第9話 2人のストーカー

「あのさあ、家坂くんって、リエのこと好きなのかなあ」


 小百合は、アイスティーを飲むのを止めて顔を上げた。

 目の前で、鎌田理恵が頬杖をついている。

 その視線の方向を見ると、同じサークルの家坂和樹が斜め横方向のテーブルに座って、本をめくりながらコーヒーを飲んでいた。


 時は夕方、大学構内のカフェテリア。

 授業を全て終えた学生たちが、待ち合わせや休憩でちらほらと座っている。


「さっきから、ずっとリエをみていたの。目が合ったら本見るフリしたけどさあ、最近いつもこう。視線を感じるなって思ったら、家坂くんなんだよねえ」

 「ふぅん」

 

 見た、見られたで勝手に話が発展する、小学生じゃあるまいし。

 そう思うとどうしても返事は乾くが、理恵は小百合の感情の機知に頓着する娘じゃない。

 ぐいぐいと話を押してきた。


「こうやっている時だけじゃないんだよお。学校の廊下ですれ違った時も、ずっとリエを見送っていたしい、サークルの時だって、部室に入ってきたら、まず最初にリエを見るの。活動だってリエが参加したら、参加しているもん。きっとリエの行動、チェックしてるんだろうなあ」

「へーそうなんだ」


 小百合は無難に返した。

 家坂は、静かに本を読んでいるだけだった。

 ただ、それだけだった。

 どきりとした。


 小百合が好きな作家の本を読んでいた。


「家坂君と理恵って、そんなに話をした事あったっけ?」


 つい、揶揄がこもった


 家坂は同じイベントサークルの仲間だが、サークル自体に部員は多い。

 交友の密度は低いので、いまだに話したことがない部員だっているのだ。

 そこでいきなり、恋心も何もないだろう。

 しかし、理恵には通じなかった。


「えーでもぉ、リエにはよくあるよ。そんなに話もした事ないし、顔もよく知らない人から好きだって言われるのって、昔からフツーにあったもん」


 そして、浮かれた声で叫んだ。


「それにさあ、思い出してよお。先週の日曜日のハイキング、家坂くん、リエのことすっごく心配して、コースを歩いている間、ずっとべったりだったでしょ。ずうっとリエに大丈夫かとか、疲れていないかとか、しつこいくらいだったじゃない」

「ああ、そうね」


 今年の春、この私立の大学に入学して、勧誘されて入ったイベントサークル。

 新入生歓迎の、親睦のハイキングだった。

 当日は天候に恵まれ、整備されたハイキングコースは歩くには快適だった。

 周囲の緑や青は鮮やかで、優しくも刺激的な自然風景。


 その風景の中で、理恵は最初の1キロ目から息切れを起こし『休みたい』『ゴールはまだなの』『もう帰りたい』と五〇メートルおきに連呼していたのだ。

 親睦のハイキングに、文句を振りまく新入生を見る、上級生のひんしゅくの目。

 そんな理恵の横にいた小百合にとっては、ハイキングどころじゃなかった。


 我儘な子供をなだめ、すかし、周囲の白い目に小さくなりながら、小百合はひたすら理恵の巨大な尻を押して進んだのだ。

 その時、励ましてくれたのが、あの家坂和樹だった。


『荷物を持つよ。だから頑張っていこう』 


 一緒に横を突いて歩いてくれた、小百合にとっては、それがどんなに有難く、頼もしかったか。


「サユリンは、あの時そう思わなかった? あれ、どう考えても必要以上に親切じゃない。きっとあの時からだよ」


 あの親切心を、自分への恋心にすり替える。

 その思い込みは子供じみたというより、幼稚な化け物だった。


「……あれから、別に仲良くなったとか、それもないじゃない」


 小百合は息を吐いた。

 そう、それから特に親しくなったという事もない。

 家坂は、分け隔てなく優しい。

 あのハイキングも、彼の優しさのエピソードの一つにすぎない。


「サユリンは、こういう風な目に遭ったコトないもんねー」


 憐れみと優越感に、リエの細い目が光った。


「リエってほら、小さい頃から、よく男の人に目をつけられて、色んなことあったヒトだからさー、オッパイやオシリ触られたり、ヘンな目で見られたり、エッチなこと言われたり、いっぱいあったもん。男を狂わすタイプだしい」

「……」

「あーあ、入学してすぐこれだ。リエ、もうやっちゃったよ。やっぱり大学は共学じゃなくて、女子大にしとけばよかったよぉ。これからリエ、ちょーターイヘン」


 頬杖をつく手から、はみ出す頬の肉を震わせて、ふうとリエはため息をつく。

 小百合は何も言う気を無くした。


 人同士はどうやって友達になるのか、ケースは様々あるけれど、小百合は理恵と友達になりたいと思った事はない。

 小百合と理恵の母親同士が、高校時代の友達だった。

 娘の入学式で偶然再会した女友達同士は、桜吹雪の舞う校門の前で手を取り合って狂喜し、昔の友情を懐かしんだ。


 小百合の母が言った。


「良かったわ、小百合は人見知りが激しいし、お友達を作るのが苦手だから、理恵ちゃんと仲良くしてもらえれば安心ね」


 理恵の母親も、娘が中学時代にいじめられていた事から、高校生活のトモダチ問題が心配でたまらなかったらしい。


「小百合ちゃんみたいな、真面目で優しい子がいてくれて安心したわ。理恵と仲良くしてね」


 娘のトモダチ問題の安心のために、そして母娘2代にわたる友情という、母親同士の願望のために、小百合と理恵は『トモダチ』にされてしまった。

 母同士の願いが叶って、2人は高校で同じクラスになった。そして悪魔の仕業か、3年間同じクラスだった。


 小百合にしてみれば、母親の心配は最もだが迷惑な話だった。

 確かに、母親の言う通り人付き合いは苦手だ。

 話をしても、嫌われる不安が強くて、相手の顔色や口調をうかがってしまう。友達もほとんどいない。


 だからといって、理恵と友達になりたいとは全く思わなかった。

 自己顕示欲と虚言癖が強すぎる。

 中学時代にいじめられるのも当り前だ。

 人に気に入られたい、自分を大きく見せたい願望が強く、風呂敷を広げて回収出来ない嘘をつく。


 クラスのボス格の娘に取り入ろうと、父親がテレビ局に勤めていると嘘をつき、人気絶頂のアイドルグル―プの特番に特別出演させてあげると出来もしない約束したり、幼少の話が出たら、子供の頃からフランスのお城に住んでいて、毎日舞踏会が開かれていたとか、社交界の花形だったと語る。


 正体を隠して、お城の舞踏会に来たマフィアのハンサムなボスが、自分に一目ぼれし、親の決めた婚約者である貴族の青年に決闘を申し込んだとか。

 そのせいで、貴族の青年とマフィアが相打ち、共倒れになり、社交界で大騒ぎを起こしてしまってフランスにいられなくなり、日本に戻ってきたとか。


 世界でも有名な占星術師に運勢を見てもらったところ『あなたは多くの男を虜にし、破滅へと向かわせる』と神託を告げられたので、進学先はこの女子高にしたんだとか。


 太った、愚鈍そのもの。

 そんな理恵が垂れ流す妄想は、中途半端に豪華で滑稽で、当然裏では笑い者にされていた。

 小百合も、理恵といるくらいなら孤独の方がマシだった。


 しかし人見知りがひどく、話すのが苦手なのがたたって、理恵以外のクラスメイトとは会話が続かなかった。


「リエ、ホントウにサユリンがトモダチでよかったって思ってるんだよ、ねえ、これがホントウのトモダチってやつだよねえ」


 結局、小百合の高校時代の学校行事の写真、全ての隣に理恵が映っている。

 せめて、理恵のいない交友関係を作ろうと、思い切ってファーストフードのバイトを始めたが、理恵に知られてしまった。

 理恵はすぐ、同じ店にバイトとして入ってきた。


 このままでは、理恵がずっとついて回ってくると、小百合は一念発起した。

 頑張って勉強し、テストの点を上げた。

 志望大学は、偏差値が高い場所を選んだ。

 ここは理恵の成績では無理だ。


 理恵は小百合と同じ大学に受験したいとダダをこね、無理だと言われて生徒指導室で泣き喚いたらしい。

 鎌田家も大騒ぎになったという。

 小百合は、理恵の最初の友達だったのだ。


 その友達を逃がさんと、理恵の『サユリンと別れたくない』という泣きながらの訴えを叶えんと、理恵の両親は奮起した。

 その道では有名な家庭教師に、大金をはたいて雇い、理恵につけたのだ。

 理恵は合格した。小百合と同じ大学、同じ学部に。


 理恵の両親は、家庭教師にBMWをプレゼントしたらしい。

 小百合に言わせれば、家庭教師は悪魔の手先と言う以外にない。


「やったー、サユリンと一緒のキャンバスだよ」


 小百合の自由の桜は散った。目の前が暗くなった。

 卒業式の写真を見ると、死んだ目の自分がいた。

 今年の春、理恵の父親が急に地方に転勤することになった。

 理恵の母親が父親について行き、理恵は春から、大学の近くにあるワンルームマンションで一人暮らしを始めた。


 女子大生という身分、一人暮らしという自由を手に入れた理恵は、正にこの世の春という状態だった。

 それとは正反対に、小百合の心は闇にある。



 受験前、大学のオープンキャンパスに見学に来た小百合は、大学という世界に瞠目したものだった。

 高校の敷地や校舎と違って、どこまでもが明るく垢抜けていた。

 空気は自由の匂いがし、学生は光の中を歩いていた。


 それを見た時に、小百合は自分の生活の窮屈さを改めて思い知り、絶対にここに合格しようと思ったのだ。

 ――大学のカフェテリアは、高校の学食と違って中は広かった。

 白い床に木目のあるテーブル。

 その清潔なナチュラル感は、まるでレストランのようだった。メニューも多く、デザートも充実している。


 ここでランチをとりたいと、あの時小百合はそう思った。

 だから、一生懸命勉強した。

 大学デビューしようと心に決めた。

 そして野暮ったい高校生活から、華やかなキャンパスライフを送る資格を手に入れたのに。


 それが、隣に理恵がいる。

 ランチタイム、理恵がランチのプレートを持って立ち止まり、小百合に囁いた。


「ほらぁ……また、あそこにいるぅ」


 喫茶スペースの、中央のテーブルに家坂和樹が座っていた。


「いっつもあそこにいるんだよぉ、真ん中で、リエがサユリンと一緒に、いつカフェに入ってくるかとか、どの席に座るかとか、ずっと見てんの」


 家坂和樹を、3人の娘たちが取り囲んで笑いさざめいている。


「こっち見てる!」


 理恵がわざとらしく顔を背けた。


「ああやだやだっ家坂くん、さっきからずっとリエを見ているの。やんなっちゃう。リエの事諦めて、大人しく、あの子たちと話でもしてりゃいいのに」


 小百合は、家坂和樹を眺めた。

 確かにこっちを見たが、あれは見るというより、視線の移動の途中に、理恵と小百合が引っ掛かったくらいのものだ。

 悲しくなった。家坂と一緒にいる、華やかな女子学生のグループ。


 大学に入ったら、あんな娘たちと一緒におしゃべりしたり、お茶を飲んだりする自分を想像していた。

 きっと話題はショッピング、映画、読んだ本とか、普通で楽しい会話に違いない。

 あんな風に、屈託なく会話が出来たら、どんなにいいだろう。


 こんなはずじゃなかったのに、小百合は改めて運命を呪った。

 大学に入ったら、理恵と別れて生まれ変わっていたはずだった。

 明るく、人見知りをせずに友達を作り、明るい大学生活を送るはずだった。

 なんで、こんなのとまた一緒にいなきゃいけないんだ。 


 家坂のテーブルがどっと沸いた。

 白いワンピースの娘が、笑いながら家坂の背中を叩く。

 小百合は、理恵とテーブルの娘たちと見比べた。

 男を囲むのも、囲まれるのも慣れているような華やかなグループ。


 包容力のある、肝っ玉母ちゃんの太め体型を好む男もいるが、理恵にはそんな強い核は無い。

 あるのは怠惰と自己顕示欲でたるんだ顔だ。

 この姿で、本当に家坂が自分を好きだなんて思っているのだろうか。


 中学高校とサッカーをしていたけれど、運動会系のノリにも、走り回るのも飽きたので、気楽な大学生活を楽しもうと思ってこのイベントサークルに入ったと、皆の前で軽やかに自己紹介していた家坂を思い出す。


「分かるでしょ、家坂くんがリエを見てるの……やらしくない? あの目」


 一体、どう頭の中の配列を組みかえれば、家坂が自分に気があるのだと、恋をしていると言い張れるのか、そしてあの娘たちと比べて自分自身をどう思うのかと、小百合は理恵の頭をかち割って確かめたい。

 さぞかし中身は珍妙と奇抜な部品で、狂っているのだろう。


「それにねえ」


 理恵が嘆息した。


「何かねぇ、マンションの周囲をうろついている変質者がいるって、マンションの掲示板に張り出されていたんだよぉ。女性住民の方、気を付けて下さいって」

「……」

「家坂くんなのかな」


 小百合には、何も言えなかった。



 もうバイトもしていないので、小百合は授業が終わればまっすぐ家に帰る。

 理恵がマンションに寄っていけ、遊んで帰れと毎回ダダをこねるのを、振り切るのも毎回一苦労だ。


「せっかく一緒の大学に入れてさあ、一人暮らしでさぁ、いっぱいサユリンと遊べるっておもってたのにぃ」


 その大学で、縁が切れると思っていたのに。

 心待ちにしていた出所の日が、延期された囚人の気分だった。


「次は、同級生の男の人が、自分を追いまわすストーカーだって言い張るのよ」


 母と弟の夕食の席で、小百合はいつものように吐き捨てた。


「もう限界。大学は別々で縁が切れるって、そう思って我慢して、一生懸命勉強してきたんだよ。それなのに、一緒について来てさ。私があのデブにずっとストーカーされているようなものじゃん」

「……」

「また、あんなのと友達だと思われて、一緒に学校生活送るくらいなら、大学辞めたい」


 顔色の浮かない母親に、小百合は声を投げつけた。 


「聞いている?」


 母親が、ため息をついた。


「分かっているの? こうなったのも、元はと云えばお母さんのせいなんだからね」


 小百合が母親に、毎日のようにぶつける苛立ち。

 母は口を小さく動かした。


「だって、あの子があそこまでとは思わなかったし」


 あなたに、友だちを作って欲しかっただけなのよと、母の目が、後悔交じりの哀願を含んで小百合を見る。

 高校の頃から続くやり取り。

 毎日のように繰り返されているが、解決策が浮かんできたことは一度もない。


「……でもね、理恵ちゃんのお母さん、そりゃ喜んでくれたじゃないの。理恵ちゃん、中学の頃からイジメに遭っていたから、小百合が仲良くしてくれるならって、向こうのお母さんはそりゃあ感謝して、色んなものを贈ってくれたでしょ」

「メロンや松坂牛が何よ! そんなもの寄越して、嘘つきのデブのお守りに感謝する前に、デブを絶食させて嘘つきを矯正するほうが親の役目でしょうが! 今だって、デブを放置したまま田舎へ逃げたままじゃないの!」

「俺宛の郵便、来ていなかった?」


 高校2年になる弟、幸二が無遠慮に割り込んだ。


「いくつか予備校の資料請求しているんだよ。家に送ってもらえるように頼んでるんだけど、郵便受け覗いても、まだ来ない」

「ああら、そうなの」


 母が小百合を振り払うように声を上げた。


「そう言えば、最近ダイレクトメールがこないわね。今日も何も来ていなかったわよ」

「誰か、悪戯して郵便物漁ってるんじゃないだろうな」


 荒っぽく幸二が吐き捨てる。


「予備校電話したら、とっくにパンフレット送ったって言い張るんだよ。マンションの郵便受け、鍵つけた方がいいんじゃない?」

「だとしたら、やあねえ、気持ち悪い」


 文句を言い足りないまま話題を変えられた。

 憤然と、小百合は箸を再び取り上げた。


 食事を終えて自室に入った小百合は、パソコンを立ち上げた。

 もう一度、思い切ってバイトをしようかと思っていた。

 次はもっとよく考えよう。

 高校の時のファーストフード店の時のように、例えばれても理恵ではバイトが無理な場所。


 たとえば、制服のサイズが細身しかないとか、何だっていい。

 今度こそ、どこか1つでも理恵がいない場所で、交友関係を築くのだ。

 高校生の時に入ったファーストフード店のバイトを思い出し、小百合は内臓が鉛のように重くなった。


 小百合を追ってバイトに来たはいいが、店のシフトを無視し、勝手に出勤し、勝手に休む。

 男性客が自分に色目を使ったとカウンターの前で大騒ぎし、当の客本人を激怒させた。


 提供期限の切れた、廃棄処分の商品を全て鞄の中に入れて持ち帰るばかりか、試食と称して商品を食べまくる。

 冷凍のポテトやハンバーガーのパテの在庫が、一晩で半分消えていて、店内は大騒ぎになった。


 結局、理恵はクビになったのだが、小百合が理恵をこの店に招き入れた張本人だと思われていて、当然、小百合の立場も最悪だった。

 理恵がクビになった後でも、小百合の居づらさは変わらず、結局バイトを辞めた。

 初めてのバイトは、苦い終わりになった。


 それにしても進学先ばかりか、バイトを選ぶ基準までが、時給や地域じゃなくて理恵が基準だ……小百合は情けなくてため息をついた。

 その時。

 携帯がマナーモードで震動する。


 ディスプレイを見て、小百合は手をひっこめた。

『理恵』放置したまま、ネットのバイト情報を検索する。

 どうせ大した用事じゃない。

 どうせ、さっき見たドラマの感想とかだ。


 しかし、2分おきに震動する携帯に13回目、ついに小百合は根負けした。


「はい」

『サユリィィン、タスケテぇぇー』


 耳に、裏返った悲鳴が直撃した。

 思わず小百合は時計を見た……23時。


「どうしたの?」

『こわいよぉ、すぐ来てぇっ怖いぃぃぃ』

「何があったの?」

『タスケテぇ、こわいよぉ』


 ひぃひぃと息遣いが聞こえる。

 何を聞いても、言っても『すぐ来て』と小百合を責めるように、何度も悲鳴を繰り返す。

 何があったのか、警察を呼べと言っても聞いていない。


 小百合は理恵の悲鳴に押し切られ、仕方なく家を出た。

 理恵のマンションへ小百合は向かった。

 大学の校舎が見える。

 四階建の、可愛らしい白い小箱に小百合は入った。


 ポストで理恵の部屋を確かめて、3階の部屋のインタホンを鳴らす。


「サユリィィンっ」


 暑苦しい肉の塊が、小百合にぶつかってきた。

 小百合は部屋に引きずりこまれた。

 部屋に酸っぱい悪臭が漂っている。

 思わず鼻を押さえた。


「なに、これ……」


 耳元で蝿の羽音がよぎる。

 部屋の中に、ゴミ捨て場があった。

 床からテーブル、ベッドの上まで空き容器とペットボトル、服や雑誌が混じり合って投げ出されていた。


「変な奴が、外にいて、この部屋をじっと見てたぁ! 若いオトコ!」


 のろのろと、小百合はベランダに近づいた。

 途中、何かを踏んだ。

 柔らかい厭な感触だった。

 ベランダの外は、ゴミ袋や段ボールが放置されていた。


「どうしようサユリン、なんか、家坂に似ていたの! そいつがじっとこっち見ていたんだよお、怖いよお」


 夜の道、外灯の下には誰もいなかった。

 そして小百合も、そんな若い男とはすれ違いもしなかった。


「泊まっていってよお、サユリぃん」


 ベタついた腕が、後ろから飛びついてきた。

 アルコールと烏賊のくんせいが混じった匂いの口臭がした。

 黒い虫が、ベッドの布団の中に潜り込んでいくのを見た。

 小百合の背中に、ざわりと寒気の虫が這った。


 その夜を境に、最も恐ろしい事態が小百合に振りかかってきた。

 理恵が一緒にマンションに住もうと言い始めたのだ。

 ストーカーが周りをうろついているという娘の訴えを聞いた理恵の母が、小百合の母にコンタクトをとってきた。


 小百合ちゃん、ウチの理恵と一緒に住んでやってくれない? 家賃と生活費は全額、ウチが負担するから。

 母にそれを聞かされた小百合の背中に、透明なナメクジが這いまわった。


「絶対にいや!」


 あの屋根付きゴミ集積場が目に浮かんだ。

 一緒に理恵と暮らすという事は、あのゴミ溜めで生活しろという事だ。

 しかし、娘のご機嫌と安全が一番の鎌田家には、何を言ってもしつこくいいくるめようとする。


 父が反対しているからと、なんとかして話を止めていた。

 ――どうやって、断ろうか。不安な状態が小百合には続いていた。

 一緒に住めば、悲惨な状態になるのは目に見えている。


「やっだぁ、また会っちゃったぁ。しかも、またこっち見てるしぃ」


 大学のカフェテリアのテーブルで、家坂の姿を見つけた理恵が遠慮のない大声を上げた。


「昨日の晩もねえ、マンションの前で変な奴うろついていて、理恵を見たらパッと逃げたの。真っ赤なシャツを着ていたのよ。ほら、あんな感じのシャツぅ」


 制止したり咎めたり、下手に刺激すれば、何がどう出るか分からない。

 こういう時の理恵は、ほとんど恐怖だった。

 小百合は何も言えずに、スプーンでカレーをすくった。


「もー最近、携帯に変な無言電話がかかってくるんだよぉ、ねえ、これってどう思う?」


 理恵が携帯の履歴を突きつけた。非通知の表示の羅列がある。

 その間にも、理恵はちらちらと家坂の座っているテーブルを見ている。

 見え透いたアピールと意識だが、家坂は他の生徒に囲まれて、こちらのほうを一瞥すらしない。


 もういいじゃないの、と小百合は悲鳴を押し殺した。

 こっちを見た見ないが、好きかどうかに飛躍するなんて、小学生じゃないか。


「ねえ、サユリぃん、一緒に住もおよお」


 小百合は聞こえなかったフリをして、カレーを口に運び続けた。


「お母さんも、サユリンとならって、一緒に住む新しいマンションを大学の近所で探してくれて、メールのファイルにつけて送ってきたんだよ。あとで一緒に見ようよ。間取りとか場所とか」

「お父さんが、反対しているって言ったでしょ。無理よ」

「関係ないじゃん、そんなの。ねーえ、楽しいと思うよお。私、サユリンとなら絶対に上手くいくと思うんだ。それにさ、ママもサユリンと一緒に生活するなら、仕送り、2人分にもっと上乗せしてくれるって。サユリンだって、いつか家を出たいでしょ」


 べとつく声が、聴覚に絡んだ。


「それにさ、一緒に住んだら、リエ、サユリンに朝、起こしてもらえるじゃん。遅刻の心配なくなるし、イイことづくめじゃん」


 聞くに堪えず、理恵は視線を転じた。そこには家坂が映っている。

 ふいに何を思ったのか、一瞥すらしない家坂をどう刺激しようと思ったのか、理恵はひと際大きな声を上げた。


「あたしさあ、親同士の決めた婚約者がいるんだよねえ」


 小百合は思わず、スプーンを止めた。

 話の流れが、全く分からない。

 ……カフェテリアの喧騒が、一瞬かき消えた。

 落ちつかない空気の中、朗々した声が流れる。


「今ね、フランスのハーバードに留学しているの。卒業したら結婚することになっているんだぁ。それだからあ、彼、それまで、小百合のことすっごおく心配してるんだぁ。誰かにつけ回されているかもなんて、こんな事が起きているって知ったら、カレ、どう思うかなぁ」


 隣の席に座っているグループの女子学生が、真っ赤な顔をして口を押さえている。

 その横の男子生徒2人が、互いに目配せし合っていた。。

 自分達を取り巻く、憐れみ混じりの好奇心。

 理恵はご満悦だ。


 この視線を羨望だと、脳内ですり替わっているのだろうか。

 カレーを半分残し、小百合は立ち上がっていた。


「ごめん、ちょっと」

「えー、トイレ?」


 小百合は、洗面所へ向かった。いたたまれなかった。


「……どうしよう」


 小百合は洗面所で、手だけを洗った。

 もう無理だった。

 理恵と縁を切りたい。マンションに同居、フランスのハーバードに留学している婚約者。


 もう無理だ。

 限界が来ていた。

 自分の立場に、危機感が芽生えている。

 このままでは、高校の時と同じだ。


 楽しい大学生活どころか、同居という話にでもなったら、理恵に24時間を侵食される。

 このままだと、人間関係が広がらないどころか、自分自身が腐敗するかもしれない。


 だが、理恵と簡単に縁を切れるだろうか。

 ――突然、声をかけられた。


「……岡田さん?」


 鏡越しに自分を見る娘。

 小百合は振り向いた。


「あー、ええと……」


 名前が出てこない。焦る小百合に、彼女は何気なく外へ指を向けた。


「家坂くんが、洗面所の外で待っているって」


 え? 小百合の呼吸が止まった。

 

 ――家坂が、本当に外にいた。

 小百合の心臓はガンガンと、音は脳内まで響き渡った。

 理恵の事だ。

 反射的にそう思った。


 きっと、何か言われるに違いない。

 逃げ出そうか、そう思った瞬間、家坂が小百合の目の前にいた。

 逃げ損ねて、声を失う。


「あの、岡田さん」

「ハ、ハぃ」


 声がみっともないほど裏返った。

 当り前だが、本物の家坂だった。

 涼しげな目が小百合を見る。羞恥で砕けそうだった。


「あの鎌田さんてヒトの事だけど」


 ああ、やっぱりだ。小百合は情けなかった。


「誤解されたら、すごく嫌だから……これだけは言っておこうと思ってさ。俺、いつもあの人を見ていたんじゃないから」

「分かっています。ええと、迷惑かけて……」


 ごめんなさい、何故か謝りかけた小百合に、家坂の声がかぶさった。


「……鎌田さんじゃなくて、隣の岡田さんを見ていたんだよ」


 思いもよらない、家坂の言葉。

 小百合はその意味をとらえかねた。

 家坂の表情を見て、その意味を探そうとしたが、その答えを家坂は口にした。


「俺と、つきあう事を考えて欲しい」

「……」


 小百合は、呆然と家坂を見つめた。

 口が、勝手に動いて言葉を作った。



 ――理恵の欠席が目立つようになった。

 やっぱり理恵には一人暮らしは無理だったと小百合は思った。

 元々、理恵の性格では独り暮らしには向いていない。


 朝に起きられず、出せないゴミを部屋に溜めていた現場を見ても明らかだったが、家事は全く出来ない。

 手伝いすらした事が無いという。

 それでも親が一人暮らしを許したのは「いざ1人になれば、自分で何とかするようになるだろう」と期待して考えたからだ。


 しかし、その期待と目論見は完全に外れている。

 依頼心が強く、だらしない性格に「いざ」は無い。

 監視する人間がいないので、理恵は転がり落ちるだけだった。


 もはや、理恵の生活サイクルは、完全に狂っているようだ。

 恐らく夜更かしで朝が起きられないのだろう。

 大学の近所に住んでいるに関わらず、朝一番の講義は、全て遅刻していた。


「ねーえ、サユリン、モーニングコールしてぇ」


 小百合としても、何度もコールしたのだ。

 玄関まで迎えに行った。

 それでも起きなかった。

 遅刻が重なると、講義に出る事自体がめんどくさいと言い放ち、午前中の講義は全て欠席の日も重なってきた。


 このままでは、出席日数と単位が危ないと、学生課から警告が出る。


「いっそこのまま、退学してくれないかな」


 小百合としては、これが正直な希望だった。

 やがて、理恵が大学に来なくなった。

 メールや通話すら、ほとんど来なくなった。

 気にはなった。


 大学の帰りにでも様子を見ようかと、ちらりと考えたが、いつか助けに呼び出され、無理矢理泊まらされ、虫が這う毛布で寝た日を思い出すと、足がすくむ。

 そして、小百合の周囲に人が集まり出していた。

 小百合も周りに入っていけるようになっていた。


 他の生徒とおしゃべりし、サークルの人と遊びに行く。

 夢が手に入った。

 理恵がいれば、実現不可能な日々だった。


「俺にとっちゃ、アレが退学すれば万々歳だ。祝賀会を開いて、シャンパン抜いてやるよ」


 言い放ったのは家坂である。

 サークルのイベント、ボーリング大会の後の帰り道。

 大会の後の打ち上げに参加したので、大分夜も遅くなった。

 家坂が小百合を送ってくれている。


「だって、小百合が最初に、俺と付き合いにくいって言ったのも、あのドブタのせいだろ」


 家坂の声が、毒刃のように尖った。


「……うん」


 家坂のことは好きだ。あの日、そう想いを告げた後で付け加えた。

 もしも、家坂と自分が付き合う事になれば、あの理恵は絶対に発狂する。

 何をするか分からないと、それを正直に家坂に伝えたのだ。


「俺も、小百合がそう言うだろうな、とは薄々気がついていたんだ」


 家坂は忌々しげに言葉を吐いた。


「サークルの紹介で、小百合を見て、その隣のアイツを見た瞬間に、すっげえ気分悪くなったよ。なんであんなドブタがこの子の隣にいるんだって、あの化け物は俺にとって邪魔だと直感で分かった。ハイキングの時も、小百合に話しかけても割り込んできやがるし、ベタついた汚ねえ手でやたら俺に触ってきやがるし、触られた場所が腐っちまうかと思った」


『ドブにいるブタ』という意味で、家坂は理恵をドブタと呼んでいる。


「俺がアイツに惚れてるストーカーだって思われていると分かった時は、全身の毛穴から見えない血が吹き出したよ。おまけにあの腐ったドブタ、高校の三年間ずっと小百合に憑依していたんだろ。小百合が悩んでいるって分かった時は、頭の中が噴火した」


 つないだ手が、ぎゅっと握られた。痛いほどだった。

 いつもは優しい家坂だが、理恵の事となると、人が変わったように口汚くなる。


「しかも、小百合に一緒に住もうだって? あの臭い化け物の巣にかよ。ドブタはドブタらしく、ゴミに埋もれて勝手に死んで腐ってろ。蛆に喰われちまえ」


 ストーカー扱いされていた事もあるし、理恵を蛇蝎のように忌み嫌うのも仕方が無いと思う。

 しかし不思議な事に、家坂は最初から自分と理恵の高校生活を知っていた。


「……あれ? 小百合の家はこっちの方向じゃないの?」


 道を右に曲がろうとした小百合に、家坂が怪訝そうな顔になった。

 どうして知ってるんだろう。

 家坂はまだ、小百合の家を知らない筈だ。


「コンビニに寄ろうと思ったの。弟からシャープペンの芯買ってきてってメールが入ったの。まだ勉強してるみたい」

「幸二君、結局、予備校どこを選ぶの? 三谷? 光明義塾?」


 シャープペンの芯をレジに持って行く小百合に、家坂が聞いてきた。


「光明だって」

「俺と一緒だ。あそこ、イイよ」


 さっきの悪態が嘘のように、家坂が笑った。


 もうすぐ、ドイツの有名な美術館のコレクションが来日すると、サークルの中で話題が上った。

 日本でも有名な印象派の画家の絵画が、初来日で展示されるという。


「遊んでばっかりだし、たまには高尚な場所に身を置こうか」


 大学の共有室で、サークルリーダーの上級生が笑った。

 部員たちが拍手した。

 参加する奴、手を上げてと号令が入ると、次々と手が上がる。


「18人……あと2人いないか? 団体割引が使えるぞ!」


 家坂が突然小百合の手を掴んだ。

 驚く小百合に悪戯っぽい笑いを返し、掴んだ小百合の手と、自分の手を上げる。


「幸せなお前らに、団体割引なんか使わせたくねぇなあ!」

「家坂、入場料2倍払え!」


 笑いの渦の中心で、家坂が男の部員あちこちからこずかれている。

 小百合は幸せな羞恥に身を縮こませ、止みそうにない冷やかしの中に身を浸す。

 ――どぅん、と鈍い音が響いた。


 部屋に臭気が拡散し、笑い声が消えた。

 部員たちが音の方向に振り向いた。

 最初は、こう思った。大きな生ゴミの塊が、部屋に放りこまれたのだと。


「ごぉのぉっ悪魔ぁぁぁっ」


 狂った音声が、共有室に爆発した。


「しんじゃぇえええっ」


 家坂にのしかかる、髪をふり乱した巨体の姿が、小百合の目を貫いた。


「りえっ」

「あくま、あくまぁーっ」


 人間の声ではない、怪鳥の雄叫びを上げて理恵が家坂にしがみつく。

 他の部員たちが何とかしてはがそうとし、振り落とされた。


「あんた、リエを、リエのことぉお、リエをォォっ好きだって、好きだってぇ! そお、おもってたんだよぉぉっ」

「やめてっ」


 小百合は、家坂への狂気、殺意で出来た理恵にしがみついた。

 生ゴミ、アンモニアに酢酸が混じる、生々しい臭気持つ理恵は、人外の化け物そのものだった。


「ぎゃあああーっ」


 人間団子になりながら、ようやく家坂が理恵から引き離された。

 理恵は捕まった手足を振り回し、男の部員を振り払い倒した。


「警察! 誰か呼んで来い!」


 理恵が逃げ出す。

 小百合は、家坂に駆け寄った。

 家坂の頭から、血が流れていた。



 許さない。

 小百合の頭は怒りで焼かれ、心は氷のように凍てつく。

 家坂は救護室に連れていかれ、頭に処置を受けた後に病院へ行った。

 サークルの上級生2人がそれに付き添った。


「小百合は、家に帰っていろ。外に出るんじゃないよ」


 何度も家坂はそう念を押した。


「あの女、狂っている。何をするか分からない」


 小百合にとって、理恵はすでに嫌悪を越えて、憎悪になっていた。

 皮下脂肪と妄想にまみれた女が、何かのはずみで家坂と自分のことを知ったのだ。

 家坂という幻想を失って頭が狂ったとしか思いようがない。 


 自業自得の生きた凶器が、家坂を傷つけた。

 外に出るなという家坂の言葉を放り出し、小百合は理恵のマンションの前に立っていた。


「りえっ」


 拳でドアを殴った。


「出てきなさい! あんた、謝りなさいよ! あんなことして、それで済むと思ってんの、このブタ! キチガイ!」


 ドアのノブを掴んだ。たやすく回った。

 開いていた。

 踏み込んだ瞬間、小百合は凶悪な腐臭で呼吸困難に陥った。

 閉め切ったカーテン、プラスチックとビニール、食べ物の残骸の埋め立て地。ベッドの上に、布とゴミの小山があった。


「……いるの……?」


 小山が動いた。

 サユリン、と唸り声がした。


「り……」


 小山に顔があった。

 脂肪と涙で垂れ下がった、リエの輪郭はすでに人の形ではないようだった。

 肥満していた以前より、さらに肥えた体は、体ではなくて肉塊だった。


「いえさか、いえさかがああ……」

「いい加減にして!」


 過去現在、全ての想いが凝縮した。


「まだ分かってないの? 家坂くんは、あんたのことを好きでも何でもない、あんたが勝手に家坂くんをストーカーにして、遊んでいただけだ! この誇大妄想狂!」

「ちがう……」

「何がどう違うの! もういい加減に現実見なさいよ、このまま甘ったれたいなら、人目につかずにこのゴミ溜めの中でじっとしてなさいよ! 迷惑よ、迷惑どころか……!」

「ぢがうぅっ」


 雄叫びが小百合の声を叩き落とした。


「いえさかは、いえさかはリエのストーカーだよおお」

「まだそんな事……」

「大学来るなって、来たら殺すって、毎日毎日りえの携帯に着信してきたのっ」


 空白が出来た。

 脅迫してくるようになったんだあ、と理恵は吼えた。


「殺す、来るなって、何十件もメール来て、朝、講義に行こうとしたら、部屋の前に死んだカラスが置いてあって、鳩が死んでたことがあって、ドブねずみとか、まいにちまいにち……新聞受けに、ゴキブリが入ってて、もうへやから出られなくなって……」

「……」

「あくまだよお、あいつぅ……」


 うおぅ、うおぅと唸る理恵へ、小百合はようやく口を動かせた。


「……その携帯、見せて」


 もしも話が本当なら、履歴が残っているはずだ。


「さっき、こわくて川に捨てた……もういやだ」

「……この……」


 小百合の頭の中が漂白された。

 もう駄目だ、この女は、駄目だ。


「ほんとうだよぉ、殺す、このドブタって……おまえが邪魔だって」

「ドブタ?」


 理恵を罵る、家坂が浮かんだ。

 理恵がいるから、付合えない……確かに自分は、そう言った。


「しんじないの? サユリン、しんじないんだアっ」


 音域の高い怒声を上げて、理恵が詰め寄った。

 見たこともない憎悪が表情を焼きつくしていた。


「これから来るんだってさぁアッ、リエ殺しに、殺しに来るんだよぉぉっ」


 自分が殺される、小百合は感じた。

 誰か来て……しかし、このマンションの防音は完全だった。

 管理人もいない。

 足がすくむ。伸びた理恵の手が、小百合の首を掴んだ。


「キタぁーっ」


 ぎゃはぎゃはと理恵が笑う。

 咽喉で悲鳴が凍りついた小百合の首を掴み、作りつけのクロゼットを開けた。

 クロゼットの狭い空間に小百合は押し込められた。


「きたきたぁっイエサカきたあぁっ」


 玄関の開く音。そして閉まる音。

 ほらきたあ。理恵の声が響く……人の気配が増えた。

 アコーディオン型のクロゼットの戸が、わずかに開いている。

 小百合は隙間から目を凝らした。


 驚愕は、頭の芯を痺れさせた。


「……ドブタ」

 毒を煮詰めたような声。


「俺と、小百合の邪魔なんだよ」


 ひいひいと理恵の呼吸が聞こえる。


「りえのこと、きらい……?」


 小百合を優しい言葉で包んでいた口が、しねよ、と動く。

 手には荒縄があった。

 ぐるんっと理恵がこちらを振り向いた。

 涙で溶けた目が、小百合を射抜く。


 クロゼットへ、助けを乞う手が伸びた。

 理恵の首に荒縄が巻かれる。

 ばたばたと、理恵の腕が小百合へともがく。

 その無言の懇願を、ただ小百合は見ていた。


 ぐぎゅうううと、理恵の咽喉が鳴る。

 家坂は理恵を背負うようにして、首に巻いた縄を引く。

 ――家坂くん。


 小百合の高校生活の事を最初から知っていた。

 家への道も。

 そういえば、何故、弟の予備校の事を知っていたんだろう。

 家坂にとって邪魔者として、理恵は最初から探られていたのか。


 理恵の顔が赤黒く膨張し、白目になった。

 呼吸できない口から舌が突き出る。

 小百合は、殺される理恵の様を見ていた。


 それでも、理恵を助ける気はなかった。

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