重のせいで中の景品が箱ごとぺしゃんこにつぶれて、客に配布出来なくなったのは一生忘れん! 安物だからすぐ壊れるんですよぉ、お客さんにそんな不良品配らずに済んでよかったじゃないですかぁなんて、何を脳内にウジ沸いた事抜かしてんだ! 1回死ね、いや、2回3回でも死ね!」


 もお、やめてぇ、かどくらさぁん……。

 闇に潜む麻由美を背にして、門倉さんが私に向かって吠えた。


「あんたも怒れよサカイ! いきなり大人しくなりやがって、あの時あんたも、景品の貯金箱が、130キロのデブのせいで大量破壊されたんですぅって泣きながら本部に電話して、お願いです、余分下さいって電話口で頭下げてたろうが!」


 ギャあああ、私まで祟られるっ

 道連れにされてしまうと、思わず頭を抱えてしまった瞬間。

 凄まじい、高い破裂音が耳をつんざいた。


「!!!!っ」


 門倉さんの身体が沈んだ。反射的に伏せたらしい。

 同じく頭を伏せた私の頭にも、バラバラと破片が降ってくる。

 それは細かなガラス片だった。私は総毛立った。


「どうしたどうした!」

「何があった!」


 2階から男の人たちの声が響く。どたどたと駆け降りてくる音に、私は安堵しながら身を起こした。そして声を失った。

 目の前がまっ黒に、いや、小さな黒点が室内に渦巻いていた。

 大量の蝿だった。


 砕けている窓ガラスから滝のように黒い粒子が流れ込んでくる。

 口を開けたら蝿が飛び込む恐怖と、顔に当たる生理的嫌悪に私は目をつぶった。狂ったようにカーディガンをふるい、蠅を追い払う。

 今まで嗅いだ事のない臭気がどっと空気を汚染する。

 

 世界全ての悪臭の元をつめこみ、発酵させて更に煮詰めたような腐臭だ。

 気分が悪くなる前に、窒息してしまう。

 蝿と腐臭が流れ込む、割れた窓へそれで封をするつもりなのか、ポスターを持った男性職員二人が駆け寄った。私も顔を上げて、コンクリートの壁がせまる窓の外を見た。


 ……最初は、何か分からなかった。生ごみの入った黒いゴミ袋が、壁と壁の間に挟まっていると思ったのだが。

 ゆらりゆらりと揺れていのは、逆さになった黒い顔面だった。


「ぎゃああああああああああああっ」


 私と門倉さん2人同時に、咽喉を絶叫で爆発させていた。


 建物の壁と壁の間に挟まっていたのは、麻由美の腐乱死体だった。

 夏場の温度で腐敗が進んで、ウジと蝿が大量発生していた。


 匂いにも蝿にも気がつかなかったのは、閉めたままの窓で外部を完全に遮断していた事、そして場所は建物の奥の方で、表通りに面した間の隙間はベニヤ板で目隠しされていたせいで、いくら蝿が大量発生していたとはいえ、通行人も気がつかなかったらしい。


 その後の警察の調べで、屋上の物置スペースの陰で、風に飛ばされたらしい彼女の職場の制服が見つかった。

 門倉さんの証言による、失踪直後の放置されていたパラソルとエアクッションや、350㎖のビールの空き缶が大量に転がっていた事、そして中身がなくなった日焼けオイル容器が、屋上の隅に転がっていた事を総合すると……。


 まさかだが……あの日、麻由美は昼の休み時間に服を脱ぎ、ビキニに着替えて、ビールを何本も飲みながら屋上で日光浴をしていたらしい。

 恐らく、胸に日焼けの跡をつけない為に、ビキニの上のヒモを外していたのだろう。


 それが何かの拍子に風に吹き飛ばされ、幅70センチのビルとビルの間の隙間に引っ掛かったか。

 それを麻由美は鉄柵から身を乗り出すなりして、取ろうとした。

 だが、昼酒が回っていたせいでバランスを崩し、頭から転落した。


 しかし身体の幅のせいで、落下途中で壁の間に挟まっていた。

 そういう筋書きである。

 人間、逆さま状態だと声が出ない。

 しかも麻由美は壁に挟まれて圧迫されていた。


 頭をどこかで打って、打ち所が悪かったのかもしれない。

 とにかく、助けを呼ぶことが出来ない、挟まれた体制のまま……息絶えたのだ。

 私たちが働いている、部屋の窓の外で。


 そのおかげでまたもや支店は、未曾有の野次馬軍団に襲われている。

 紺色の公務員団体が建物を占拠し、電話回線がついに破裂した。

 支店長が過労で倒れ、副支店長が泡を吹き、管理職の死屍累々が支店を埋めた。


 指揮権がバトンタッチで下に降りていき、ついに今は30才になったばかりの主任が、店の営業の前頭指揮を取る羽目になっている。


「くっそっあのダーウィン賞野郎が!」


 今日もまた残業である。

 隣ではシャチハタの印鑑が壊れる勢いで、作成した書類に作成者判子を叩きまくる門倉さんが吠えている。


 走るのを止めたら倒れてしまうとばかりに疲れを忘れて、ハイテンションで全力疾走の日々である。シャブ(覚せい剤)を打ってもこうはなるまい。

 ちなみにダーウィン賞とは、役に立たない自分の遺伝子を、自分の手で遺伝子プールから取り除く事。その行為を高く評価する事である。


 つまりは、愚かな人間が自分自身の手で、自業自得の死に方をする事で人類から愚かな人間を減らし、人間という種の存続に貢献した事を称える賞であるらしい。


「掛石出てきやがれ! ぶっ殺してやる! 地獄なんて安全圏へ逃げやがって!」


 地獄なんてマトモなとこ、彼女往ってやしませんよ。

 見たくもない私の目には見えて、どうして勝負したがっている門倉さんは見えないのかな。死んだ後も不条理な女だ。


 門倉さんは気がついていないらしい。

 さっきからベニヤ板で塞いでいるはずの窓の外から、ガラス戸を叩く音が聞こえる事。

 そして今、麻由美は目の前にいるというのに。

 半裸のビキニ姿で、うつむいた顔で。


「……門倉さん……いいよなぁ」


 見えない涙を、私は拭った。

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