22世紀エロース
湯
第1話完結
Y博士はついに完成させることができた。
「この薬があれば、この憂鬱で無感情な社会を救うことができる」
今や社会は感情を失ってしまった。テクノロジーの発達と引き換えに人間は感情を失った。いや、ほぼ失ったも同然。仕事や家事をしても一切の感情なしにただ淡々と事務的にこなす。
ニュースで銃を手に攻め込む兵士の顔を見た。頬ひとつ動かさぬロボットにしか見えない。今や何の目的に争っているのかも知る由もない。淡々と殺し合う。少子高齢化が言われ続けてきたらしいがほぼ高齢化の一本だ。
「それはどんな効果があるのです。」
助手は蒼白ながら期待の目で聞く。
「好きという感情は知っているか。対象のものと同時に1錠飲み込めばそやつに対して好きという感情を抱くことができる。」
「学生の頃に文献で読んだことがあります。しかし、好きとは一体どんなものなのだろう。」
「ひとつ飲んで試してみよう。そこにある桃と一錠を同時に飲み込んでみなさい。」
助手は桃一切れと黄金色一錠を薄い頬に放り込んだ。
「一晩眠れば効果が出る。もう散々疲れたに違いない、今日はもう就寝しよう。」
「叔母の家のような匂い、あれはマニキュアといったか。」
Y博士は、はるか昔の夢と共にみずみずしい音で目が覚めた。自動起床システムに乗じて体を起こす。
「まだ10時であるぞ。今日はやけに早いな」
助手と冷蔵庫に目をやりながら言う。
助手は桃を食べたい、という思いから目が覚め気づいたら、昨日のモモの余りを頬張っていた。
「これが好きというものですね。手が止めることができません。」
助手は初めて好きという感情を認識した。論理で語れぬうちから湧き出るこの感覚。Y博士はすぐに記録をとった。
「この研究は成功だ。今すぐ世に広め普及させねばならぬ。早急に社会を救うために。こちらの解毒薬はひとまず使用しなさそうであるな。」
Y博士は鉛色の錠剤が入った小瓶を仕舞いながら言った。
「さて、私も好きという感情を体験してみたい。私にも桃をひとつ分けてくれ。」
助手は少し間を置きながら鈍い動きで一切れ渡した。Y博士も桃一切れと黄金色一錠を放り込んだ。
「私は別のものを食べてみます。なんせY博士も桃を食べるとなると、すぐに無くなってしますので。」助手は、次は黄金の薬とりんごを頬張った。
翌日、二人は目を覚ますと果物を頬張っていることに気がついた。Y博士は桃を。助手はりんごを。
「これが好きという感情か。何とも素晴らしい。好きな物があれば生活にハリが出そうだ。国民が皆、熱中できるものがあればどれだけ良い社会にあることか。」
Y博士は桃を口に含ませたまま言った。助手は昨朝と同じようにりんごを詰めながらも、体調がいつもと違うことに気がついた。体が少し熱っぽかった。鼓動が全身に反響し、Y博士と目を合わせられない。Y博士に対する好意を持っていることに気づいた。ここで昨日りんごを食べた際、微かに感じた口の中の違和感を思い出した。デジャヴのように、いやデジャヴではないのだが。助手はりんごに付着したY博士の髪の毛をも口に含んでしまっていたのだ。どうやらこの薬は対象が人間でも効くらしい。人間の一部を含むことも効果があるようだ。
「言いづらいことなのですが、Y博士に対しても好きみたいです。どうやら髪の毛がりんごに付いていたようで。」
「私もお前に対して好意があるようだ。」
そう、二人はお互いの髪を気付かぬうちに食べていたのだ。
Y博士はこの感情を皆に味わってほしいと思い、助手との幸せな生活を送りながらも、薬の大量生産をすることにした。助手とともに生産し始めたのも束の間。平常と比べありえない速度で黄金の粒が増産されていった。Y博士と助手は、相手の役に立ちたいという強い感情と機械のようなシンクロにより驚くべき効率で生産を進めることができた。さらに人類全員にと、共通食に粒を混入することにした。自らの髪の毛と共に。この世界において栄養食は人類皆食べ、共通言語ならぬ共通食となっている。気付かぬうちに共通食を摂取するものは皆二人の虜になっていった。
ある晩、無審査での薬の製造を取り締まるため警官たちが二人を逮捕しにやってきた。しかし、もう手遅れ。玄関先の照明に当たる二人の顔を見るなり、秘密裏に見逃してくれた。昨晩食べた栄養食に製造者の髪が混入していたのだ。好意の力は恐ろしいほどに強大である。
Aを好きなBの毛を食すとBだけでなくAに対しても行為が湧くようになる。Aが好きなBの遺伝子が黄金の薬と作用したためである。Aが好きなCさらにCはDが好きなEの毛を、F,G,H…。このようにしてこの星に住む人類はほぼ全ての人類のことに対して好きになった。もちろん共通食は戦前の兵士たちにまで配食された。やがて体内に入り、目的なしに殺し合っていた兵士でさえ敵と互いに好意を持ち、停戦にまでつながった。さらに高齢化で人口の減少が問題とされていたが、好きが溢れるようになり人口が莫大に増加していった。世界に平和と活気が生まれた。
「この薬のおかげで社会が良い方向に向かっている。ここまで効果があるとは思わなかったが。とにもかくにもお前と生活することができていることが何よりだ。」
Y博士は緩んだ頬で語りかける。
半年ほど経た後、奇妙なことが起き始めた。次々と人が人を食べ始めたのだ。遥か昔に存在していた部族が思い起こされる。「食べてしまいたいほど可愛い、好き」とはこのことを言うのだろうか。好きと言う感情に集中すると、人は愛する人を食べたくなる衝動に駆られるらしい。彼らは嫌い、悲しいといった抵抗の感情が相対的に少量であるがために衝動に抗う事ができない。その感情が生じる余地もない。しかし、これで食糧不足も解決した。
「やや強引であるものの、愛する人に食されれば本望であろう。」
Y博士は満足そうに窓の外を一望した。
Y博士は様々な社会問題を解決し、さらに好きという何とも素敵な感情を人々に広めることができ満足し、ほっこりする日々を送っていた。最近では町中に笑い声が増えたような気がした。外出の際には街角から突然ツボに入ったような笑いが次々と。Y博士は何度か外出をするうちに違和感を感じ始めていた。
ある日、ふと何気なくニュースをつけた。そこには「クールー病、世界的蔓延」の文字。この病、人肉を食すと、突発的な笑いを見せるようになり、いずれ死ぬらしい。はるか昔の部族で流行したことがあるとも報道されていた。Y博士は急いで鉛色の解毒薬を取り出そうとした。その瞬間、Y博士は温かい感触を手に覚えた。自分が二の腕を食べていることに気づいたのだ。さらにそれが愛した助手であることにも。 Y博士は目柱に痛みを感じながら、また微笑を浮かべながら、鉛色の薬を一粒飲み込んだ。
「これでよかったのだ。」
<了>
22世紀エロース 湯 @yunonononomi
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