第2話
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「全く、いけ好かない顔よね」
作業台のまな板に乗ったガウルの頭部は、黒っぽい外骨格に覆われていた。昆虫然とした複眼が飛び出し、にもかかわらず深海魚に似た巨大な顎が付いている。びっしりと並んだ細かい歯牙には乾いた粘液が絡まり、まさに凶悪な容貌と言えるだろう。頭から爪先まで、全体を合わせると大型バイクほどのサイズになる。四足と翅をもって空を飛ぶ。そして歩く。実に不愉快極まりない生き物だ。
黒い前掛けを着けたスヌードは刃渡り一六〇ミリの中華包丁で上顎を持ち上げた。前掛けの裾(すそ)で刃を拭うと頭蓋の解体に取り掛かった。固い外殻は銃弾さえ弾き返す強靭なもので、なので継ぎ目から筋肉組織に沿って刃先を入れる。頭頂背後から差し込んで殻を剥ぐと大後頭孔(だいこうとうこう)を開いた。不思議と中身は人体と似ている。指先を使って慎重に前頭骨まで取り去ると、黄土色の脳髄が顕わになった。スヌードは皮肉に眉を持ち上げた。
「まるでタイプじゃない」
隣りの解剖台には腹を上にした首無し遺骸が載せてある。三日月形の鉤爪の付いた四足、二対の翅は外してあった。腹部外殻を外し、はらわたを熱心に掻き混ぜている男はハミー博士である。髭面、太鼓腹、アラブ的な浅黒い顔立ちで目だけがぎょろりと飛び出している。ガウルとどっこいどっこいの容貌のハミーは、目もくれずにスヌードを窘(たしな)めた。
「文句言ったところで、急にお前さん好みにはならんだろ?」
そう呟き、顎で壁を指した。部屋の片隅にスヌードが貼り付けたピンナップが見て取れる。飽食の時代、アメリカ大陸にあったとされる(ハリウッド)と呼ばれた芸人組合の男の子たちだ。どの子もすらりと背が高く、セクシーでハンサム。
スヌード自身、フランス風味の黒髪色白高身長と言う三拍子揃った外見なのだが、行き過ぎた手入れが裏付けているのはそれ。ストレートでないセクシャリティである。
「馬鹿ね。もしもそんなだったら、俺がここに居着くわけないじゃない」そう言って含み笑いを浮かべる。刃先の穴から博士を覗いた。「素敵な楽しい子は、どこ?」
ハミーは目尻に笑い皺を作った。
「近頃のデート事情はどうなんだ?」
スヌードは中華包丁を下ろした。
「何? センセー、興味あるんですか?」
ハミーはこくりとうなずき、「そのくらいの向学心はある」
スヌードは品定めでもするようにハミーを眺めた。一見して五十代、初老に見えるハミーだったが、その生存年齢は聞いていない。長い付き合いなのに知らないことは意外に多い。別に興味がないから仕方ないけど。
スヌード自身は外を知らないコロニー生まれのコロニー育ちで、(壁の門)からは、ほぼ離れずでやってきた。心身ともに違和感のない、二十五歳の若者である。
「それは前向きですこと、センセー。そういうところ、尊敬してますよ」
ハミーは言った。
「ま、休む時は先に言っといてくれ」
スヌードは大仰に驚いて見せた。
「あらあら? その時はごめんなさいでしょ?」
ハミーは腰をさすりながら伸びをした。
「また私に助手探しの手間を掛けろって、か? 君には悪いけど………そうならない方に二千パスカだ」
スヌードは煙たげに顔の前を払った。
「人の恋路で賭け事なんてサイテーね。どの道、うまくいったら俺はいないんだから、チャラでしょ。そこんとこ、わかってます、センセー?」
ハミーはわざとらしく、膝を叩く素振りで同意した。
「なるほど。ハハハッ、そりゃそうだ」
スヌードは首を振り、上機嫌なハミーを揶揄した。
「計算弱いんだから、センセー。賭け事なんて無理無理」
ハミーは薄笑いを浮かべ、うそぶいた。「良く言うだろ? 人は見掛けによらずってな。 こう見えて私、理科系じゃないんだよ」
ハミー博士の研究所、というべきか、その触れ込みの掘立小屋は(壁の門32)から七百メートルほど離れた位置にあった。モンゴルのゲル、あるいは中国名でのパオと呼ばれるテント式の住居だ。屋根や外壁に防塵処理が施してあるせいで移動は不可。言うに及ばす、これは時間降塵への対策である。
軒先を潜ると中は意外に広く、七十平米ほどあった。丁度3LDKが収まるくらいであろうか。居室と実験棟と称した流し場が間仕切りで二分されている。全体に染み付いた生臭い悪臭は魚市場と似ている。水道、ガス、電気、その他、ライフラインに関わる導線は(壁の門)の共同溝からこっそり拝借していた。
多少の罪悪感もあるが、この情勢で綺麗事を言ってる馬鹿もおるまい。人間が避けられないものの例えとして出される死と税金。真っ当なサラリーを貰わなくなって、そっち方面はすっかりご無沙汰していたが、それに関する当面の方針転換はなしである。
ハミーは昨今の石油危機に乗じた有機石油生成を目指す山師の一人であった。ハミー・ヘムレン・ニジンスキー・ジュニアは、前職を問えば図書館の司書であった。西アジアの中心部がまだペルシャ湾南端に存在していた頃の話である。数年間蔓延した伝染性ウイルス疾患の猛威で妻子を失う。ハミーは土地の荒廃に追われ、逃げるようクウェートに辿り着いた。
廃人同然で彷徨うハミーは、しばらくの間、湾岸地区の空き倉庫で過ごしていた。頼る当ても仕事もなく、食うに困って裏家業に手を染めた。生来、荒事に向かぬハミーだったが背に腹は代えられず、地元の組織暴力が仕切る交易場の用心棒、自警団、長距離の人足さえやった。どれもこれもが歩合の日雇いで、時に不払いさえあった。あからさまに城塞内の安定職からは遠ざけられた。限られた仕事に何万もの人が群がるのだから致し方ない。(壁の門32)の場内は、一言さんお断りの格式だった。
当時のクウェートには(壁の門)が四十あまり存在して、人類文明の存続に奮励していた。それもこれも石油あればこそである。三百年前から稼働を続けるボーリング施設が存続し、精製設備も整っている。技術伝承が途絶える中、どうにかこうにかメンテを続けて来た。つまるところ人類は社会インフラ継承において、エネルギーを化石燃料から脱却出来ぬまま終焉を迎えたのである。
五十年前、突如ガウルが人類史に登場し、共存共栄の歩み寄りを図った。環境破壊による自然の猛威は厳しく、苦戦を強いられた人類は共に進む同志を得たと極めて楽観的に協調したのである。四十年ばかりはどうにか。が、ここに来て我々人類はそれをご和算にしようとしていた。ガウルに恨みはない。が、どちらか一方が生き残るとなれば当然、己を立てるが尋常である。
識者の知見によると地域一帯の石油残存量はおよそ二十億万バレルと分かった。全コロニー(壁の門)での使用を鑑みて、およそ五年分。そのタイムリミットが見えたのだ。これを部外のエーリアンと分け合って、など、土台無理な相談である。
ガウルは生きて(タクラ)は(マ)帰れぬ(カン)土地(砂漠)から現れた、この世界の新参者である。協定が非常時に覆ること。それは世の常である。言い伝えにあるように、どの民族もそれぞれ他より己ありきと考えている。これが愛国心を生み、その結果、世界戦争さえ引き起こす。互いに憎み合い、一方がいなくなるまで諍いは続くだろう。淘汰を勝ち抜いた生物と言うのは、そもそも了見が狭いのである。
スヌードはガウルの頭蓋から脳髄をスプーンで掻き出した。調理用の耐熱ボウルに二杯。容積とグラムを記載する。ハミーはハミーで選り分けた臓物をチェックし、ステンレスバットに取り分けた。
流し場奥に目をやると巨大な冷蔵庫に実験用ガウルの遺骸が積まれていた。なじみの自警団員から一山三万パスカで買い入れている。カチコチに凍った複眼の頭部が揃ってこちらを睨んでいた。ぱっと見、フローズン・ミートの食糧庫? そんな風にも見える。
「どうします? 挽き具合は?」
脳髄をミキサーに投入したスヌードは両手を拭き拭きハミーにたずねた。ハミーは臓物を肉挽き機上部のホッパーに移し替えながら答えた。
「中速で三分かな」
「歯磨きチューブくらいですね?」
「そうそう」
タイマーをセットするとスヌードは評した。
「腸詰めにして燻製、ボイルしたら正統派ドイツソーセージですよ。俺は粗挽きの方が好きだけど」
「料理は関係ないだろ?」と、ハミー。
スヌードはミキサーの蓋を押さえスイッチした。モーターの唸りを聞きながらハミーはカットプレートを3.2ミリに交換すると肉挽き機を正転させた。たちまち排出口から臓物細挽きスープが練り出して来た。バケツで受けている間にハミーは棚からバルブキャップの付いたカプセルを複数個取り出し、作業台に並べた。
「比率はこれで、な」
ハミーはそう言ってスヌードにリストを手渡した。ガウルのすり身の配合分量である。カプセルごとにバランスが変えてある。
この状態で配合すり身を投入し、カプセルの空気を抜いた状態で高濃度の赤の時間降塵タンクに入れ、およそ一週間。ほど良く寝かせる。言った通り、これは料理の話ではない。有機石油生成利権の一攫千金が掛かっているのだ。
理屈は至って簡単だ。石油の生成には幾つか学説があって、当時(三百年前、崩壊以前の我らが文明社会のことである)概ね、地質学者は生物由来説を支持していた。石炭や天然ガスのように石油は太古の生物遺骸が地質学的タイムスケールで圧縮された結果出来た、そう見ていた。この説によると石油は有史以前(古生代から中生代)の海洋生物や陸上の植物遺骸から形成されている。 百万年以上の長期にわたり厚い土砂の堆積層の下に埋没した生物遺骸は高温と高圧力によって化学変化を起こす。それが原油となった、という説である。
この世の中で、ある程度科学に関心がある者ならばこぞってこの実証に取り組んでいる。大量の生物遺骸と地質学的タイムスケールなど夢のまた夢。そう思いがちだが、人類の敵、ガウルの亡骸は幾らでも手に入るし、時間降塵の濃度を調整すれば膨大なタイムスケールすら手中に収まる。後はその成分の微細なバランス調整なのだが生化学的検証が過去のものとなった今、統計が全てということになっている。偶然か、はたまた奇跡か。そんな状態が続いていた。ハミーがやっていることも科学と呼ぶにはほど遠い代物で、根拠のなさをあげるなら十二世紀の錬金術師にも劣った。
ただ一つハミーに強みがあるとするならば、大半の似非(えせ)研究者よりも過去の資料に精通しているという点であろう。図書館司書を生業としていたハミーは二十一世紀初頭の学術論文に触れる機会があったのだ。
ペルシャ湾南端の首都圏、最大級の図書館では当時、最新の科学論文写本のプロジェクトが進んでいた。後世に繋げることを目的に三十人の司書が手分けして臨んだ。結局、感染症の蔓延で全て中断してしまい、首都そのものが放棄された。そして妻子の死で傷心したハミーは投げやりになって、無断で写本の一部を持ち帰ったのである。旅立ちの荷物に放り込み、今なお手元に存在した。誇るべき仕事の痕跡を残したかっただけかもしれない。クウェートに来て長い間放っていたが数年前、石油枯渇の話が持ち上がった折、気になって読み返したのである。
九〇年代から二〇〇〇年初頭に掛けての写しの中、日本の学術機関で石油分解菌の研究が行われていたことを知った。
研究室内の無酸素実験装置において、 相良油田から採取した石油分解菌オレオモナス・サガラネンシス(Oleomonas sagaranensis)HDー1株が、通常状態では石油を分解する能力を持ちながら無酸素状態におかれると、媒体から化学組成を取り込み、細胞内に油母(ケロジェン)とよく似た代謝物を作り出す、とあった。その後研究は進み、HDー1株の変種、石油生成菌は第十三変種まで作られたらしい。文献は研究の光明へ賛辞を送り、締めくくられていた。
ハミーはそこで閃いたのである。ガウルの生体スープを時間降塵で経年加速させても石油にならない。直観だがそう感じた。何の学識もないハミーの思い付きだが、研究というものは概ね宛て推量から始まるのである。きっかけはオレオモナス・サガラネンシスHDー1株、その第十三変種。このサンプルが必要だと感じた。奇跡を待つか、答えを知るか。ハミーは答えが知りたかった。
一昨年、ハミーは文献の残りを読むため、もう一度首都へ戻った。万全の装備で南下し、人っ子一人いない巨大建築のゴーストタウンへ赴いた。感染症はとっくに治まっていた。思い出の詰まった市中をうろつき、少しばかり感傷に耽った後、図書館へ戻った。残された資料は手つかずだった。一週間ほど腰を据え読み耽り、答えを見付けた。第十三変種のサンプルは日本国内の研究室に一つ。そして株分けしたもう一つを中華人民共和国湖北省武漢にあるウイルス学研究所で保管している。
アジアの最東端。現在、日本は国家として存続しておらず。となれば残るは武漢であろう。こちらはセーフティレベルの高い国家レベルの研究施設である。
果たしてどうやったら、そんな遠くまで行けるのか?
スヌードはきっちり指定通りの仕事をした。バルブ付きのカプセルが合わせて十二個。後は真空ポンプで空気を抜くだけである。
「出来ましたよ、センセー」
目を上げるとハミーは物思いに耽っていた。
「センセー?」
「おおっ?」と、我に返り、咳払いするハミー。
「良さそうだな。じゃ、次。ポンプ」
スヌードはポンプの管をバルブに繋ぎ一つずつスイッチした。やかましいモーター音と共にカプセル表面が僅かに引けた。
「先生、この間のやつはどうだったんです?」と、スヌード。
ハミーはタバコに火を点け、渋い顔でくゆらせた。
「ウーム、全くだ。全くもっての全然だったなあ。加熱炉で三五〇度に熱したけど、うまい具合に分離しない。見掛けはいかにもなんだけどね。若いって言うのかな? ちょっと醸造が足りない?」
「ワインじゃないですよ」
順繰りにカプセルを繋ぎながらスヌードはたずねた。
「やっぱりあれですか、決め手は? 先生が文献で見たっていう石油分解菌? 生成菌でしたっけ?」
ハミーは人差し指を持ち上げた。
「オレオモナス・サガラネンシスHDー1株。その第十三変種だ」
スヌードは鼻白んで眉を顰める。「それって本気で信じてます?」
ハミーは右手をひらひらさせた。
「私が信じないで、どうするよ?」
「そりゃそうだけど………」スヌードは人差し指を回しながら意味深に付け足した。
「あっちはどうなんです? ガウル王家、女王の血統、って話?」
「いや………」と、首を振るハミー。
「その血を持って望みを得んとする。女王の血統により世界は再生される」
そらんじたようにスヌードが続けた。
ハミーは鼻白んで首を振った。
「いやー、都市伝説だろう? ………大体、血の一滴で望みが叶うだなんて、それこそ漫画」
「ううん、民間伝承」と、スヌードが訂正する。
「ランプの精じゃないんだから。ただのお伽噺さ」
ハミーはそう言って肩をすくめた。
スヌードは口を尖らせ、反目した。
「俺はロマンがあって好きですけどねー。いずれにせよ、あてずっぽうはどっちも一緒。でしょ?」
そう揶揄され、ハミーは不貞腐れた。
「科学の進歩ってやつはだな、いつだって思い込みから始まるものなの」
「かもね。だけど………ロストテクノロジーの存在した三百年前でもわかんなかったんでしょ? 俺たちなんかでわかると思う?」
ハミーは言い返した。
「昔は時間降塵なんてなかったんだ。それだけでも有利だろ?」
この件を持ち出すと二人の意見はいつも平行線を辿る。
ハミーは上目遣いに呟いた。
「どの道どうにかしないと、俺たちの文明はここで終わるんだ」
スヌードは出来上がったカプセルを棚に仕舞いながら、投げやりにあくびを漏らした。
「俺は別に。構いませんけどね………」
ハミーは言葉を遮った。「馬鹿言うな。駄目だろ? もっと自分のやってることの意義を考えなさい」
「意義ねえ。………はいはいはい」
一段落付いてスヌードもタバコを欲した。近くに見当たらないのでハミーにおねだりする。ハミーは箱ごと投げて寄越した。一本取ると上品に火を点け、上向きに吹き上げた。
「そこまでこだわるのはやっぱり………奥さんと子供のせい?」
ハミーは返事をしない。ただ力のない薄笑いを浮かべただけだった。察してスヌードは小声で詫びた。
「………ごめんなさいね」
ハミーは吸いさしを床に叩き、テーブルに尻を据えた。額の皺を深めながらハミーは呟く。
「ま、どうかな? 過去との決別と言うか。………男のけじめだな」
スヌードは満面の笑みを浮かべると、真面目な空気を茶化した。
「そうは言ってもセンセー。アジアの端っこなんですよ。湖北省でしたっけ?」
「武漢だよ」
「飛んでいくか、船便か。はたまた陸路を渡るのか?」
ハミーは軽口で乗った。
「何時のチケットだよ?」
二人は顔を見合わせ、眉を持ち上げる。
スヌードは咥えタバコで中華包丁を構えると、目の前に横たわる首なしガウルを検めた。
「で? こいつ。どうシメてやりますか?」
ハミーはテーブルの角でタバコを揉み消した。
「安い豚肉と混ぜてな。ソーセージにでもするか? 粗挽きがいいんだっけ?」
「喜んで」
決して冗談ではなかった。ガウルの正肉は上質で癖がなく、シンケンクラカワと似た食感を誇る。無論、聞いた話ではあるが。ハミーもスヌードも試したことはなかった。これは精肉市場でも内緒の話だ。この加工肉卸しこそ、ハミー研究所の主要な資金源なのである。
スヌードは遺骸の開口部を検めると、横隔膜切除に取り掛かった。
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