緯度

高峰一号店

第1話

 矢田千秋は、幼い頃に両親が離婚した。親権は父親がもった。母親は離婚後、ほどなくして再婚し、子供も生まれて新たな生活に収まったので、その後、数回しか会っていない。

 技術者であった父は、男手一つで千秋を育てた。技術指導者としてシンガポールの専修学校の教師に招聘されたのを機に、未成年だった千秋を伴ってシンガポールに移住した。千秋はそこで、大学まで進学し。大学を卒業して2年後に大学の同級生で、中華系のチャン・マハルスと結婚した。


 千秋は少女の頃、秋になると心変わりをすることで友達の間で話題になった。まだ日本にいた頃、秋になると、彼氏と別れるということが何年か続いたのである。

 千秋も秋になると心変わりをする自分の性格を気にしていた。小学生一年生のとき、夏休みの間は日記にも書き、絵にも描くほどかわいがっていた飼い犬への愛着が、秋になると急に冷めて、「もっと小さなかわいい子犬が飼いたい」と駄々をこね、父親にひどく叱られた記憶があった。彼氏ではなかったが、飼い犬という愛着をもっていたものが突然変わってしまったことでは共通していた。


 シンガポールは常夏で秋がない。それに、千秋も、もう大人になって落ち着いていたから、時期によって激しく心変わりをするということはなかった。それでも、チャンと交際していた頃から、秋に四季のある所への旅行はなるべく避けていた。昔の心変わりの癖が出るのではないかと不安になったからだった。彼にも秋の旅行を嫌がる理由を告げていたが「そんなの偶然だよ」と取り合わなかった。実際、チャンとは秋に二度、日本に旅行に行ったことがある。そして、何も起こらなかった。ただし、このとき千秋は思った。

「日本の秋って、こんなに暑かったっけ?」


 チャンは有能な人だったから、入社して数年後に、重要なポストを与えられてオーストラリアの大都市シドニーに転勤することになった。二人にはまだ子供がなかったので、千秋もチャンと共にシドニーに行くところだったが、折悪く父が体調を崩して入院していたので、チャンは単身赴任となった。

 看病の甲斐なく父は亡くなった。千秋の気持ちが落ち着くのを待ってチャンは千秋に言った。

「そろそろシドニーに来ないか? いつ子供が生まれてもいいように、家探しをしていたが、いい物件が見つかったので、一緒に見てほしい。」

 千秋はそれでもシドニーに行くことに同意しなかった。あまりに千秋が同居を拒むので、チャンはさすがに疑心暗鬼になった。それで、自分の同族で子供の頃からの知り合いの男が探偵をしていたので、彼に依頼し、千秋に浮気相手がいるかどうかを調査してもらった。結果はシロだった。探偵の報告にはこう書かれていた。

「出来うる限りの調査を試してみましたが、奥さんに浮気を疑われるようなところは一点もありません。」

 チャンは改めて強く千秋に同居を求めた。千秋もいつまでも彼を拒むことができず、シドニー行く決心をした。南半球なので日本とは逆になるが、秋のことだった。ところが、次の年の春に二人は離婚した。シドニーでの生活が始まって以降、二人の間に諍いが絶えず、半年も経たずして破局することになった。


 千秋はこのままシドニーに住み続ける理由がなかったし、日本も、もう故郷ではなかったので、シンガポールに戻ることにした。

 千秋は、シドニーからシンガポールへと向かう飛行機の中で、半年前、シンガポールを発つ前に、行きつけの喫茶店で知り合った男の名刺を眺めていた。愛嬌がよく、知性を感じさせる中華系の男だった。男のほうから話しかけてきて、それ以来何度か同席した。男は聞き上手で、千秋も話しやすい人だと思って、知り合ったばかりなのに、いろいろなことを話した。そのときは世間話をする程度の仲だった。それでも気になって名刺は捨てなかった。

「また、あの店に行ったら会えるかな?」

 そう思うと、千秋は離婚後初めて心がワクワクするのを感じた。


…完…


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

緯度 高峰一号店 @takamine_itigouten

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る